紙の本
着眼点は面白いのかも知れないが
2016/07/13 10:37
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投稿者:nyab123 - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書はレトリックとシンボリズムによって縄文時代の世界観を解き明かそうとするものである。著者は遺構や遺物の知識も豊富で全体として勉強になる。
問題はその解き明かし方である。一言で言えば縄文人はすべての事柄を再生に結びつけていたと主張したいらしく、ユングだとかエリアーデだとか持ちだしてそれは普遍的無意識であると根拠づけているらしい。だが、何でもかんでも再生に結びつけるのは無理矢理だと思わないだろうか。
縄文の模様は蛇の模様だから再生である。眉毛は月を表すから再生である。うねうねした模様があったら蛇なので再生である。円は再生である。四角は再生である。三角は再生である。竪穴住居は母胎だから再生。石は再生。木は再生。土は再生。骨は再生。赤は再生。白は再生。黒は再生。緑は再生。水があれば再生。山があっても再生。石棒は蛇だから再生。ストーンサークルは円だから再生。洞窟は再生。島は再生。丘は再生。
ここまで読み進んでもううんざりし始めるのは私だけだろうか。
じゃあ何なら再生にカウントされないんだと言いたくなる。
神話的世界観を生きていたのだと著者は言うが、その発想は面白いとしてもそれがすべて再生に収斂してしまっては考古学的な狭隘な議論を覆したいという著者の思惑に反して議論を貧しくしてしまうだろう。
第一、再生にそこまで固執しながら、何を再生させたいのかが表現されない。それは無論人間を再生させたいのだろうが、その目的語に値するものが出土しないのは不可解ではないか。
あらゆる事象に再生の意味を付与しながらその内実は表現しないのはそれだけ実存的に充実していたということなのだろうか。ここまで執拗だと強迫神経症めいてさえ思える。目的を欠いているから再生を再生させるという無限循環に入り込んでいるようにさえ見えるのだ。
著者は現代人の思考で縄文人を解釈してはならず、彼らの不合理な思考形態を理解すべきだとしているが、であればこそそれを現代の研究から断言してはならないのではないか。ましてや自分にはユングやエリアーデなどの研究の根拠があるので正しい、既存の研究者は自説を主張したいのならば根拠を見せろというのはただ攻撃的なだけで議論にはならないだろう。
本書に書いてあったように縄文人が何でもかんでも再生に固執したという可能性は否定できないが、文献もない世界観を断定することは避けながら冷静で多角的な分析を期待したい。
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私は、考古学・心理学・言語学その他ここで言及されている学問を専門に学んだことがない素人であるが、私は、前著で思った違和感を今回も拭う事ができなかった。
確かに、ある一定の事象は、「死にたくない」願望や不死への信仰に還元したり、月=水=子宮=蛇という性的なレトリックで表現したりすることは出来るかもしれない。しかし、考古学遺物の全てを、その説明で済ますのは、「傲慢」としか思えない。
縄文人の世界観を、その二つで総て説明出来るのか?日々のヒトの行動の「契機」には、いろんな多様性があるのではないか。私は心理学のことはよくわからない。しかし、その二つから例えば、「愛」とか「憎しみ」の契機は出てくるのか?「夢」とか「笑い」とか「哀しみ」とか「食欲」とか、説明できるのか?縄文人にはそんなものは無いと言うのか?
以上のことは、非合理的な思考の部類に入ると、私は思っているが、今回は7章でやっと合理的な思考との関係を説明している。しかし、充分とは思えなかった。確かに、今までの考古学は、合理的思考オンリーで説明してきたし、それへの反発があるのはわかる。しかし今回の説明だと、煮たきに使用する壺の合理的な一面と、性的な壺との関係が説明できないので、その「壺全体の説明」は、無いに等しい。じゃあ、煮たきにも使って、信仰の為にも存在した「壺」は、縄文人の日々の生活ではどのような位置つけだったのか、全然イメージがわかないのである。
もしホントに全体像を表そうとするならば、私は語り伝えられた「物語」を再現するべきだと思う。例えば「やし酒飲み」(エイモス・チェツオーラ 土屋哲訳 岩波文庫)などを読むと、現代人類とは全く違う世界観が広がっているように思える。それに似た世界観が、縄文人にもあるとすれば、是非見せて欲しいと思うのである。
2016年10月24日読了
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縄文人の世界観 大島直行 国書刊行会
納得できる最後の七章を先に読むことをおすすめしたい
その後で本文に入れば飽きずに読み通せるだろう
現代の物的競争世界の価値観を当てはめて解釈するのではなく
1万年という単位のギャップを飛び越えて思いを馳せ
読み解いていくという姿勢で
大胆に踏み込んだ発想にも共感をおぼえるし
資料も揃っていて読み応えもある
不死・再生・誕生・命の蘇りとそれを育む子宮につながる
満ち欠けの周期を持つ月と羊水をイメージした水と脱皮するヘビ
などを通して精神性を求めたという説からなる
これをシンボリズムとレトリックという観念を使って
対等に縄文人の謎に迫ったということにも同調できる
又貝塚をゴミ捨て場とみず
再生を願う祭祀場と考えることにも同意する
更に所有に陥っている現代社会は物欲に特化した
格差という絶対の権利を主張する必要があり
自然摂理の補い合う全体観に包まれた環境に集う縄文人とは違い
普遍のシンボルである絶対的権威の象徴である太陽こそが
権力社会にとって重要な役割と成ると著者は言う
彼らは美や哲学を創造しているのではなく
実を求めて「効き目」を追求しているのだとも言う
知識も幅広く知的な内容だといえるのだけれど
そのくせ既成概念の抵抗が強いせいか
多様な全体観に結びつかない独善性が気になる
あまりにも思い込みが強いのか兎も角ひつこくクドイ
体制となっている学会の意見の違いを
攻め立てる姿勢にも辟易となる
この本の要点だけをまとめれば三分の一の厚みで収まるだろう
多様性に欠ける業界に物申す一つのアンチテーゼととらえて読めば
面白く読めるのかもしれない
彼自身が言う「考古学者見てきたような嘘をつき」を
自らはまり込んでいるようにも思える
写実的な表現は物的価値観に必要な技術であった
支配という神意識のない対等な関係にある縄文人には意味が無いことで
ひたすら再生を願い神話的世界をレトリカルに表現することが
重要だったとも読み解く
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縄文人、同じ時代のソクラテスやプラトン、そして現代人、その脳に何一つ違いはない。人間は合理的思考と非合理的思考を併せ持ち巧みに使い分けてきたけど、縄文人の思考的基盤は非合理的思考にあったと。<考古学者 見てきたような 嘘を言い>(川柳)w 縄文人の世界観は、月と女性から生まれてるようです。縄文土器、土偶、遺跡などから、縄文人のシンボルは月、水、子宮(女性)、蛇などであり、いずれも再生、不死のイメージだと。縄文人のレトリックである誇張と隠喩も土器や土偶からそれらの装飾が読み取れます。大島直行・縄文人の世界観