紙の本
生きた風景の中、揺れ動く心
2018/05/28 04:24
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投稿者:kobugi - この投稿者のレビュー一覧を見る
かつてハードカバーで読んでいたが、読み返したくて注文。手に納まるサイズにビックリ!読んでみても古さを感じさせない心理描写。解説が池澤夏樹氏だったのは、嬉しい驚き。
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▼電子立ち読みあります▼
http://shogakukan.tameshiyo.me/9784093522694
〈 書籍の内容 〉
親友の妻に溺れる画家の退廃と絶望を描く
妻子ある画家・渋太吉は、伊豆の海村で蜃気楼のように現れた若き女性・安見子との道ならぬ恋に溺れていく。
渋はかつて一緒に死ぬ約束をした女性を裏切り、妻とは離婚寸前の状況にあった。やがて、安見子は親友の妻であることが判明するが、彼女への思慕は変わらず、肉体関係を続けていく。
恋愛の幾つかの相を捉え、著者が得意とするカットバック手法で、それぞれの愛憎劇が複層的に展開されていく。
福永武彦が、退廃と絶望の中の愛の運命を描いた佳作の復刊に、著者の長男・池澤夏樹氏が解説を特別寄稿。
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蜃気楼を「海市」と呼称するなんて、すてき
というちょっとミーハーなあこがれで読みたかった小説です
これも倉橋由美子さんが例の『偏愛文学館』で究極の恋愛小説とおっしゃっているのですが
ストーリーをありていに言えば
男の友人に失恋した女と結婚してしまった男と
結婚相手のうちの二番手と結婚した女が
ダブル不倫になった・・・ため苦しむ・・・
はあ?
勝手にしてクレい~~!
と言ってしまえば終わりなんで
そんな不合理な恋愛は破綻するってのは、常識
死者が出ますね
でも、不条理だから究極の恋愛物語というわけでして
蜃気楼でなくても幻の城郭をさまよう空想をたまらない楽しみに思う、フィクション好きには
架空上の恋愛物語も興味津々で、どうなることかと読み終わってしまうのであります
そして、合理性を巻末に見つけたりしてね
「東方の雲海 空また空 群仙出没す 空明の中・・・」蘇軾「海市」(『偏愛文学館』)
「海上に蜃気、時に楼台を結ぶ 名付けて海市」(池澤夏樹「海市」解説)
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画家の渋太吉は一人で旅に出ていた。蜃気楼が見られると言われて行った海の街で若い女性に出会う。自由で陽気で掴みどころがなく奔放。渋はすぐに彼女に惹かれてゆく。渋にはかつて愛した女性があったが、彼女とは不幸に始まり不幸に終わった。その後妻と結婚したが、その愛情は幸福に始まり不幸に終わりつつある。だから今度は幸福に始まり幸福に終わる関係を経験できるのではないか、そんな想いを持った。
だが彼女は安見子(やすみこ)という名前だけを伝えて去った。
(「安見子」は万葉集に出てくる「我もはや安見子得たりみな人の得がてにすとふ安見子得たり」という歌であり、「安見しし」というのは「心安く天皇が国を収めるという意味の枕詞」)
東京に帰った渋は思いがけず安見子と再会した。20年来の友人の古賀の妻として。
その関係を知っても渋は余計に安見子に惹かれていくばかり。愛情を訴える渋に安見子は近いようで遠い、かと思えばまた近づいてくる。
私たちは一緒に愛し合っているのではない、互いに自分のやり方で別々に愛していた。
愛の燃焼が極限までに達したなら、焼き滅ぼす以外に方法はない、死は完結で、あらゆる美しいものは死に終わる。
戦中派の渋の人生には死は切り離せなかった。彼は人間を3つのパターンに分ける。
確実に死ぬべき人間、死が通り過ぎて生き残った者、死とは無関係なる者。
そして渋が愛した3人の女性たちとの物語には精神の、肉体の死がつきまとっていたのだった…。
===
福永武彦の小説における、家族不全、愛の不在、孤独、死の影、というものが色濃く出ています。
構成としては、「私」という一人称で語られる渋太吉の現在の物語(安見子との恋愛、うまく行かない家族のこと、絵画のことなど)に、「彼」「彼女」として語られる男女の愛の断片が挿入されます。
読んでいくうちに、「彼女」とはそれぞれ渋が愛してきた三人の女性だとわかります。
一人はかつて渋が心中を誓ったけれどそれを破った ふさ という娘さんとの挿話。一人は別居中の妻弓子と彼女が昔好きだった男性との一こま。一人は安見子で、彼女の子供の頃のことやボーイフレンドや夫との生活。それらにはやっぱり死が近くて。
時代的なものもあるのか、女性が自立していないのでウダウダしていたり、男性が家庭に無関心だったり、やっぱりが「愛している」を連呼されるとなんかこっ恥ずかしいなあとか、恋愛を含む人間関係においても現代感覚では「はっきりしろ〜〜〜!」と言いたくなるような気もするんですが、まあ小説の筋や人物像より愛と死のテーマが重要だからそれはしょうがないか。
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『草の花』が好きすぎて、氏の他の作品も読んでみようと手にとった2作目。
文章がとにかく好きなので、蜃気楼を見に行く冒頭から世界観に浸らされて酔いました。
「私」こと画家の渋の視点で語られる一人称の合間に、「彼」「彼女」の三人称視点をはさむことによって、物語の全体像が少しずつ明らかになっていきます。『草の花』しか読んだことがなかったので、福永さんってわりと構成にこだわるんだな〜というのが新鮮でした。『草の花』のノートという構成もすごく好きですが。
さて、内容ですが。
安見子さんと接近してからは、やたらとホテルでいちゃこく渋さん‥‥‥。彼の悩ましい語り口と、そのいちゃこきっぷりのギャップに「うーん、これが昭和というものなのかしら」と古臭さを感じました。いや、時代的なものなのか、福永氏的なものなのか、わかりませんけども。『草の花』でプラトニックなボーイズ・ラブが描かれていたイメージが強かったので、渋さんのエロおやじっぷりに、あら意外とこういう感じも書くのね‥‥‥?とドギマギしながらも、これはこれで楽しめました(笑)でも福永さんはきっと超真剣に濡れ場を書いていたんだろうな‥‥‥。
とはいえ、濡れ場の中にも揺れ動く男女の心情が丁寧に描かれていて、読んでいるあいだは脳内でTHE YELLOW MONKEY『聖なる海とサンシャイン』が流れていました。愛と死、交われない孤独、記憶。歌詞がこの小説の世界観とピッタリです。
ダブル不倫、それも親友の妻、さらに過去の男女模様など、複雑な恋愛関係だけに、ハラハラしながら読み進めましたが、そのわりにラストはちょっとあっさりでした。あそこまで書いたなら、あえて匂わせずに最後まで書いてほしかったかな。冒頭に立ち返るラストというのは綺麗なおさまり方ではあるんですけどね。