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「サピエンス全史」
面白い。
新しい人類の解釈で今までにない視点なので売れているのもわかる。
著者は人類の進化の第一段階は認知革命にあり、虚構を作り共有して信じることが人類進歩の原動力だとしている。もちろん言語が重要な意味を果たしているのは言うまでもないが、具体的なものではない目には見えない抽象的なことを考えることができるようになった、ということが重要だったという。そしてそれを共有できるようになったと言うことが人間の連携を可能にしていると言うことである。
次に農業革命。農業により狩猟採集時代よりも人類は豊になり進歩したと考えられているが、必ずしもそうとは言えず、狩猟採集時代の方が暮らしは豊かであった。農業は食料のために働く時間を増やし、貧富の差を作り、定住することにより伝染病を発生させ必ずしも良くなったとは言えないとしている。しかし、食料を増産することができたので、人口は増え、働かなくても済む人たちができることにより文化が発生したと考えられる。そして文字を発明し、神を発明し、貨幣を発明し他の民族グループを征服することにより国を作り、また帝国を作るようになった。
そして科学革命。宗教という世界をすべて説明する虚構から、実は人間は何も知らないという無知と言う認識から科学革命が起こり、資本主義、産業、市場経済、グローバル社会が作られたと言う。
著者は人類のこの歴史の流れの中で、人類は幸福だったか、あるいは幸福かと問う。
他の生物を絶滅に追いやったとはいえ、自身の個体数が増えたと言うことは生物学的には成功だと言えるが、それは個人の幸福だとは言えないのではないかと指摘している。
そして、将来的には医療技術の発展やロボット工学、遺伝子工学の発達によりサイボーグやバイオニック生命体が作られ、超ホモ・サピエンスの時代に突入するのではないかと予想している。
ここまで来るとさすがににわかに信じがたいが、あり得ないと言うことではないかも知れない。いったい江戸時代に誰が今の生活を予想できただろうか。
著者が言うように文明・科学の発達は必ずしも個人の幸福を保証するものではないが、既に2500年も前に孔子が等しからざるを憂えて格差が社会を不安定にすることを指摘しているし、足るを知ることが幸福への近道であることを教えている。
著者はイスラエルの歴史学者であり、やはり欧米的な一神教による歴史観のように見える。
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最後のパラダイム転換は「科学革命」です。資本主義と相まって、“知り尽くすことは更なる力となる”という行動原理は、東洋と西洋を逆転させます。ここからサピエンスは進歩を夢見るようになります。最後に、進歩は幸福をもたらしたかと問い、更に、サピエンスの終焉は間近に迫っていることを記し、この後、何を望むのか?と問いかけて筆を置きます。上下巻で、ハラリさんのサピエンス文明史観が開陳されます。達意の翻訳で苦労なく読めました。
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貨幣の話とか面白かったけど、後半急ブレーキというか。上巻からの勢いそのままらにイッキ読みが吉か。ところどころに、澁澤龍彦の本に書いてあることが出てきて、あらためて澁澤の目の付け所に感心した次第。
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上巻に引き続き「虚構三兄弟」の一人「宗教」に触れた後、いよいよ帝国・資本・科学の共謀による拡大再生産構造=「軍事・産業・科学複合体」の本質に迫っていく。上巻と同様、ここでも著者は人間の集合的意識(集団的無知の自認)を起点に置いている。そしてその根底には「まだ知られていないものが何処かにある」「明日の富の総量は今日よりもっと多くなる」という期待があるが、著者のこれらの期待に対する評価が明確に異なるのが興味深い(前者はそれを知覚する手段の問題だが、後者は自然法則と矛盾するとする)。そして著者が「意識の集合体としてのサピエンス」を念頭に置く以上、後半のテーマとして「幸福」が取り上げられるのは必然とも言える。ここで面白いのは、イスラエル人であり恐らくはユダヤ教の影響を強く受けているだろう著者が、諸宗教の中で仏教に特別の地位を与えていると思しき点。恐らくは、「歴史の無方向性」、即ち歴史は人間の境遇の向上とは無関係であるとする著者の歴史観が、仏教における解脱の境地、即ち感情から逃れあるがままを受容する態度と親和性が高いのだろう。
なお、一般向け啓蒙書としてはカバーしている分野が広範であるため仕方のない部分ではあるのだが、エビデンスや他の専門家の意見が省かれているため、論調にやや断定的な響きが忍び込んでしまうという嫌味はある。ただこれは著者自身の偏狭さを表すものでは全く無いことには注意が必要だ。むしろ、視野狭窄(と言ってまずければ近視眼的短絡)に陥っているとみえる現代の喧しき人々に、ぜひ読んでほしい本だと思う。
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ホモ・サピエンス種?の歴史をとてもうまくまとめてあった。ある程度情報量が多くなるとその人の思考に沿った歴史となるが、とてもよかった。知識量が膨大なので疲れたけど、おもしろかった。未来についても書いてあったのでよかった。
これだけの情報量でも、人類史のほんの少し。生物が生まれてから考えてもほんの少し。地球が生まれてから、また宇宙が生まれてからもほんの少し。そして、そのほんの少しの時代の1人の日本人。でもそれぞれが意思をもって生きてる。すごいことだなと思った。人生やりたい事をやっていくべきだと再認識。でも今だけで生きてたら大きな失敗もした。危ない失敗を。だからやっぱり自分が一番自分を尊敬して、自分に責任をもって、みんなが自信もって生きていくことが大切なんだと思った。 人生楽しくなった。答えなんてないし、真理なんてものもない。考え続けること。でも考えてばっかでも進まない。答えなんてない。有限だから良い。愛する心とか楽しい気持ちが大切。一瞬一瞬は奇跡。より良い世界にはなってる。より良いために考え続け、行動し続けよう。
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宗教と資本主義の項は少し読みにくかった。それでも上巻同様読みやすく明解で断定的なペースは変わらない。
面白かった。
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経済学から宗教、物理学、そして進化論。私の学術的興味を充分に満足させ、さらなる理解を深めてくれた。これだけの内容を網羅的に学ぶとしたら何冊もの学術書を膨大な時間をかけて読み込まなければならない。私のブルーバックスに端を発した50年以上にわたる学術書籍の読書経験の集大成とも言える内容である。素晴らしすぎる。
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近現代に話が移ってきた下巻。
人類は今までどう進化してきたのか?
そもそも進化なのか?
事実としての歴史ではなく、背景や裏側からその事実を紐解いていく。
さらに後半は未来に向かっての展望となり面白い。
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ホモ・サピエンスは最強なのは、絶対的な時間軸の上では、ほんの一瞬のこと。
想像豊かな能力が未来のどこに向かうのか…
まだ間に合うのだろうか?
最強でいられる時間は、どのくらい残されているのだろう?
消えてしまう、時間を越えられない、
最後のとき、信じるもの。
今はあると力強く言える。十分。。。
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上巻で深堀した道徳的な側面を受けて、経済的側面に踏み込みつつ、幸福論や人生目的論に再び繋げている。経済面において、科学と資本主義の関係、戦争と文明の変遷など、目を見張る論理展開が引き続き展開されている一方で、再び道徳に落とすにあたってはやはりこういった論理展開になるのか。人類が何を望みたいのかわからないように、我々が落としどころを綺麗に消化できないのも、いわば同一視すべき問題なのかもしれない。
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読書会の課題本ということで読んでみた。前半の宗教やイデオロギーについては、粗雑で強引な論理展開が多く、ほとんど共感できなかった。全体の結論にあたるだろう最後の二章では、あまりにも虚無的なブラックジョークとしか思えない議論が多く、ちょっとどうか?と思う部分も多かった。正直、騒がれすぎだと思う。
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面白い
宗教、資本主義、帝国主義、貨幣、信用と社会の構造を述べるだけでなく、ギルガメッシュプロジェクトなど未来の予想までも書かれている
歴史、経済、政治、社会という学問を網羅している
新しい形で社会を知るためにいい
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読書記録です。
ひとことで言うと「コワイ本」です。
ラストはそこに持っていくのか~
歴史は繰り返される。有史以来、人間の求めるものや築くもの、壊すものや再生するもの。
歴史から見ればモブにもならない私の人生は、小っさ過ぎて笑える。でも、その小っさいモブの自分勝手な幸福への追求が歴史を動かしていく。
そんなに多くのことを求めていないつもりなんだけど。
強く願ってるのは「痛いのはイヤ」「一汁二菜で充分」「こどもたちに迷惑かけたくないな」ぐらいなんだけど。
ささやかな願いでも叶えようとしたら、人体実験が必要だし、搾取したモノを口にするんだろうし、代わりに世話をしてくれる他人に迷惑をかけることになるんだろうな…
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致し方なくラベルを「世界史」にしてあるが正確には「人類史」である。恐ろしく抽象度の高い視点で人類の歴史を振り返っても見通せる未来は短い。科学革命~産業革命を経て情報革命に至ると技術進化の速度は限界に近づく。シンギュラリティ(技術的特異点/※想定では2045年)を超えればヒトは主役の座から引きずり降ろされるに違いない。
http://sessendo.blogspot.jp/2017/04/blog-post_10.html
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近代科学と従来の知識の伝統の違い(pp.58-59)
・進んで無知を認める意志。
・観察と数学の中心性。
・新しい力の獲得。(説だけでなく、新しいテクノロジーの開発を目指す)
自由市場資本主義は、利益が公正な方法で得られることも、公正な方法で分配されることも保証できない。それどころか、人々は利益と生産を増やすことに取り憑かれ、その邪魔になりそうなものは目に入らなくなる。成長が至高の善となり、それ以外の倫理的な考慮というたがが外れると、いとも簡単に大惨事につながりうる。(p.159)
歴史的視点に立つと、私たちがこうして楽観できることこそが、素晴らしいのだ。人々が戦争を想像することすらできないほどに平和が広まった例は、これまでに一度もなかったからだ。(p.209)
何にも増して重要な発見は、幸福は客観的な条件、すなわち富や健康、さらにはコミュニティにさえも、それほど左右されないということだ。幸福はむしろ、客観的条件と主観的な期待との相関関係によって決まる。(p.222)
私たちは直感的に、銀行家のほうが農民よりもずっと幸せだろうと考える。だが、泥壁の小屋やベントハウス、シャンゼリゼ通りが私たちの気分を本当に決めることはない。セロトニンが決めるのだ。中世の農民が泥壁の小屋を建て終えたとき、脳内のニューロンがセロトニンを分泌させ、その濃度をXにまで上昇させた。(中略)肝心なのは、セロトニンの濃度が現在Xであるという事実だけだ。そのため、銀行家の幸福感は、はるか昔の祖先である中世の貧しい農民の幸福感を微塵も上回らないだろう。(p.230)
人々が自分の人生に認める意義は、いかなるものも単なる妄想にすぎない。(中略)幸福は人生の意義についての個人的な妄想を、その時々の支配的な集団的妄想に一致させることなのかもしれない。私個人のナラティブが周囲の人々のナラティブに沿うものであるかぎり、私は自分の人生には意義があると確信し、その確信に幸せを見出すことができるというわけだ。(p.234)