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早くもバズワードのような地位に陥っている気配のある「リベラルアーツ」。瞬間的に消費され尽くしてしまうにはあまりにも高価なワードです。本書は、界隈に溢れるチャラチャラしたリベラルアーツ本とは、一線を画すすぐれた一冊です。
単に教養というようなレベルを超えて、知の涵養が体感できる内容となっています。
各章1つのテーマ(下記参照)に対して、複数の視点から議論を促す設問が設定され、これに学生たちが取り組んでいく様子を実況・考察していく形式です。(実際に行われた講義の記録です。フィクションではありません)
テーマが提示されると、条件反射のように私見が頭に浮かびますが、読み進めるうちにその論の脆弱さが露見していき、自分の浅はかさにがっかりすることの連続でした。こういう経験は、日常生活では得難い大変に有意義なものです。
どこかの章で紹介されたエピソードに、大いに首肯させられるものがありました。
いつも目先のタスクを処理することに追われている企業人にとって、こういった思考のアプローチは、実業界の中に“閉じた”狭い領域での思考から「役に立たない」と糾弾されがちだけれど、その低次の思考をより高次のものへと解放させるのに有用だ。
これはまさにそのとおりで、それこそリベラルアーツ、人間を自由にする学問、なわけです。この講義、参加したいなあ。
教科書として編まれたような体裁をとっていますが、一般読者にとっても決して敷居は高くありませんし、議論の過程は話し言葉で紹介されていますので、大変読みやすいと感じました。ただし内容にはずっしりと重みがあるますので、1章を読むたびにクールダウンが必要かもしれません。
<テーマの一覧>
コピペは不正か/グローバル人材は本当に必要か/福島原発事故は日本固有の問題か/芸術作品に客観的価値はあるか/代理出産は許されるか/飢えた子どもを前に文学は役に立つか/真理は1つか/国民はすべてを知る権利があるか/学問は社会にたいして責任を負わねばならないか/絶対に人を殺してはいけないか/議論によって合意に達することは可能か/差異を乗り越えることは可能か
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「コピペは不正か」「絶対に人を殺してはいけないか」「芸術に値段はつけられるか」といったテーマについて、専門分野の異なる現役の学生が討論。教授陣の誘導が適切で、意見が統一される、というよりは論点が明確になる過程が興味深い。
本書は「単なる『物知り』と『教養人』の違い」に言及する。「知識を断片として所有しているだけなのか、それともそれらを相互に関連づけ、一貫した思考の体系(知識ではなく知)へと統合できる能力(にまで高めているか)」。そのために「教養人はまず専門人でなければならない」という。
あえて意訳してしまうなら、専門分野の深さを知っている人は、そう簡単に物事の結論に達することができないことを知っているし、他の分野でも安易に断定しないように心がける想像力と謙虚さを持っている。結果として「自分の経験だけの世界」から解放(リベラライズ)される、ということだ。
藤垣教授が本書結末で強調する「虚構の境界が本質化して思考を縛ってしまうことから解放するのが教養」(P.259)、の意味も深い。自分で「私はXXX系」という実在しない境界を作って思考停止するな、と。おっしゃるとおり。
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東京大学で取り組んだ教養教育を書籍化したもの。
12の課題があり、それについての賛否を考え論点を整理していくような展開。
課題も、現在的なもので、課題を読み込むにも広い知識と洞察が求められる。
印象に残った課題は以下の2点
・飢えた子供を前に文学は役に立つのか
・絶対に人を殺してはいけないか
最初に問題提起があり、学生たちの議論の様子が紹介され、最後に振り返りをしてまとめている。
続編もあるので、そちらも読んでみる。
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昨年、石井先生の講演を拝聴したので、本書も手に取った。リベラルアーツの意味は、多くの本を読み、教員や学友と議論することで、自らを取り巻く世界との距離をや見解の相違を了解できることにあると解されることに、読了後に変わりはない。また随所に表される著者らの教養の定義に肯首する。それらは言葉遊びでない、教育現場から抽出された珠玉の一文ともいえよう。ある程度各自の専門を了解した上で初めてわかる、「教養」という概念を明示した文献は類例がないように思う。また藤垣も含めた各章(授業の回ごと)のコメントは非常に意義深い。さらに最後に明示された石井らによる「後期教養教育」の考え方は独自性がある。複数のコニュティを往復する上で、超えるべき「枠」の組み合わせは多様である。言語の枠、領域(専門分野)の枠、国籍の枠、所属の枠などである。
大学における授業科目から、本書のような講義録を超えた書籍が編まれるのは、著者の力量や参画した学生の貢献によるものが極めて大きい。どこの大学でも類書が刊行できるとはとうてい思えない。専門を究めるとかえって思考の自由を失うという指摘は、残念ながら我々の生活の様々な場面で適用されてしまうことが多いだろう。ニューマンのopen mindを引いたことで、説得力が増したように思う。
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たまたま大学の生協で見つけた本。リベラルアーツに関心があったので、迷うことなく即購入。
冒頭の「教養人はまず専門人でなければならない」という言葉。重い。
知識が羅列してあるだけではただの「物知り」であって、それらが有機的に結びつくには軸、つまり専門が必要。
僕を筆頭として大学生に「専門はなに?」と聞くと、大抵は中身スカスカの専門について語り出すんじゃないかな?笑
授業後の生徒の感想にもこう記されている。
「教養というものは自分の中に多種多様なパースペクティブを持つことにほかならない 〜 私の中に無数の分人を持つといことが教養 〜 無数の分人が同じレベルで内在してしまえば、私の自己同一性は失われて、思考の向かっていく先が定まらなくなってしまいかねない。そこで、専門の意味が現れてくるのである。」
授業内では、参加者それぞれの専門的な立場から議論が展開され、専門性抜きでは自分の確たる主張や立場は生まれにくいことも納得がいく。
とにかく、今の僕には専門性が足りない。
幸か不幸か、もう一年大学生をやる身となった。卒業までに学部の専門をはっきりと示せるだけの勉強をしようと決意した。
一年後、ターニングポイントとなった一冊と胸張って言えるよう頑張ろう!
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東京大学の教養教育の一環で行われた、議論・対話による授業を編集した本。「コピペは不正か」、「絶対に人を殺してはいけないか」などの12の問いをもとにして多様な価値観を持つ他者と対話し議論を深めていく。
どの問いにおいても議論するにあたって「定義」を巡る問いが提出されていた。問いの背後や立場には必ず定義の問いが隠れているため、議論するうえでは言葉一つひとつを吟味しなければならない。そうして言葉を詳細に検討した結果、始めの問いに対する解答は単純な賛成とも反対とも異なる第三の立場に移行することを促す。そしてその立場から見た新たな問いが提出される。このような定義と問いの往復運動を行うことで知識が関連付けられ、有機的に練り込まれた「知」へと昇華される。その「知」こそが「教養」なのだろうと感じた。
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借りたもの。
「大人になる」――教養人となる――ために、著者がその定義を見直し、現代抱えている問題をディベートする。学生が行いそのやり取りをまとめたもの。
何かのハウツーや、教養の定義を見直したり提言したものではなかった。
著者は“教養人”を専門特化した知識人ではないと明言し、いろいろな勉強をして俯瞰的な視野を養うことこそが「教養」の本質ではないかと提言する。
専門知に囚われず――言ってしまえば広く浅く――知識を有し、視野を広く持つ必要性を訴える。
この本が出版された2015年頃……東京五輪開催決定やインバウンド、グローバリズムの活発化に伴い、多様性やそれを受け入れる多角的な視点が求められている。
そうした「大人になるための」視点や議論する手段の例として、この本は存在するのかも知れない。
取り上げられている命題は現代を映す諸問題……まだ明確な基準が多くの人々に共有されていない、議論の余地があるものばかり。
1.コピペは不正か
2.グローバル人材は本当に必要か
3.福島原発事故は日本固有の問題か
4.芸術作品に客観的価値はあるか
5.代理出産は許されるか
6.飢えた子どもを前に文学は役に立つか
7.真理は1つか
8.国民はすべてを知る権利があるか
9.学問は社会に対して責任を負わねばならないか
10.絶対に人を殺してはいけないか
番外編.議論によって合意に達することは可能か
最終回.差異を乗り越えることは可能か
どれも立場によって見方が変わってしまうものばかり…
各省察に対し4つほどの論点に絞り、やりとりが記録されている。
読んでいて、中には異議申し立てをしたくなる意見もあり。読んでいて頭を使う……自問する。
何かの回答を導き出すためではない。多様な視点とその傾向を指摘するに留まる。
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福島の章を読んでいて
ある学生が、何ができるのか、を考えるにあたり、過去現在未来の視点で考えていた。
頭いい人は、問いについて問題解決を考える前に、問いそのものをどう捉えるか、を考えているのだろうか。
コピペは不正かの章を読んで
本を読むことは自分だけの星座を作ることは少し感動すら覚えた。スティーブ・ジョブズのコネクティングドットかのよう。
また、考え方として、正しいか正しくないかではなく、そのような議論があったということを残しておくことが大切
コピペの是非は、結論の章による。
グローバル人材は本当に必要かの章を読んで。
議論の展開の仕方が勉強になる
あらゆる問いは定義をめぐる問いを内包している
必要性を議論する前に、グローバル人材とは何か、について議論する必要がある
この議論を通して、
「立場を問う問いの後ろには必ず定義の問題が隠れている」
立場を問う問いについて思考するためには、まず「前提を問う」「脱構築をする」ことが必要となる。そのためには、グローバル、人材といった言葉の定義を掘り下げることが不可欠
たまたま6minEnのvocabraryでpremiseが出てきたが、まさにこの今の通り。
premise
idea you believe to be true and use as the basis for developing an argument
ここで思い出すのは、ちきりんのポジションをとれ、という話。自分の意見を表明するためには、立ち位置を明確化させる必要。
外国語を学ぶ意義について、文化の三角測量という言葉を用いて、三つ目の語学を学ぶことの意義が述べられていた。グローバル人材であることと英語を話せることは必ずしも必要十分条件ではないが、外国語を学ぶことで、モノの見方や思考が言語を通して行われていることがわかる。
日本語英語にフランス語が加われば、日本語英語、日本語フランス語、英語フランス語の三角形ができる。
芸術作品に客観的価値はあるか?の章
本は芸術性があっても低価格だが、絵画は数億円したりする。金額も変わる。客観的な価値がどちらにもあるはずだが、金額が違う。高価であることと価値があることは違う。
作品自体が価値を持っていると考えるのか、受け手によって価値が生まれるのか、作品と受け手の双方で価値が作り出されるのか。
価値とは何か。マーケティングの価値は顧客価値なので、受け手にとっての価値。費用と便益の差。
代理出産の章を読んで。
この問題をどの立ち位置から考えるのか、それによって変わってくる。本書では学問分野による捉え方の違いとしており、医学的側面、生物学、法学、人権(子を持つ権利、子の権利、の立場から様々な問題提起が示されている。自分自身の立場をどこに据えるか、簡単には答えが出ない問題。ともすれば、主張のしやすさ、ロジックの通りやすさを考えてしまっている自分がいる。
議論の最後に提示された表を見た際、精子、卵子に加え、子宮という項目を見た瞬間、言葉を失ってしまった。それは、人間をパーツで考えていることで、まさに子供を産む機���と捉える見方が提示されたからだろう。
昔の政治家が女性は子供を産む機械と失言していたことを思い出す。また、人間の体をパーツで捉えることで、テセウスの船を想起させた。整形や移植を繰り返した場合、生まれた当初は両親の遺伝子を受け継いでいたかもしれないが、徐々に元の姿形(時に性別)を変えていくため、姿形は「我が子」とはちがう。それでも我が子と思えるのだろうか?遺伝的に継承されていても、現代医療では外形は可変可能だ。
ロールプレイについて、学生たちの堂に入った演技力が挙げられていたが、ロールプレイの効用として、自分の立場とは異なる立場を担うことで、想像力と思考力が試された、とまとめられている部分は、「生産性 マッキンゼーが組織と人材に求め続けるもの(伊賀泰代)」のロールプレイ研修の有用性を想起させられた。