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【いちぶん】
しかし、誰かといる時の自分は好きだ、と言うことは、そんなに難しくない。その人の前での自分は、自然と快活になれる。明るくなれる。生きてて心地が良い。全部じゃなくても、少なくとも、その自分は愛せる。だとしたら、その分人を足場に生きていけばいい。
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死の原因がはっきりした後は、内向きな思索が中心となる。
上巻に比べるとダイナミックな展開は少ない。
同じく生き返ったポーランド人や、自殺未遂者の社会復帰を助ける活動をしている人物などと出会い、死に方が人間のすべてを規定するのではないという考え方、人間は一つの決まった固まりではなく、さまざまな相手や場面によって違った人間になるという分人の考え方に触れる。
このような考え方は今現在苦しみを抱える人にとっては一定の救いにはなるのではないか。
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自分が自殺したことがはっきりし、次は自殺した理由を思い出そうとする。
「複生者」の集会で多くの出会いがある。
その中の一人から「分人」という考え方を聞き、救われる。
一度死んだ者として、死者を「残す」方法を模索する。
その矢先、複生者たちが次々と消滅し始める。
自分も近々消えるだろうと考える。
それまでに家族や親類との関係を回復するように務める。
関係が修復できたあたりでおそらく消滅する。
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上巻を読んで期待していたが、期待以上だった。
読んだ感じとしては、さらっとすぎず、難しすぎず、丁度いい。
中身は、上巻のミステリー要素からは変わって、
下巻は、人が様々な環境で生きる分人という考え方がメインだった。
よく考えられていて読んでいて、なるほどなと思えた。
最後一章くらいがちょっとクドイ印象を受けたけれど、
ここ一年で一番よい本だった。また読みたい。
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主人公のこと最後まであまり好きになれなかったけど、最後の一文に押し寄せる切なさに朝から胸が痛くて目が熱い。自殺する人は決してあなたたちがどうでもよくなったから死ぬのではなく、最後の最後まであなたたちを愛していたのだという、どこかで読んだ文章を思い出した。
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たとえ何度やり直す機会があったとしても、生きること死ぬことの意味は誰にも分からないし、そこに一つの正解があるわけじゃない。
だからこそ、人は何か拠り所を見つけてそれにすがって生きていこうとする。
主人公が出会った(平野啓一郎が説いている)「分人」という考え方も、その拠り所の一つだと思う。私自身、この考え方には納得するところがあり、「自分のすべてを丸ごと愛さなくてもいい」下p96 という言葉に、救われる人も多いんじゃないだろうか。
父親の死の真相という「空白」を満たすために、自らの姿を映像に残すが、それさえも不必要なものでは?と悩む主人公。会社内での不意に空いた「空白」はあっけなく満たされるし、満たされなければならないが、大切な人の存在が空けた「空白」は、結局何をもってしても満たされることはなく、むしろその「空白」と共に残された者は生きていかなければならないということだろうか。
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自殺について、分人の概念を用いて考えることで、以前よりも理解できるようになった。誰しも好きじゃない分人を少なからず抱えている。それでも、自分が生きたいと思う、好きな分人を足場に生きていきたい。
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後半、ドキドキしながら読んだ。読了後もその余韻が続く。愛する人をぎゅっと抱きしめて、その存在を感じたくなった。
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分人主義の信奉者である私にとっては、馴染み深い考え方が随所に出てくる物語だった。
主人公の徹生は自殺した3ヶ月後に「複生者」として生き返り、自分の死の真相を確かめようとする。
夫婦仲も良く可愛いひとり息子にも恵まれ、幸せの絶頂にいたはずの自分が、どうしても自殺するとは思えなかったから。例え仕事でストレスが溜まり自暴自棄になったとしても、例え憎い人間との諍いが心を荒ませていたとしても、妻や子の顔を思い出しさえすれば命を絶つことなど考えられなかった。
過去の出来事や感情と向き合ううちに「分人」という考え方に出会った徹生は、家族と生き家族を想う前向きで幸福な「分人」が、下衆な知り合いとの罵り合いで負の感情に支配された「分人」を消し去りたくて自分自身をまるごと消してしまったー自殺してしまったーという真相に辿り着く。
妻や息子、友人たちと二度目の人生を生き直す徹生だが、いつかは「複生者」が消滅するという事実を知り、どう消滅するのが家族のためだろうかと考え出す。
誰かが想定外の行動をとったと聞いた時、「まさかあの人が」と感想を抱くことがあるが、それはただ単に私の前での「分人」しか知らないが故の身勝手な心の動きなんだろう。
私自身もそうだが、いくつもの、何百何千もの「分人」
を生きている。上司や公然の面前では意識的に、友人や家族の前でも無意識的に別の分人を生きている。
嘘や建前というわけではなく、本音で正直に、別々の私を表している。そのことが本当によく分かる。
だから、よく知っているはずの人が思いもしなかった行動をとることはよくあることだろう。
加えて、仮に(究極的には自殺などのように)とんでもない人生の終わり方や想像もしてなかった一面を見せられたとしても、私がその人を想う時には私の前にいた「分人」を対象にしたい。私に見せてくれたその顔を、いつまでも覚えていたい。
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終わりが近付くにつれ、胸に迫るものが大きくなっていくばかり。溢れ出る感情を堪えることができませんでした。
こんなに色々なことを考えながら小説を読んだのは久しぶりで、この余韻はながーく続きそうです。
今思っていることはとても書き切れませんが、あまり重くない(語りやすい?)分人について触れてみます…
読み切るまで、分人に関するある一つの疑問が、ずっと胸の中に残っていました。
それは、「知り合いの数が引くほど少ない僕は、一体どんな分人を抱えているんだろう」というもの。
一人でいる間、僕の思考を支配しているのはどの分人なんだろう?とモヤモヤしていました。誰かの影響を受けているという自覚はほとんどないし…
うーんうーんと悩んだ結果、はたと思い当たりました。本との関係で生まれた分人かも、と。笑
「本は人だ」という言葉があるように(…ありますよね?ググっても出てこないんですが…)、本を読んでいくうちに、その本とのやり取りの中で生まれる分人があっても何ら不思議ではないのでは?と気付くことができました。
僕は、何を考えているのかよく分からない、とよく言われるのですが、もしかしたら本のせいかもしれないな、と妙に納得できる答えに落ち着いているところです。
物語に少しだけ触れると、終盤の「次の瞬間、いつフッと自身が消えてしまうかも分からない」という状況は、読んでいて本当に辛くなりました。
が、前触れもなく自分が消えてしまう、というのは、通常の人間にとっての死にあたるものではないかと考えました。
僕は、自分自身がいつ死んでもおかしくない、とたまに思い出しながら生きています。外を歩いている間、いつ車が突っ込んでくるか分かりませんよ、本当に。急にぶつかってきますからね、あれ。笑
だからこそ、後悔や、やり残したことを抱えたまま死なないためにも、限られた時間を無駄にしちゃいけないと、当たり前のようで、とても大切なことを改めて感じました。主人公のように、好きな人くらいには好きだと真っ直ぐに伝えたいものです。
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初めて分人という考え方を知り、衝撃を受けた。
自分の中で感じてはいたけど、言葉で説明できないようなことを、この本で明らかにしてもらった感覚。
分人という考え方を知ることで、なんだか生きやすくなりそうな気がする。
まだ間に合うなら、もっと早くこの本と出会って幼馴染に薦めたかった。でもそうもいかないから、これから生きていく中で、代わりに私が何度も読み直したい。
ゴッホの表紙に惹かれて購入したが、その意味が分かった
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死んだはずの人間が生き返る「復生者」。その設定がファンタジーでありながら、全編通して感じたのは「リアル」。主人公含め登場人物の心情が丁寧に描かれていて、物語に入り込んでしまった。「分人主義」という考え方には眼から鱗が落ちるようだった。これを読んで春馬くんの死の理由がわかったような気がするとか、この本を思い出したとかTwitterで見たが、そういうことか…と思った。同時に彼がこの本を読んでいればよかったのにという思いも強くなった。生きづらいすべての人に読んでほしい本です。
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全世界的に死者が黄泉がえる話
主人公の徹生は自分が最高潮に幸せな時に何故か自殺した?
黄泉がえりを果たした徹生は自分の自殺を受け入れることが出来ず、自分の死に疑問を持ち真相を探す。
下巻ではその真相と黄泉がえりを果たした人達のコレカラに焦点が撮られているかと思いきや・・・
終盤は涙なしには読めません。
暖かくせつない家族の物語です。
私は主人公の徹生のイメージは何故か佐藤二郎さんでした。
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重かった、、
でも、このお話はこの重さがないと、伝えたいことが伝わらないんだと思います。
「死ぬ」って自分とは遠い関係だと思っていたけど、それは急にやってきたり、あるいは徹夫のように自分から歩み寄ってしまうことだってある。
毎日悔いのないように生きよう!とはよく言うが、自分にとって「悔い」とはいったい何になるんだろう。
一度死んで生き返ったら、自分は何を真っ先にするんだろう。そして、誰に会いに行くだろう。
そう考えると、自然と「自分にとってかけがえのないもの」が見えてくる。
やりたい事もそう。先延ばしにしてる事は山のようにある。
歳をとってからでもできるか!と思ってる事も、山積みのまま自分が終わってしまうようなことがあれば、それは悔いの山。
明日からは大切な人に優しく接する回数を増やしてみたり、晩ご飯の品数を一品増やしたり、休憩時間にスマホをいじらず、読みかけの本のページを進めたり。
そんな些細な事から「今を生きている自分」を大切にしたい。
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「生きることに肯定的な人間も、否定的な人間も、同じこの世界を生き、同じ人間としての生を生きています。世界を愚弄され、人生を貶められれば、生きようとする人間は、当然、反発します。自分を守るためです。私たちは、無価値な世界で、無価値な生を生きているなどということには到底耐えられません。それは、恐ろしいことです。(ラデック)」(p.45)
「神とともに現在が失われれば、過去も存在しなくなります。なぜなら、過去は既に消滅していて、我々はそれを、ただ現在に於いて知るだけだからです。私たちには記憶がありますが、それを思い出すのは現在です。−−−−しかし、土屋サンの考え方の方が、人間には自然に感じられます。人間がそうですから。神が死んでも、神が作った世界は残る。いつか人類が、アダムとエヴァが、いなくなったあとのエデンを発見した時、そこが、ここの庭のように荒れ果てていて、実は神が遥か昔に自殺していたと知ったなら、愕然とするでしょう。けれども、人間の歴史を振り返って、色々なことを納得するに違いありません。ヒロシマもアウシュヴィッツも、神の自殺後の出来事だと考えるなら。」(p.48)
「ヘンに聞こえたかもしれませんが、この耳を削ぎ落としたゴッホだけをゴッホだと思っている人も多いんです。ゴッホと言えば、これだ、利根。−−−−自殺のせいです」
徹生はテーブルの上に、静かにグラスを置いた。
「けど、遺族は、これを遺影にしたいと思いますかね?私が知ってるフィンセントは、これじゃない、こっちのもっと普通の顔をしている方だ。みんなは気が狂ってたって言うけど、本当のフィンセントは違う。これとか、あと、これとか、こういう表情の方をいつまでも覚えていてほしい。−−−−そうは考えませんか?」
「きっとそうでしょうね、遺族は。」
「けど、どっちもゴッホなんです。一方が本物で、他方がニセモノとは言えない。全部、本物のゴッホです。あんなに誠実だった画家が、ニセモノの自分なんか描くはずがない。自分の仮面なんか描いても意味がないですよ。」(p.86)
「使い分けるんじゃなくて、自然とそうなるんです。だって、誰かと一緒にいて緊張して汗が出るなんていうのは、自律神経の働きであって、自分でコントロール出来るような問題じゃないですから。自分を隅々まで掌握して、或る人格を拵えたりするなんてことは、土台無理なんです。相手と繰り返し接しているうちに、お互いに喋り方や話題、距離感なんかが掴めてくる。感情の動き方も定まってくる。−−−−例えば土屋さんは、お子さんと接する時、声のトーンとか、表情だとか、性格とか、やっぱり今とは違うでしょう?(池端)」(p.87)
ガイジンの私が、もう一つ、非常に共感したのは、「心の誤訳」の話です。外国語に限ったことではありません。母国語でも、私たちはいつも、「心の誤訳」をしています。そして、その「誤訳」された言葉に、否応なく、影響されます。
私は、あの荒廃した楽園(パラディ)で、土屋サンに、《伊勢物語》の話をしました。
当時の日本人は、「今生きている、この自分がいやだ」と漠然と感じた時、その心を、「自殺し��い」ではなく、「出家したい」という言葉に訳す習慣を持っていたのでしょう。出家と言うのは、社会的な分人を「消す」ことです。その分人を生じさせている人々との関係を絶って。二度とその分人が活性化されないように。簡単ではありません。しかし、そのお陰で、自殺せずに済んだ人たちが、たくさんいたことでしょう。(ラデック)(p.108)
「精神的には違っても、肉体的には、疲労は疲労と見るべきなんだそうです。鬱になって、気分転換にマラソンに挑戦したり、登山をしたり、海外旅行に出かけたりしたせいで、病状を酷く悪化させてしまう人が、実は多いらしいんです。自分を奮い立たせるつもりが、疲れてしまうことで、辛うじて体を維持していた力まで使い果たしてしまうんだと。」(p.172)
もし、人間が二度死ぬことになれば、すべての仕組みや価値観を一から作り直さなければなりません。しかし、そうならないまま、復生者は、社会に復帰しようとしています。
人間は、死という経験を、生の世界に持ち込んではならないのでしょう。復生者は、好むと好まざるとに拘らず、特権的な存在です。(p.187)
自分の存在のすべてが、死の瞬間に消滅するわけではない。そう考えてきたはずだった。死は、無へのプロセスである。木下と二人で考えた5つのもの−−−−<記憶>、<記録>、<遺品>、<遺伝子>、<影響>。それらは、少なくとも当面は残る。しかし、何かを感じ、考えることは出来なくなる。その絶対に手の届かない一瞬に向けて、想像力が、息の詰まるような漸近線を描き続けている。(p.283)
死んでもまた、生き返ると思うと、人はいつまでも、死者への未練から解放されない。失われた過去が、未来に蘇ることを待ってしまう。それに、命は恐らく、一つだけだから尊いのだった。その一つしかない命を、全力で生きようとする人間の姿が、徹生はやはり好きだった。美しいと感じ、自分もそうありたいと願っていた。(p.305)
青空が、その巨大な澄んだ眼で、彼らを見下ろしている。璃久は、満面の笑みを湛えている。あの5月の節句の日のように、あの日の会社の屋上のように。しかし今は、徹生自身が笑顔だった。
世界が一斉に、目も開けていられないほどに眩しく輝いてゆく。永遠が、一瞬と触れ合って、凄まじい光を迸らせる。
璃久が駆け寄ってくる。抱き締めるまでは、もうあと少しだった。(p.307)
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「分人化」の考え方に救われた。
学生時代、「他者からアドバイスを受けて出した結論は、自分の考えか?他者の考えか?」というテーマでレポートを書いたことがある。
当時私は、「最終回に自分で出した結論は全て自分の考え」と述べたが、どこかしっくりこなかった。
しかし、人の考えは多かれ少なかれ他者からの影響を受けているという「分人化」の考え方は、スッと自分の中に入ってきた。
自分により良い影響を与えてくれる人と付き合いたいと思い、また、自分も他者にとってそうでありたいと思った。
精神福祉論を学んでいた学生時代に出会いたかった本だと思った。
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分人という考え方は、ああそうだったのか、という感じ。体験的に、確かにそう。
幸せだったのに、なぜ自殺したのか。
自殺したからって、人生全体が無惨なものだったってことにはならない。
人は、本質的な一つの人格のみで成立しているのではなく、
対ダレダレによってできる分人がいくつも合わさって成立している。対お母さん、対妻、対子供、対同僚、など
その分人の中で、生きることの意味を否定する分人のがいる。そうすると、生きることに意欲的な分人が、それを否定する分人を消してしまおうとおもう。それで方法が分からず追い詰められ自分ごと全体を殺しちゃった、それが外からみた自殺。
死にたかったんじゃなく、生きたかった。
多面性のある自分とは何か。生きる意味、幸せってなにか。死んだあとのその人の痕跡って周りのひとにとって喜びなのか負担なのか。を追及