紙の本
目から鱗が落ちつつ、考えさせられることが多い
2022/01/04 18:08
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投稿者:とりこま - この投稿者のレビュー一覧を見る
下巻はより近い時代の人類史で、科学、帝国、資本主義の関わり方や人類にとって幸福とは?ということを主なテーマとして語られている。
科学革命は、ヨーロッパ人が「無知」を自覚したことから始まるという捉え方がとても新鮮だった。それまでは主にキリスト教に代表される一神教において、神はすべてを創造したという宗教観が支配していたが、それでは説明できない重要な事柄が出てきたことから、まだ解き明かされていないことが多数あるのではないか、という考え方に転換したことがキッカケだという。
解き明かすために必要なことが資金であり、それは帝国という統治体制や資本主義とうまくリンクできたことが科学革命のカギであったという。
これらの考え方は、まさに目から鱗が落ちるという表現がピッタリで、色々な事例も相まって説得力があった。
また、人類は幸福なのかについても触れているが、価値観の違いとかいうレベルではなく、考えさせられるものがあった。
歴史の捉え方としても、常に分岐点があり、多数の選択肢から選ばれた結果が今であるが、必然の結果であったわけではないこと、数多の結末が考えられたことは常に心に留め置いておく必要があると感じた。
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遺伝操作、サイボーグ、脳内を見る等これからどんどん科学技術は進む中、サピエンスを肉体的にも精神的にも越える知的な生命体がいつか生まれる。
科学の進歩は死や老や病から逃れるために進むことを止めることはできない。
サピエンスはネアンデルタール人と同じ運命になるのか・・
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『サピエンス全史』と柄谷行人
(柄谷行人を読んだことがない人にはわからない話ですみません。上下通したレビューは上巻の方に書きました)
この本を読んで改めて柄谷行人という哲学者の射程がどこにあるのかがわかったような気がする。人類の歴史を描いた『サピエンス全史』と柄谷行人の『世界史の構造』が扱うテーマがかなり重複しているのだ。
『世界史の構造』では、特徴的な四つの交換方式の重点の推移によって世界史の変遷を説明しようとしたという印象が強く、それはひとつの分析として素晴らしいのだが、やや無理筋であると感じるところも多かった。しかしながら、それまでの柄谷行人の関心を持ったテーマを『サピエンス全史』とともに振り返ると、彼が「人類の歴史」- つまりわれわれがなぜ今このような形としてここにあるのか、ということをずっと問いとして持っていて、答えとなるべきものをずっと提示しようとしてきたのだということがわかるような気がする。そのことを、「サピエンス全史 文明の構造と人類の幸せ」というタイトルの本とのテーマの合致を見て初めて気づくことになった。そして、その合致は偶然ではなく、彼の関心領域から導き出される必然でもあると感じた。
『マルクスその可能性の中心』などにおける「貨幣」への注目。『NAM21』の活動では地域通貨の実践にまで踏み込もうとした。『探究I』におけるコミュニケーションへの注目。『探究II』における「世界宗教」への注目。『帝国の構造』などの近年の「帝国」への注目。『世界史の構造』では「農業革命」にも注目している。カントの永遠平和の考え方も、『サピエンス全史』に出てきた資本主義のグローバル化における世界平和に関する考え方も実は似ていたりもする。
もう少しじっくりと柄谷行人の仕事について、『サピエンス全史』に沿った形で整理するようなことをしてみたい。それほど、読んでいて柄谷行人のことを思い出すことが多かった。それが、きっと柄谷行人という思想家をより深く理解することにつながる予感がする。
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『サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福』
http://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/430922671X
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知的興奮度絵抜群の読み応え。
下巻では上巻の認知革命、農業革命に続き、
科学革命と帝国主義・資本主義の融合が説かれ、
果たして人類は幸福になったにか?が問われる。
現代社会は全人類の基本的な平等性を認めたことを誇りにしているが、これまでで最も不平等な社会を生み出そう
している。超ホモ・サピエンスの時代はすぐそこまで来ているのかもしれない。
私たちは何になりたいか?ではなく、何を望みたいか?を考えることで科学の進歩に影響を与えることができる。
不満で無責任な神々ほど危険な存在ない。
仏教の無我、瞑想は不満そのものをいしきしないところにある。この言葉に可能性を感じる。
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アフリカの片隅でビクビクしながら生きていたサピエンスはやがて「認知革命」「農業革命」「科学革命」といくつかの革命的進化を図り「万物の霊長」と名乗るまで成り上がる。
生物学・地質学・歴史学・哲学・化学…ふんだんな知識を基に「我らが種族」の文字通り全史を語り下ろしたもの。
各地で生態系をぶち壊す様は、読んでいて自分がサピエンスであることが情けなくなるような気分の一冊。
すごいわ
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近年多い、人間の「全史」を俯瞰的に、全体を追った歴史本の一つ。何故多いのか?背景には、生物学やテクノロジーなどサイエンスの発展に基づく新発見、従来説の見直しが、人類の起源から現在まで、もう一度再検討しようという機運の高まりがあるように思う。
そして「暴力の人類史」「繁栄」「銃・病原菌・鉄」他の大作著作は、それぞれの著者がそれぞれの異なる視点で全体を捉え、それぞれに発見がある。
著者ユヴァル・ノア・ハラリの立場はいわゆるリベラル的。反グローバリズム、ルソー的な反文明主義、自然に還れ的な、狩猟時代より現代人は不幸、と考える立場からの「人類史」である。(反論はあるだろうが、これは本のプロモーションを兼ねた著者のインタビューを読んで補強された)。
正直、本書はツッコミどころが多い。著者の「思想」に沿って全体が解釈されるが、根拠となる細部は強引な部分も目につき、明らかに歴史的事実の間違いでは?というところも散見され、不遜な言い方だがそこは著者の知識・研究不足なのでは?とも思える。
サピエンス支配が「誇れるもの」を何も生み出さなかったというのも著者の価値観のうちであり、何を価値と考えるかによって見方は変わるだろう。農耕革命からのテクノロジーの発展が、人類を不幸にしたという観点は彼の「解釈」であり、価値を見出す側からは逆の「解釈」の主張も成り立つだろう。そして幸福と不幸は科学的に判断し得ない個の価値観の領域でもあるとも思う(統計的に数値する手法もあるにはあるが)。
畜産の現状に対しての残酷さの主張(工業製品を生産するかのような生物の扱い)についても、 自然界にある捕食動物の「残酷さ」の凄まじさを見れば(生きながらハイエナの群れに食われる草食動物、雄ライオンの子殺し等々)動物好きな私から見て、自然の非情さに対する著者の認識、知識はどの程度のものだろう? との疑問も感じた。
神話や宗教だけでなく、国民国家、貨幣や法制度、人権や自由までも人間の価値は虚構だと指摘する著者に、訳者は解説で「私たちの価値観を根底から揺るがす」と語る。しかしこれは吉本隆明の共同幻想論よりもはるか前から、西欧の認識で見れば19世紀末にニーチェが「神は死んだ」と宣言し、宗教への幻想が消えた100年以上前から現在に直接つながるカタチで、すでに「実は裏主流」である考えだ。また著者は価値観の虚構性を語りながら、自分の価値観からの批判という自家撞着に陥っているところもある。
個人的には最後の部分での指摘が、全体の白眉であり、粗雑さ不備を補ってあまりあるものになっていると思う。著者はそこで科学の高度化が自らを含む生物を操作する「特異点」にまで達し、今現在(ニーチェ流にいえば、)これまでの旧サピエンスと新サピエンスの分ける新旧の「彼岸」にまで達していると論じる。
この著者が指し示す、これまでサピエンスの先にあるもの、それは恐ろしい故にに興味津々だ。19世紀末の「超人」は哲学的な思索の産物だが 、21世紀から始まる「超サピエンス」はサイエンスによって現実に現れ著者の批判する畜産のように大量生産される……
ニーチェでいえば、「ツ���ラトゥストラ」のような大きな地殻変動をもたらす完成形というより、処女作「悲劇の誕生」のように欠点を持つが得体の知れないパワーのある書のように思う。本の魅力は完成された既知の話より、ツッコミどころは多いがスリリングな知的刺激のある本のほうが勝る、そう感じされる一冊。プロフィールを見ると著者は1976年生まれだから35歳のときの著。若い本だ
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(P47)歴史は決定論では説明できないし、混沌としているから予想できない。歴史は二次のカオス系なのだ。二次のカオス系は予想に反応するので正確に予想することは決してできない。
(P49)文化は一種の精神的感染症あるいは寄生体で人間は図らずもその宿主になっていると見る学者が増えている。
拡大するパイという資本主義のマジック。
(P140)ここ数年各国政府と中央銀行は狂ったように紙幣を濫発してきた。こうしたマネーが注ぎ込まれるバイオやナノテクなどのイノベーションがバブルが弾ける前に起こるのに期待するのみ。起きなけれは厳しい時代になるよね。
(P218 )
近代のサピエンスが成し遂げた比類のない偉業について私達が得意がっていっれるんは、他のあらゆる動物たちの運命をまったく考慮しない場合に限られる。動物愛護協会の10分の1でも主張を認めるなら工業化された近代農業は史上最悪の犯罪ということになるだろう。地球全体の幸福度を評価するに際しては、上流階級や欧州人、あるいは男性の幸福のみを計測材料とするのは間違いだ。おそらく、人類の幸せだけを考慮することもまた謝りだろう。
(P231)人間を真の意味で幸せにできる唯一の方法、は生化学的状態の操作である。永続する幸福感は脳内物質であるセロトニンやドーパミン、オキシトシンからのみ生じるのだ
人生の意義 (P232)ダニエルカールマンの研究。幸福とは不快な時間を快い時間が上回ることではない、ある人の人生全体が有意義で価値あるものとみなせるかどうかにかかっているというのだ。例えば、子育ての種々を役務とみれば負荷だが、新たな命を育んでいると見なすなら意味が全く違ってくる。有意義な人生は困難の只中にあっても満足の行くものであろうし、無意味な人生は快適な環境下にあっても厳しい試練となる。
(p240)過去の出来事が、他の生物種や個々のサピエンスの幸せや苦しみにどのような影響を与えたのかについては、これまでほとんど顧みられなかった。著者はこれを「人類の歴史理解にとって最大の欠落」とし、「この欠落を埋める努力を始めるべきだ」と。
(P256) 2005年に始まったヒューマンブレインプロジェクトは、コンピュータに完全な人間の脳を再現することを目指している。 このプロジェクトは2013年に欧州連合から10億ユーロの補助金を受け取った。 ニーチェの初期の思想におけるディオニュソス概念がツァラトゥストラに結実したこと、また永劫回帰の思想がはじめて本格的に展開されたことは、この書物の意義の一つである。ツァラトゥストラとは、ゾロアスター教の開祖の名前であるザラスシュトラ(ゾロアスター)をドイツ語読みしたものである。しかし、この著作の思想は、ザラスシュトラの思想とはあまり関係がない。
ゴータマの思想。ものごとをあるがままに理解すれば、もはや苦しみはなくなる。悲しさの中にも豊かさはありうる。
ミシシッピバブル 1719年 フランスで立てられたこの計画は、開発バブルを引き起こし、会社の業績が極端に悪いのに発行価格の40倍にまで株価が暴騰する事態を招いた。チューリップ・バブル(オランダ)や南海泡沫事件(イギリス)とともに、三大バブル経済の例えとして知られる。
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私たちサピエンスの、古代から現在に至る物語、その下巻です。上巻では人類の成長(変異?)がどのように起こっていき、それが他の種族とどのように違っていったかが書かれていましたが、この下巻ではそこからのサピエンスの独走、特に科学革命以降の爆走ぶりが書かれています。何万年もかけてゆっくり変化していった私たちでしたが、科学革命以後はそれが一気に進んでいきます。もう10年前と今でも社会は変わってしまっています。そしてそれは、果たして私たち個人の幸せになっているのだろうか。深く考えさせられる問題提起が、最後に挙げられています。このまま考えられる未来像についても、期待と不安と織り交ぜた世界を例示され、私たちはどのように未来を迎えるべきなのか考えることの必要性を感じました。
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ホモ・サピエンスに対する善悪の評価をすること自体、ナンセンスと思わざるを得ない。地球という存在に意識や意思があるわけでもなく、善悪の概念自体、著者自身が主張するホモ・サピエンスだけが獲得した認識革命の産物なのだから。また、著者の幸福の定義である、ビフォーアフターのギャップが幸不幸の源ということであれば、特に科学革命、産業革命以降、現代に至るまでは、進歩という形で常にギャップを編み出すシステムに切り替わったことにより、幸福を増大させてきたのではないだろうか。いうことで最後はハテナマーク満載ではあるものの、政治体制やイデオロギー、自由平等や資本主義の本質を宗教と同様のフィクションとして同列化し、相対化したことは、それぞれの主義主張の本質をついており、非常に説得力のある説だと思う。ジャレドダイヤモンド、マットリドレー、ダニエルEリーバーマンの著者に興味のある方には、特におすすめというか、必読の本。
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上巻では、フィクションが人類を発展させたエンジンになったことが指摘されたが、下巻では「帝国主義、科学主義、資本主義」の3つのフィクションが現代世界を形作っていると解説する。未来は現在よりも良くなり、パイは拡大するというフィクション。向上心や競争、新発明を生み、病気や災害を減らす一方で、格差を生み、生物の絶滅を生んだ。世界はかつてないほど平和で安全な時代に入ったが、今後人類はどのように進んでいくのか。筆者は生物工学的発展、サイボーグ的発展、非有機的生命的発展の3つの選択肢を示す。どれもわずかながら実現されているところが説得力を感じる。どれになったとしても、その後の人類は現在のものとは想像もできないほど変化していると考えると、そら恐ろしい気になるが。
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下巻では近代の科学革命から未来のサピエンスについて考察している。どの論説もなるほどとうなされるものがある。また、第19章の「文明は人間を幸福にしたのか」は大事。幸福をサピエンスの長い歴史の中で考察する。サピエンスの日々の行動は、幸福を追求するものがほとんどであろう。ただし、そもそも幸福の定義から深く考えていくと、幸福度を表すうまい指標がない。だからといって現代が幸せな時代ではなく、単純に昔の方が良かったと結論していないのがいい。少なくとも特定の条件下では幸福であるのは間違いない。本書はさらに未来のサピエンスについて考察する。もうSFの世界になってしまうが、数万年後には何が起きているか誰も予想できないわけで、むしろ本書で予想される範囲であれば、時を待たずして実現されていくのではないかと、恐怖さえ感じる。本書は自分を見失いそうになったときや、何らかの原点に戻りたいときに読み返したい。
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【メモ】
(P192)王国や帝国の多くはじつのところ、巨大な用心棒組織と大差なかった。
(P197)国民と消費者ー2つの部族
・国民は各国家に特有の想像上のコミュニティ
・消費者は市場の想像上のコミュニティ
投機
・えさをまいておく
・小口投機家(ザコ)が集まってくる
・バブルが起こる
・実体に欠ける 金融不安
・中央銀行が紙幣をどんどん印刷(国家の信用を担保に/税金をいつでも巻き上げられる)
・大口投機家は逃げ切り、国家は破綻寸前
(1719年ミシシッピ会社 恐慌 →フランス革命)
→王の権力や、市民や民衆の財産を、合法的(グレー、ぎりぎり)で、奪う
・リーマンショックも同様、アベノミクスも紙幣を刷って国債を増やし、大口投機家の資産を増やしている
・金価格の上昇は、実体や実体が支えられるよりも、どのぐらいバブルが膨らみ、どれぐらい紙幣を刷り過ぎているかの指標
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数ある生物種の中でホモ・サピエンスのみが文明を構築し、地球を支配するに至った理由を、
・地域、国家、企業、宗教などの共同体を組成させ、安全な生活基盤の構築に繋がった「認知革命」
・狩猟採集生活に比べて個々人の生活の充実度は下がったものの、数量の増加を実現した「農業革命」
・他の生物種を圧倒しながら、生活の利便性を向上させることに成功した「科学革命」
という3つの革命から説明する歴史書。下巻では「科学革命」の歴史と、今後行き着く革命の姿が描かれる。
下巻の白眉は、
・科学の発展は、資本主義と帝国主義の発展と3つどもえの関係性になっていること
・近現代が圧倒的な経済発展を遂げたのは、その関係性の中で「成長」が信用に値するものとしてみなされ、「投資」が促進されたこと
を平易な語り口で明らかにする点にある。
近代以前の社会においては、社会が「成長」することへの期待感は低く、むしろ「投資」という行為はリターンに見合わない行為とみなされていた。しかし、科学による「進歩」の概念と、科学による副産物として得られる「技術」は、リスクを引き下げ、リターンを向上させる方向へ寄与する。その結果、消費ではなく「投資」が促進される、というロジックである。
本書は人類の歴史を、極めて広範なパースペクティブから語るものでありつつ、科学、宗教、経済等、固有の歴史についても要点がまとめられており、あらゆる人にお勧めできる一冊。
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下巻に入って、なぜ、この本がいま書かれたのか、わかったような気がしました。饒舌なほどの事例の木の葉の奥にはしっかりとしたシンプルな木の幹がある、という読み応えは上巻からありましたが、読了して、改めて題名と副題の「サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福」という言葉が立ち上がりました。この本、シンギュラリティ時代の幸福論なんですね。ホモ・サピエンスが他の人類を駆逐して地球を我が物にして来た結果として、ホモ・サピエンスは自ら違う種になり得る入り口の扉を開けようとしているタイミングだからこそ、我々の前に現れた本だと思います。この本が、イスラエルという(国というより地域)サピエンスにとって歴史的な場所から発せられているのも意味深かも。ここで書かれているバイオテクノロジーだけではなくカールワイツがウキウキと話すAIと人間の脳を直接ログインする時代の人間ってなんだ?的な問いには、これだけ人類という種の特異性を確認しておかないと答えられない、ということなのではないでしょうか。それにしても「成長」という言葉の呪縛から離れ、ただ「変化」するという状態で、さて何を頼りに生きるのか?
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科学革命から生命倫理・環境倫理の話題に展開してしまったのは勇み足というか失敗だったのではないか?そもそも事実を問う歴史と価値を問う倫理の共存は難しいわけで、書籍としての全体的なまとまりがなくなってしまった。結果、歴史本なのか倫理本なのかわからなくなってしまった。これが学問的混乱状況を示唆していると言えるのかもしれないが、そもそも現代や未来を論じるのは歴史学ではないわけで。
著者の関心は「幸福の歴史」にあるようだが、これを実証主義的に研究する事は困難(過去に生きた人が幸福だったのか否かは基本的に判別不可能だから)であり、やるとしても「幸福論の歴史」といった思想史になってしまうだろう。社会史とか民衆史をやるとしても、その時代が幸福なのか否かは現代的価値観によって意味づけする以外に方法はないし、これは歴史学ではない。
13章は歴史哲学的内容で著者の苦悩も感じられ中々興味深いのだが、「歴史はHOWは論じる事はできでもWHYをを論じる事はできない」とまで認識しているにも関わらず、上下巻を通じて、只管歴史のWHYについて論じているように感じたのは自分だけだろうか?ちなみに自分は歴史学者は歴史のWHYについて論じるべきであるという立場ではあるが、それが解釈学や物語り論の問題と関係していると認識している。そして、まさにこの本が著者流の解釈学に基づいた物語り論で満ち満ちている典型だと感じる次第である。