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途中ハリーの反抗期(みたいな感じ)がとてもイライラしたけど
やっぱり総合的には面白かった。
個人的には3巻までが好きです。
でもスネイプ先生の話は大好きです。
自分は最後の最後スネイプ先生に全部もってかれました。
最後の巻は人が死にすぎじゃないかと思いましたが(´;ω;`)
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究極のファンタジー。
私の夢。
もう本は終わってしまったけど、最後の映画楽しみにしています。
子供に読ませたい本No.1です。
古書を集めてコツコツとお金と時間がかかった分だけの価値ありです☆
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ハリーポッターは
世界に愛されるファンタジー
これは本当に素敵なファンタジー
ハリーが大人になっていく過程も
魔法っていう子供にとって
大人にとっても魅力的な内容
本当に素晴らしいお話だと思う
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ハリポタは本を全部買って読んでますが
ハリポタを見るにあたっては絶対原作を読んでから映画館で見て欲しいです。
これまた手に汗握ります。
セドリック大好きです
泣いちゃいました…
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私が読んだファンタジーの中では最高傑作です。7話もあるのに、色あせることなくずっと楽しく読めました。
彼女の新作を早く読みたいです。
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あともう一回読み返したい。
キャラクターはみんな個性で溢れているし、魔法という世界観なのに、本当に合った話なんじゃないかと思うくらい、背景もキャラも現実味を帯びている。
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シリーズを全て読み終えた瞬間に、私は長く苦難な旅を終えた気分になりました。
私がハリー達と一緒にいたのはほんのすこしです。
私がハリーポッターを手にとってたった数週間。そしてついに今、私は彼等の物語から抜け出して帰ってきました。
一言でいうならば、すごい。
実は、私はハリーの性格はあまり好きでありません。まるで子供。もっと友達のことを考えてあげなよ!だとか、冷静になって!だとか、彼等の物語を見ながら心で何度も思いました。
思いながらも、ハリー達から目が離せない。
どうにか幸せになって欲しいと願わざるを得ない。
ハリーの成長とともに彼を好きになっていく。
最終巻を読み終えて思うのは、彼等の物語をこれからずっと読み返したい。
今回は図書館で借りて読んだですが、一式全部欲しいと思います。
もちろん、ハードカバーは高いので携帯用のものですが。
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やっぱり面白い(^O^)
何回も読ませるような力を持った話だよね!
個人的に好きなのは謎のプリンス。
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王道ファンタジーの代表作ですね。1巻目から読んでいくと、主人公達と一緒に筆者も成長しているのがよくわかります。ハリーのひねくれた反応が、うちの長男の生意気ぶりと重なってニヤリとしてしまった。映画、観てみようかな。
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ファンタジーの世界にグッと引き込まれたお話でした。とても魅力的です。一つ一つの巻も楽しく、ハラハラドキドキして一気に読み進めました。やっぱり魔法の世界は素敵で、ホグワーツに通いたくなりました。
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私の色々なことの原点になった作品です。
本当に大好きです!!
特に親世代LOVE!
全巻何度も読み返しています!
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歴史に残る作品。最後の方がどんどん暗くなっていってちょっと子どもじゃ理解できない感じの内容になってしまった気がするけどハリーポッターと同時に大人になっていった私にはちょうど良かったかな。
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読むのを中断していたけれどようやく読了。
いやー、長かった。
大作でしたね。
最後はちょっと無理矢理感も否めなかったけど
まぁ読む価値はあったかと。
やっぱり一番好きなのはドビーw
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文庫が出るまで買わないつもりだったので、友人に借りて読みました。ファンタジーって途中で読むのに飽きてしまうものって多いけれど、こちらは全くそんなことはありません。寝なくちゃいけないのに、続きが気になって眠れなくなる。翌朝寝不足…。みたいな生活を送ったのは、久しぶりでした。
映画も本も大好き。
立派な大人ですが、魔法を使いたくなり杖を振ってみたくなりますよ。
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ああ、これは傑作だ。全巻読み終わった後そう感じた。
そうだとうなずく人もいるだろう。だが一方で、つまらない、あるいは流行り物さと嘲る人もいるだろう。けれどそういう、「全ての人が優れた作品だと認めない」まさにそのことが、この作品の傑作であることの証明である。
傑作とは、複数の、いや無限の読み方を可能にする。読む人によって、読む時期によって、違う様相を見せ違うテーマを表現する。その域に至った作品にとっては、もはや作者のもともとのテーマや意図すらも本質にはならない。
無数の読者が、無数の物語の形を――「くだらない」「つまらない」という感想すらも含めて、イメージすることができる。
それが可能になる作品には、一種の「無」がある。作者自身が自分の意図も表現目的も脇に置いて、ただ作品が自分の中を流れ出ていくようにしていった作品。「自分が作ったのではない」と作者自身が知っていて、それを恥でも苦痛でもないと理解している作品。
実は、多くの名作は、そうではない。多くの名作は、作者の意図がみっちりと緻密に張り巡らされている。どこを切ってもその作者がわかるような、自分に充ち満ちた作品を、あらゆる表現者は作りたがる。それはそれでひとつの優れた作品の形だが、ハリー・ポッターはそういう「J.K.ローリングのシャウト」には決してならず、それゆえに傑作となった。
本当の傑作は、万人が優れていると認めることは決してない。なぜなら無限の読み方を可能にすることが、傑作性であるから。「優れている」「素晴らしい」という感想しか許さない優れた作品は、「優れた作品」以上に達することができない。それはいわば固定された世界に留まってしまう。
ハリー・ポッターには、様々な感想がありうる。キャラクターで引っ張るキャラ萌え作品と言う人もいれば、魔法世界の設定が魅力だという人もおり、謎解きミステリーであると言う人もいる。子供だましだと言う人も、二番煎じと言う人もいる。それら全てが正しく、それら全てが間違っている。ハリー・ポッターを見て抱くものは、その読者自身の姿であろう。
読者自身を写し出す鏡となりうるまでに「作品自身」を尊重し、ストイックに「作者の存在」を(そして「読者の期待」をも)排したこの作品は、オタク文化全盛の現在の日本では、もしかしたら生まれなかったかも知れない。
無限の感想を包容するこの作品において、私自身は何を感じたかと言えば、これは徹頭徹尾、「全てのものは、見たまま感じたままでは決してない」という真理に貫かれた物語なのだということだった。
そういう意味では、確かにこの作品は謎解きであり、ミステリーの要素が濃い。特に1巻2巻は、「賢者の石を探しているのは誰なのか」「秘密の部屋の主とは誰なのか」を探り当てるという骨格があり、伏線をきっちり張りつつ意外な展開で意外な犯人が明らかになる。ミステリーだと思って読む人がおそらく少ないであろう分、そのどんでん返しのカタルシスはすごい。
だがこのシリーズは、単純に意外な展開という面白さを追っていたのではない。それは、「子供の目(ということは子供の心を持つ全ての大人の目���もある)」に映るものが、真実を見抜くこともある一方で、時として全く間違った像を結ぶという痛烈な現実を示すのである。
作中で、ダンブルドアは
「若い者には、老いた者がどのように考え、感じるかはわからぬものじゃ。しかし、年老いた者が、若いということがなんであるかを忘れてしまうのは罪じゃ……」
とつぶやく。
ハリー・ポッターシリーズは、ハリーがそう思っていた、信じていたものが、次々と違う様相を見せる連続である。子供の直感が、これほどまでに裏切られ続ける「子供向け物語」は、なかなかない。
子供は見えないものが見えるというけれど、実際には見たままのことしか見ていないことだって多いのだ。そして大人は、見えないものに気をつけようとするあまり、見えるものが見えなくなる。
ハリーをいじめ抜く最悪の家族が(望んではいなかったにせよ)ハリーの守護者であり、誰もが尊敬しているハリーの父は実は陰湿ないじめっこであり、心の支えともなるダンブルドアには冷酷な計画があるのみならず、権力に惹かれるというネガティブな性質を持っていたことがわかる。名付け親シリウスは好男子だが人格未熟でそのために死に至る。宿敵ヴォルデモードは自分の凡庸性を否認するためだけに生きる平凡な人物である。陰険悪質な教師スネイプはハリーの父のいじめの犠牲者であり、ハリー自身を愛しているとは言えないにも関わらずハリーの守護者として奮闘する。
スネイプの記憶の中で、ダンブルドアがハリーを殺すのだと明言した時に、スネイプがそれに猛烈に反発し、銀の牝鹿の守護霊を呼び出すシーンは、それまでの(九巻に及ぶ)ダンブルドアとスネイプとハリーの関係性を知っていればこそ、際立った象徴として鮮やかに浮かび上がる。
そしてまた、そういった「違う様相を見せる」物事は、ただ裏返っていくという単純なものでもない。
ハリーと義理の家族は、最後まで完全に和解できる訳ではない。ダンブルドアが冷酷にハリーを殺す計画を立てていたにせよ、ハリーを心から愛していたことには変わりはなく、また彼は自分自身の権力欲を理解し認めるという偉大な人格を持っている。一方でスネイプは、ダンブルドアと違って過去の確執を乗り越えられた人物ではなく、ハリーに与えてきた陰険な仕打ちは擁護できるような代物ではない。
ハリーはスネイプが父にいじめられていた事実を知り、自身のいじめられた経験を振り返ってスネイプに複雑な感情を抱くが、それですぐにスネイプとわかりあえるというような単純な価値観の転換は、起こらなかった。それほどに二人の確執は深かった。ハリーは最後、自分の子供にスネイプの名をつけるほど彼を尊敬するようになるが、もしスネイプが死なずに生き残っていたら、彼らは和解できたであろうか。
善人は実は悪人でもあるんだよという人間不信にも、悪人も実は善人でしためでたしめでたしという人間賛美にも、どちらにもこの世界は与しない。わかるのはただ、物事は、自分が見ている通りではなく、違う側面から見れば違う意味が見えてくるであろうということ、それだけである。
ハリー・ポッターが成長物語であるとするなら、それは、単純な直感による世界(他者)の把握が、複数の視点を獲得す��ということにあるだろう。だが違う視点を得られれば全てが解決というほど簡単な展開はない。ハリーとヴォルデモードの対決は、互いの精神性や道徳性の激突というよりも、複雑な状況と偶然のあやによって決着する。
もしも、J.K.ローリングがこの作品を、愛や勇気や価値観を認める精神性の優位が、悪を打ち倒す物語として書いたなら、様々な展開はもっと違っていたことだろう。そうすれば、この作品は非常にわかりやすいメッセージを帯びる一方で、「それだけの物語」として終わっただろう。
だがこの作品は、そういったわかりやすい因果応報ではなく、もっとわかりにくい状況を矛盾も含めてあるがままに構築していった。
それはおそらく、「表現者」としては勇気のいる、自分を捨てる行為であり、それを(無意識か意識してか)実現しえた、作者と作者を取り巻く環境というのは、稀有な奇跡だったのではないかと思うのである。