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アートの社会性について。
震災に前後する東北でのアートシーンを中心に。
私もよく知るアーティストがたくさん出てくるので、その切実さには共感するところが多い。
「アーティストたちが、とりたててアートに関心があるわけではない人たちを巻き込みながら、「素手」でたぐりよせようとしているある〈未知の社会性〉(p32)」
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アートが社会的に何の役にも立たないことにおいてのみ
アートは「人を治したり社会を良くするためにあったのだ」という意見を斥けつつ、さらにしかも「世間に対してつねに「患う人」である僕がそのようなアートによって、結果的に治り続けているということかもしれない」。人を治しているつもりのないアートが人を治しているとしたらどうだろう
★アーティスト自身にも、自分がやろうとしていること、つくろうとしているものが、あらかじめ見えているわけではない。これは、あらかじめ未来に明確な目標や意義を設定した上でそのために何かをするという、そういういまの社会であたりまえの事の進め方とは違う活動の仕方である
「務め」はそこからは容易に下りられないものだ。みずからの存在根拠が懸かっているから
世界のなかに、人々のあいだに、じぶんというものをどう定位したらよいのか。それが不明なまま、皮膚をわざわざ擦りむくかのような行動を五百回にわたって敢行した
「伝わらない」という経験だった。
★それまでわたしは「伝える」ということと、じぶんがそれを作品とか表現とかにするということとは少し切り離していたんですが、京都でのこの報告会を機に、じぶんたちは表現にかかわっていて、いまつくらないといけないんだとはじめておもえた気がします
★「記録」といえば、ふつう「表現」とは違って、何かを伝えるために個人的な思いを消去するというふうに考えられる。「表現」は、人が生活しているまわりにちょっとしたざわめきとかざわつきとか空気に感応するところがあって、記録のめざす鮮明さとは異なる入射角をもっているようにふつうはおもわれている
アートは、独立した状態で誰かに見せるのものではなく、「術」として使われるべきものではないか
記録は表現と対立するものではなく、表現はまたけっして自己表出なのではない。それはそのつど特異な関係のなかで使われる「方法」もしくは「わざ」なのである。
芸術に社会性があるのではなく、芸術が根を張る場所が社会。そのベースとなる社会とどう結ばれているかが「作品」にとって重要なのだと思います。
-北釜の方が「なぜ」と問わない
「なぜ」は野暮で攻撃的にもなりうるし、そう問うたといても目の前の「わからなさ」に対してなんの意味ももたらさない
一方でもし撮影に対して「なぜ?なぜ?」と何度も問われていたとしたら、本当に意味で作品制作に興味をもってくれたのかもしれない、その方がずっとおもしろかったのかも
わからないものやことが、じぶんと外部との境界でじぶんを拒絶するものとして現れてくるかぎりは、「わからなさ」はだんだんせっぱ詰まったものになってくる。ずっとそのことにじぶんは悶え、苦しんできたのだが、そのときじぶんは「わからなさ」の測り知れなく深い面に接する機会があったとしてもスルーしていた
「わからなさ」が人と人とのつながりのなかに連帯して存在する生きた感覚であることに気付いた
★いまいろいろ思い返すと、「なぜ」が問われないこと��最大の魅力として捉えているその理由は、じつは「なぜ?」が一番私を突き動かす原動力なのかもしれないということだ
計り知れない深い面に接しかけてもそれが「闇や破滅に向かわない方法」といて北釜の人たちの「わからなさ」という迎接の仕方と写真とが重なり合うのだ。
「わからなさ」という連帯の生きた感覚に包まれて、じぶんがその「計り知れない深い面」にぐっと身を挿し込むことができるかもしれない。破滅しないで、「その深みにどこまでも潜っていくことができるかもしれない」
そういう意味で、志賀は北釜でもこれまでもずっと抱えてきた「わがまま」を押し通した。じぶんを譲らなかった。そんな志賀に、住民はある日、「絶景を発見したから、いますぐカメラを持ってこい」と電話をかけてくる。そういう「わからなさ」が壁になるのではなく、蝶番になるような関係が生まれていたのである。それやあれらを含めて、志賀は北釜の人たちの「途方もないやさしさ」にふれ、「尊すぎて体が破裂しそう」と言うのである。P103
「わからなさ」ということはふつう、知識や欠損や理解の限界として、否定的に受け止められる。しかし、あらためて言うまでもないが、「わからなさ」の意識こそ、わたしたちのあらゆる情熱、想像、欲望の火を点けるものである。
★もっと見晴らしのいい場所に出たいという焦れこそが学びへと人を駆るようにー別の場所に出る前にそれがどんな場所かわかるはずがない、学びとはそういうものだー、わからないものが存在することを意識することが、わたしたちのもがき、あがきの初動をなす。
わからないことがそのコアにあって、その見えていないこと、わからないことに、わからないままいかに正確に対処するかということが問題
わかりやすさの誘惑を斥けつづけたいた。「わからなさ」を連帯の綴じ目としてとらえなおすこと
★「写真を撮らせてください」とお願いすると、優しく「いいよ」と言ってくれる。その優しさになにかある。言葉で表すのが難しいのだけれども、その底知れぬ優しい何かが、私自身を許された証のように思えるのです。
★いったい志賀が何をしようとしているのかがわからないままに、北釜の人たちは「わたし」に使われてくれた。それも、頑固にわがままに押し通すこの「わたし」に。志賀はもちろんそれに制作で応えてゆくのだが、じつは志賀はそれにすでにもう応えてもいた。先に見たように、志賀もまた震災までおよそ三年にわたり、北釜の村人たち一人ひとりに膨大な時間をかけて聴き取りをおこない、彼らに知れないところでそれを一字一句洩らさず筆写し、復唱していたのだし
志賀と北釜の人たちは、「わからなさ」の一点でつながっていた。しかもそのつながりは見返りを求めないものであった。頼まれたから応える、頼まれたから時間を、労力を贈る、そういう無償の応え
★志賀にとって、表現はもはや個人のプロジェクトではありえなかった。アートは、「自己」の内なるものを表現というかたちで外へと押し出すものではもはやありえない。むしろ別に何かに出会うこと、そのことによってじぶんがなにかわからない存在の未知の可能性、あるいは根拠にふれると��うことだ。
ここにどんな意味が宿るのか、などと考え込んでしまうような「問い」を自分の心に発生させたくない
★個人の内なる動機とか、衝迫とかから引き出される必然として制作はあるのではなく、他者に晒され、ときに他者に身を預けることで、つねにおなじように「わたし」であろうとする強迫から解き放たれる、そのような偶然を孕んだ可能性、それをたぐり寄せる行為として、制作はある。その可能性は、じぶんとは別の存在、つまりは他者との偶然の遭遇によって他者のほうからいわばわたしに贈られるものだ。
芸術やアートの枠組みがじぶんのなかで、瓦解することをかならずしも心細く思っていなかったそこに彼女たちの強度があった
自分の中に生じた固く小さな棘のような、違和の感覚。それをどのようにしても見過ごせない人が、誰に頼まれたわけでもなく何かを造り始める。世界に対して受動的でしかない己の存在を、なんとか能動的なものに造り変えようと試みる。そのような止むに止まれぬ無償の行為とそこに賭けられたやみくもなエネルギーが世界の表面に残した痕跡を、アートという
無益、無意義、手ごたえなし、まあそうである。けれども「むかしは鳥と話したり、花と話したり、それこそ絶対他者ばっかりに囲まれて、それでも何かに通じる時代があった」
人が皮をむいていく-教育
アート=社会を原っぱに変える行為
のびしろを拡げるところ=アート
わかりやすくするために自分の活動をカテゴライズしたり、割り切ったりする前に、「なんかよくわからないけれど、今これをやっておこう」と思える妙な感覚。
わけのわからなさ=他者からの力が流れ込んでくるのに、ふさわしい場所を空けておくこと。そう、わからなさこそ、そこから新しいつながりが生成する空きであり、余白である
すごく不器用な生き方をしているようにみえる人の周りになぜか人が集まってきて、そこにコミュニティが生まれている。あるいは言語化することが決して上手ではないがゆえに、かえって好感をもたれている存在。明らかにリーダーシップに欠けてゐそう、そういう一見ネガティブな要素が反転してその人の不思議な魅力になっていたりする
人々が固まりはじめたら、人びとがつなぐシステムが凝固しはじめたら、すぐに溶剤をかける。固まるものからたえずすりぬける。糾合しようという動きにたえず抗う。そのようにいつもシステムの外部に片足を掛けていようとする人は
★★わたし(たち)の存在を塞ぐもの、囲い込むもの、凝り固まらせるものへの抗いとしてこそ、アートはある。他者との関係、ひいては自己自身との関係をたえず開いておくために、そこにすきまをこじ開ける動性として、アートはある。とすれば、生を丸くまとめることへの抗いとして、アートはいつも世界への違和の間隔によって駆動されているはずである。そしてそれがまた、システムにぶら下がらなくても生きて行ける、そんな力の育成につながるはずである。
★「なんかおかしい」「このまま行くととんでもないことになるんじゃないか」といった同時代の社会システムへの「違和」の感覚。そしてその「違和」の微細な感覚��表現へともたらそうとするのがアートである。
→「流体の保存」「生命の保全」ということだろうなぁ。
★この世の外につながる孔があちこちにある。そこでは日常の社会秩序がいったんかっこ付けされ、距離を置いて既存の秩序を見直す時間や機会を得ることができる。距離を置いて社会を見るとは、「法外」な位置から社会を見直すということである、そこでは「奇矯」なふるまいがむしろ重要な参照事項となる。
→この「場」の生成が「アート」なのだとしたら、WSとかトークも、もちろんそれになりうる。
変えることを目的にして活動していくと、実はそのこと自体が暴力になっていく。
★じゃあ何が大事なのかと思ったら、そういう形で「対話」が可能な時間や空間、関係性、そういうものを持続的に持ち続けること、しかもそれを時代や自分の人生のタイミングに合わせて、無理なく変更しながら続けていけることが大事なんじゃないかと、
→その意味で、やっぱりSTENPORTでの個展、またその制作は「アート」だったと言ってよいと思う。そういうタイミングで、「不意の客」を迎え入れること、そして、そのときの「時間(生命の軌跡)」を書で記録し、他者に提示すること。そのこと自体が、アートだと言ってよい。
いのちに近い仕事ほど、お金が動かない
★現実と違う遠くへ飛ぶための力、それは「面白さ」にある。「なにかおもしろそう」という感覚でパフォーマンスやイヴェントに足を運ぶ人たち、彼らにとっておそらくそこは、「職場」では起こりえない「世界の開口(Mポンティ)」という出来事、いってみれば世界の関節外しに、そしてひょっとしたらじぶんの組み立て直氏に、遭遇できるかもしれない場所なのである。自分の囲いの外にでること、つまり自己の変成は、自己破壊をともなうから、それは当然「小さな死」をも意味する。そしてその「小さな死」を、西洋では昔から「エクスタシー」と呼んでいた。「面白さ」という跳躍力、そこにもこの「小さな死」が畳み込まれているはずだ。身体感覚の底の方で蠢く「むずむず」というのが、この「小さな死」を畳み込んだ感覚としてあるのかもしれない。
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・人間が「生活」していくためにはもともと重労働が必要だったはずなのに、私はただぼーっと毎日の生活に知らず知らずのうちに埋もれていたのです。それは「便利な生活」という強烈な違和感だったのだと思います。幼い頃によく感じていた「見えるもの全部嘘かもしれない」「お父さんもお母さんも張りぼてかもしれない」「この壁の先は何もないのかもしれない」という感覚はどんどん膨れあがっていった。本当になにも存在しないかもしれないという切羽詰まった感じだったから、心の底からたしかに信じられるものがどうしても必要だったんです。例えば走って「ハアッハアッ」って息をしたときの苦しい感じとか、思い切り叫んで息が続かなくなる寸前のしびれとか、腕の皮膚をつねったときの痛みのように、体が直接的に反応するような、負荷がかかっている状態にハマっていった。そうすると精神がすごく静まるんです。私はそういう感覚の直後に得られる「穏やかな」気持ちを求めていたんですね。だから、なにもしないでただ家の中にいると無意味に暴れだしてしまうよな気がして、意識的に体を激しく使う運動や踊りや歌に夢中になっていた。
・たくさんの方が「どこさもいかね」って言った。それは「北釜にずっといるよ」ということ、現在北釜に住む70歳以上のほとんどの方がこのあたりの地域で生まれ、育ち、働き、家族をもち、長い時間をこの土地で生きてきた。自分の意思や体が土地そのものととても強くつながっていて、土地の方がその人を主導しているとも言える。人間社会に生きるうえでの複雑で絶え難い様々なことが時折その人を襲ったとしても、苦しみの時間は土地と人に痕跡を残しながらも必ず過ぎ去っていく。時間を堪えた身体が器としてこの土地に「ある」という事実が、私には「強さ」に見えたんです。この独特の雰囲気や俯瞰的な視線は、土地とのつながりがあるからこそ生まれた持久力とタフさなのです。北釜には、人が住む場所や畑などを開墾してきた歴史があるのですが、土地はそもそもそこにあり、陸が消えてなくならない限りなにがあってもそこに存在しつづける。春夏秋冬が巡るように、あるときその土地で生まれ、やがてはその土地に埋まっていく。だから私は「どこさもいかね」という言葉にひとつのたしかな生きる方法を見たんです。
・志賀は北釜に来て「写真屋」として祭事や行事の写真を撮る役を得た。そしてそれと並行して彼女自身の作品制作を進めるうちに「だんだんとわからないことをする人だ」という理解が広まっていったようで、いつのまにか、被写体になってと頼んだら何かしている最中でも「いいよ」って引き受けてもらえる。その「わからなさ」の「すごく自由な振れ幅」が心地いいと志賀は言う。「わからない」ものごとが、じぶんと外部との境界でじぶんを拒絶するものとして現れてくるかぎりは、「わからなさ」はだんだんせっぱ詰まったものになってくる。ずっとっそのことにじぶんは悶え、苦しんできたのだが、そのときじぶんは「『わからなさ』の計り知れなく深い面に接する機会があったとしてもスルーしていた」。が、北釜ではじめて「わからなさ」が「人と人とのつながりのなかに連帯して存在しうる��きた感覚」であることに気づいたというのだ。そして「いまいろいろ思い返すと、『なぜ』が問われないことを最大の魅力として捉えているその理由は、じつは『なぜ?』が一番私を突き動かす原動力なのかもしれないということ」だ、と。
・「スキルとよばれるものは、隣の芝生に行って発揮されなきゃじつはだめなんじゃないか」。いいかえると、「アーティストがアーティストとしてアートの分野で何かをするのは基本的にあたりまえ」のことであって、「違う言語に翻訳されて、それが活用される」ことこそスキルというべきものであり、「違う分野に出かけて行って、アートで培った何かをそこに翻訳し、何かを作れる」ことではじめてアートとなりうるのではないか、と。アーティストとは、いってみれば「隣の芝生に行けるパスポートをもっている人」のことだと。
・「人間どうしやったら意思疎通がうまくいかんと腹が立つけど、蛸やったら腹は立たんでしょ。犬でも猫でもそう。あれははじめから他人やと思うてるし、「絶対他者」という存在を想定してやると不思議に心は騒がない。文化の違いとかなんとかいっても、蛸との違いに比べれば知れてるから。そういう「絶対他者」とおなじ空間でともに生きているというのは、関係がつかんでも、「まあええな、まあしゃあない」ということです」。
・松井は言う。「眼の前でしなくちゃならない美術鑑賞というのがそれだけでもし価値や普遍性があるのやったら、どうして蛸に美術が負けるのか。ほんとはみんな美術よりももっと大切なものがあるということに気づいているんやないか。何かにじぶんを投影しようという、そんな「表現」はどうでもいい。それより蛸(=他己)から見える自己の方がたぶん正しいというか、大事やとおもう。だからうちのゼミでは卒業制作のテーマが決められないやつにはみんなで決めてやるんです。「おまえはゴルフをやれ」と。すると案外そういうことでぴったりはまったりする。途中で「やっぱりおれ、ゴルフやないと思います」と、やっとほんとの顔を出してきよることもある」。
「殻を破る」という言い方も松井はした。「大人も子どももみんな、殻はおなじ硬さやね。ぼくだって防御するために殻をもっている。ただその殻を破りやすいかどうか、あるいは破ることを快感に思っているかいないかが違うだけで、それによって手続きが回りくどい人もいれば、かんたんな人もいる。だからぼくがやっているのははぐらかしですよ。こう来るやろうと思えばこっちに肩透かしするとか、どんとぶつかるとかね。ここんところ、蛸に罠を仕掛けているときの感覚とすごく似てる」。
・「この頃はよく、世界のアート・シーンに出るのにデッサンなんかできなくてもいい、どこどこのだれだれは美大なんか行ってない、などと言います。でも日本社会のように真っ平らになった社会のなかに際物みたいなやつがいるわけがない。わざわざ美大に入ってくるやつなんか特にそう。だからはじめは、ほんまにこつこつしたデッサンがどれだけできるかとか、轆轤が一日どれだけ引けるのかとか、そういう枠にはまった仕事をきっちりさせなあかんと思うんです。だってこれまで物をロクに取り扱ったことのない学生には、たとえば服作りでパターンを手描きするときの、線を引く音がきれい、なんて絶対にわからない。「いやや、いやや」と言いながらデッサンをやって、寝てるのか起きているのかわからないような状態で石膏像を見ているような連中ではないと見えん世界というのがやっぱりあるでしょう。別の言い方をすれば、思ったとおりのラインを指で出さなくてはいけないというのがあるんです。あるいは、ここはもうちょっとしゃきっとせなあかんという。イメージが先にあるんじゃなくて、先に経験がある。この経験に則ってこのラインをもう一度再現するという果てしない作業をくり返しているうちに、ようやっときれいなラインが見えてきて、このラインに沿って歩きたいというふうな形ができあがってくる。それを経験させてやりたいんです。いまの美大の学生というのは、総合大学の学生よりも「〇〇したい」というその「たい」が薄い。だから授業でも「なんか違う」と思うと、抵抗するよりは消えていく。すっといなくなる。ぼくはこの違和感を膨らしてやりたいんです。でもそのためには、どこかで現実をちゃんと生きてなあかん。でもその生きてる感じがつかめない。ひたすらラインを引くというのはそのために必要なんです。そう、普通の人として違和感がほしい。材料はなんでもあげるから、その違和感を勝手に膨らませてもっとぼくを驚かせてほしい。ワクワクさせてほしい」
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私にとっては、少々難解であった。
社会性。人間性とアート。技術としてのアート。
社会にとってのアート。
ここに書かれている、所謂アーティスト達の考え方
生きざまについては、非常にあこがれる部分が多くあります。
昔はこういう人間になりたかったなあという思いがあります。
いまになって、現実として社会からはぐれること。斜めに
なることはなかなか困難であります。
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命や魂といったものを全力で雑巾絞りにした時に、ようやく垂れた一滴…のようなこの読後の感覚は一体なんであろうか。
創作が個人になろうが、協同になろうが、結果的に多くの人が参与して(見た人も含めて)絞られる、その行為自体を「アート」と呼ぶのか。だとしたら「アート」は「社会」の中で立ち上がってくるものと言えるのだろう。
ただその時、滴った雫が「アート」なのか、皆の手に残る力一杯絞った跡が「アート」なのか、もしくはその双方が「アート」なのかは、よくわからない。
ただこれも「汝」に問いかける所作、「われーなんじ」へと繋がる路なのだろうと思われる。