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エーコの遺作となった長編小説。
『薔薇の名前』や『フーコーの振り子』を始めとした超大作に比べると短いが、濃厚な内容がシンプルに纏まっていて読みやすい。
何処までが真実で、何処までが虚構なのかが曖昧になるのは、東京創元社から邦訳が出た『プラハの墓地』とも共通している。しかし本作ではジャーナリズムや陰謀論が主たるテーマになっているだけあって、ある種の下世話さや俗っぽさが喜劇的に描かれているように思う。
『フーコーの振り子』でも比較的近いテーマを扱っていたが、本書の方がエンタテイメント性が高くとっつきやすい印象。
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これホンマにエーコ?と言いたくなる読みやすさ。「薔薇の名前」はおろか「プラハの墓地」や「バウドリーノ」に比べてもスラスラ読める、というか読みやす過ぎてあっさり読み終わって何かちょっと損した気分(言いがかり)。中身的にも軽くてちょっと物足りないかな…
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『薔薇の名前』で一躍世界中で知られることになったウンベルト・エーコは、今年二月に亡くなったばかり。つまり、これが最後の小説ということになる。博識で知られ、一つの物語の背後に膨大な知識が蔵されていて、それらのサブ・テクストを読み解き、主筋に折りこみながら物語の森と化したテクストを追うことが必要となるため、読むにはそれなりの時間と体力を要した。さすがに、最近は『バウドリーノ』や『プラハの墓地』のように、よりエンタテインメントを意識した作風に変わってきていたが、『ヌメロ・ゼロ』は、さらにその傾向を強め、誰でも楽しく読める小説になっている。
1992年のミラノ。コロンナは、シメイという男にデスクとして雇われ、新しい日刊紙『ドマーニ』の発刊に向け、準備作業に追われていた。出資者はコンメンダトール(イタリアの勲位)・ヴィメルカーテという業界では名を知られた人物。真実を暴く新聞を作りたいというのが表の理由だが、本音は業界の裏話を書くぞ、と脅せば関係者が手を回し、自社株を安く回してくれたり、名士仲間に入れてくれたりするだろう、というのが読みだ。つまり、新聞は日の目を見る前に発刊取りやめになることが予想される。
そこで、シメイは発刊準備から発刊中止に至るまでを小説に書いて売り出すことを思いつく。前評判をあおっておけば、いざ中止となった時の保険になる。自分には本を書く力はないので、ゴーストライターとしてのコロンナの腕を見込んでの抜擢だ。他に六人の記者を雇うが、彼らには本当のことは伏せておき、見本として作る創刊準備号の編集会議を開く。会議の内容がそのまま本になるわけだ。パイロット版の名前がタイトルの『ヌメロ・ゼロ(ゼロ号)』。
ジャーナリズムを舞台に、その内幕を暴くのがエーコの狙いだ。労働騎士勲章を叙勲し、支持者にはイル・カヴァリエーレと呼ばれるベルルスコーニ元首相を髣髴させる、コンメンダトーレが考える新聞だから、左翼やインテリ向けではない。ふだん本など読まない読者が興味を持つような記事の作り方を話し合う毎日の編集会議はぶっちゃけ抱腹絶倒の怒涛の展開。エーコの饒舌が乗り移ったかのように、どの記者もトンデモない話をぶちあげる。それに駄目出しをしてシメイの言うのが…。
新聞の役割は、真実から人々の眼をそらすことだ。重要な事件が起きたときは煽情的な記事を一面に載せ、人々の目に留まらない紙面にその記事を載せる。また、正義の告発をした人物をひそかにつけねらい、彼が公園で何本もタバコを吸って足下に吸い殻を落としているところや、中華料理屋で箸を上手に使って食べているところ、テニス・シューズにエメラルド・グリーンの靴下を履いているところなどを撮影し、それを発表する。そうすると読者はその人物を信用できない人物としてみるようになる等々。
訳者あとがきによれば、靴下の色や中華料理の箸云々のエピソードはエーコ自身の実話だそうだ。語り口調は、いかにもあり得ない話をしているようで、随所に(笑)マークが入りそう。しかし、ことはイタリアに限らない。下っ端のやっている白紙領収書問題はテレビや新聞も採り上げるが、大臣クラスになると、ほとんど採り上げない。��れでいて、政府や政権与党に不都合な人物だと、終わった事までほじくり出しては騒ぎ立て、ついには政治的生命を終わらせる。
つまり、裏返しなのだ。不真面目に見えるように書きながら、実は大真面目。それは、もう一つのテーマである「陰謀論」にも当てはまる。編集者仲間のブラッガドーチョは、何かというとコロンナを飲みに誘っては自分がずっと追いかけているネタを延々と話すのがくせである。そのネタというのが、ムッソリーニ替え玉説だ。背後に秘密組織があり、時機を見て南米あたりに隠しておいたムッソリーニを擁し、クーデターを起こそうとしていた、というもの。
現代イタリアに起きた数々のテロ事件や法王の暗殺騒動など、実際にあった事件を列挙しながら、それらすべてに関係するのが、ステイ・ビハインド、CIA、NATO、グラディオ、ロッジP2、マフィア、諜報部、軍上層部、大臣、大統領だと説く。この手の陰謀論は掃いて捨てるほどあり、いちいち本気にしていると頭がくらくらしてくるが、一つ一つの事件を子細に検討していくと不審な点が多く残っているのも事実。それでは、なぜ追及されずに放置されてしまっているのかといえば、我々の記憶が、そうは長持ちしないからだ。
「記憶こそ私たちの魂、記憶を失えば私たちは魂を失う」とエーコは言う。事実、主人公とその周辺の人物は架空だが、話の中に出てくる事件、組織、かかわった人物はすべてイタリア史に残る事実である。エーコは、ともすれば忘れてしまうことを本に書くことで記憶に残そうとしている。ブラッガドーチョの仮説が事実なのか、それともただの妄想なのか、エーコのすることだから、これが本当ですよと力説するはずもなく、真偽については読者が自分で考えるしかない。
どう考えてもおかしい事件が、まともに取り上げられることなくうやむやに終わってしまっている事は今のこの国にいくらもある。正常な判断力をなくしてしまったような国に、ほとんど絶望しかかっている者としては、小説の最後、危険を感じて逃げようとした主人公が恋人の言う、中南米のようにすべてが白日に下にさらされている国ならかえって安全かも、というのに答えて返す言葉が心に響いた。文中のイタリアを日本に入れ替えてみて、そこに何の不都合があるだろう。
「イタリアも少しずつ、君の逃亡したいという夢の国になりつつあるんだよ。(略)汚職にはお墨付きがあり、マフィアが堂々と議会に入り、脱税者も政府にあって統治する。(略)良心的な人たちは悪党たちに投票し続けるだろう。(略)あとはどうにでもなれだ。待てばいいだけだ。この国が決定的に第三世界になれば、住みやすいところになるよ。まるでコパカバーナさ。歌にもある。女は女王。女は君主って」
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イタリア現代史の知識が無かったので、読み進めるのに苦労した。途中で中だるみしてしまった。
大衆はいかに忘れやすいか、メディアに操作されやすいかという点に気づかせてくれる。
人は忘れる。忘れ去られる。エーコはそうではないが。
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ウンベルトエーコ「ヌメロ・ゼロ」http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309207032/ … 読んだ、初エーコ。おもしろかった、小説としてではなくゴシップというかサイゾー的というかブラックジョークとして。編集会議の内容が低レベルで高慢だけど、多くの企画会議の実際もこんな感じだものなあ(つづく
でもこの本で何をしたかったのかはよく判らない。ミステリー風だけどミステリーは成立してないし(だから頭と終わりを離さずに時系列のままでよかったと思う)、メディアの情報操作や大衆愚民視を白日の下に晒す的な幼稚な意図ではまさかないと思うし。作家本人の知的満足のためだったりして(つづく
本に出てくるのは実際の事件だと解説で知ってから考えると、事件の裏や陰謀の自説を書くことでメディアリテラシーを高く持ってねと言いたかったのか?でも、メディアが広告収入で食べている限り情報は事実だけど真実ではないなんてみんな判ってるし鵜呑みにする人なんて居ないし。ちょっと青い(おわり
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エーコの遺作は「ジャーナリズム」と呼ばれるものの実態、現場を抉り出す。
訳者はあとがきでこれらをイタリアマスメディア特有の現象のように説明するが、いやいや、日本も同じでしょ。
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記憶こそ私たちの魂、記憶を失えば私たちは魂を失う。―ウンベルト・エーコ
「握りつぶされた真実を告白すること」を目的とした新聞の創刊を目指し、パイロット版として「ヌメロ・ゼロ(ゼロ号)」の編集に取り組む記者たち。
しかしその新聞発行の裏には、出資者の利益を図る企みが潜んでいた。
そして編集会議で日々繰り広げられるのは情報操作のテクニック。
そこに見られるのはまさしく、歪んだジャーナリズムのお手本のような実態だった。
一方で、未解決のテロ事件、ローマ法王の死をめぐる疑惑、ムッソリーニをめぐる陰謀説など、歴史の闇に葬られ忘れ去られた事件にふたたび光をあてようと調査を進める一人の記者。
彼の命が狙われることで事態は意外な展開に―
□□□
以上、本書の袖にある「あらすじ」を引き写しました。
ウンベルト・エーコは「現代イタリアの知の巨人」とも称され、哲学、記号論、マスメディア論の学者にして評論家、小説家。
私は長年、愛好する辺見庸さんの著作で知りました。
辺見さんは、日本国をしばしば「あらかじめのファシズム」と呼んで糾弾しますが、その際、頻繁にエーコを引用しています。
たとえば、
「(ファシズムには)いかなる精髄も、単独の本質さえもない」
など。
エーコは、現代社会に警鐘を鳴らす含蓄の深い言葉をいくつも残しています。
さて、本書は、冒頭にも記した通り、新聞の創刊を目指す編集部が舞台。
ただ、編集会議ではもっぱら読者をどう騙すかに知恵を絞ります。
いや、厳密に言うと、「騙す」というのとは違いますね。
真実を語りながら、読者を一定の方向に誘導していくのです。
騙すよりも性質が悪いと言えるかもしれません。
編集会議では、「言いまわしリスト」なるものも登場します。
「一石二鳥の策、生殺与奪の権を握る、血で血を洗う選挙戦、対立も辞さない、揺れる政権、先行き不透明、求心力の低下、いよいよ大詰め、視聴率の落ち込み、Uターンラッシュがはじまった(後略)」
さあ、今朝の新聞から、これらの常套句をいくつ発見できたでしょうか。
物語のもうひとつの軸は、登場人物のひとりブラッガドーチョの調査です。
ムッソリーニの最期の謎に迫り、それを手掛かりに現代に至るイタリアの知られざる歴史の姿を克明に浮かび上がらせます。
もちろん、そこに登場するのは実在の人物であり、実際に起きた出来事です。
さすがにエーコだけあって読ませます。
新聞の創刊が最終的についえ、最後に紅一点の記者マイアが、主人公のコロンナにこう言います。
「ねえ、秘密なんてなくて、すべてが白日の下に行われる国を探しましょうよ」
これに対して、コロンナはこう答えます。
「マイア、イタリアも少しずつ、きみの逃亡したいと言う夢の国になりつつあるんだよ。BBCが語ってみせたすべてのことを、おれたちがまず受け入れもし、忘れもしたということは、恥を忘れることに慣れつつあるということだ。(後略)」
アイロニーの利いた言葉です。
ただ、汚れていない政府はないし、ジャーナリズムも公正ではあり得ません。
それ���らば真実を見る目を磨き、記憶するしかない。
エーコは本作を通して、そんなことを私たちに伝えたかったのではないでしょうか。
そのエーコは今年2月に死去。
本作が遺作となりました。
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エーコ最後の小説。
「フーコーの振子」を想起するような架空の日刊紙を編集する編集部が舞台なのですが、ムッソリーニから続く陰謀の謎という風呂敷が大きすぎるのと、戦後のイタリア事情を理解していないので、騙されてしまったようです。
一つは、陰謀の謎を推理した編集者の死とエーコの死が重なりましたが、エーコは癌だったそうなので、もう一つの理由からも穿ちすぎだったかもしれません。
メインの陰謀のようなものですが、実際にTV放送が元ネタなら、物語の中でも指摘されたようにゼロからではない妄想に付き合ってしまったと思います。
それでも、作者の死はイタリア、バチカンの裏物語が届きにくくなってしまうことへの無念と合わせて追悼したいと思います。
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面白い。こんな設定は中々考えつかない。歴史は忘れられる、そのためいいように書き換えられる、そもそも初めから真実が伝わってないことも。内容は深いがさらっと読める。
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ウンベルト・エーコ遺作。正直『パウドリーノ』は面白いと思わなかったが、こちらは社会派サスペンスとして面白い。「ニュースがなければ作ればいい」。
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『ありとあらゆる確信を失ったよ。我々の背後にはいつも誰かがいて、確実に我々を騙すのだ、ということ以外はね』―『四月七日 火曜日』
世の中には秘密結社というものが存在して世界的な陰謀を企むなどというのはそれを利用したい人々が流布した都市伝説に過ぎない、と「プラハの墓地」で描いてみせたウンベルト・エーコの最期の著作は、前作とはまるで逆の響きを奏でる。正に世界的な陰謀に巻き込まれる主人公の物語。読み終えて暫し混乱した頭を抱える。
例えば「ダ・ヴィンチ・コード」の著者が小説に描かれていることは全て事実だと主張する時、真っ先に歴史上の誤謬を指摘し歴史的な贋作に踊らされ過ぎないよう、正気を保つよう諭すのはエーコだった。そのエーコが第二次大戦以降のイタリアを舞台に繰り広げられた陰謀劇を、1992年に遡りほとんど歴史的事実のみををコラージュして描く。その意図は何かを掴みあぐねる。
『そのうち、携帯など使うのは凡人、貧乏人の類だけだと気がつくでしょう。口座が赤字になっていると銀行から連絡がきたり、何してるのかと上司がチェックを入れてくる、そういう人種』―『四月二十四日 金曜日』
一つの鍵は「明日」という発行されない新聞。一過性の予測など全く当てにならない以上、そんな未来を記事にするという新聞など現実には存在しえず、準備号である『ヌメロ・ゼロ』で描かれるのは過去の出来事を尤もらしく脚色してあたかも未来を予想したかのように偽って記事にすること。その皮肉な過去の事実の扱い方こそエーコが批判して来たことではないか、と気付く。考えてみればエーコが『薔薇の名前』以降繰り返し用いて来た手法もまた同じように読者の世俗的な心理的欲求を満たして来たものではないか。虚構の中に反語的にメッセージを込める。それが急に現代に近い舞台に置き換えられたからといって混乱する必要はないのかも知れない。
いつもの、といえばこの本の体裁もいつも通り、過去に書かれたある手記を時代を経た視点が取り囲むような形の体裁を取っている。いつもと違うのはそれが他人の手記ではなく、本人のものであることと、最後に過去が現在に追いついてしまうということ。そして手記の作者が珍しく読者に向けたであろう言葉を残すこと。この混迷のイタリアから逃げるのではなくここで生き抜くのだ、と。エーコの晩年の健康状態が如何なるものであったかを知らないでいうのは、如何にもエーコに批判されそうなことではあるが、ここに著者のメッセージがあるのだと思う。そのメッセージは当然のことながら普遍的なメッセージだろう。
訳者があとがきの中で「記憶」にまつわるエーコの言葉を引いている。記憶は曖昧で時に嘘をつく。それでも記憶に残っていないことは存在しなかったことと同じで、記憶に残っていることが事実である、と。現在の和らぎや快楽の為に過去の記憶を手放してはならない、ということなのだなと理解する。見たくないものから目を逸らしがちな最近の自分自身の傾向を戒めつつ心に刻む。
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この主人公のようなうんと大人のインテリ男性にしか、このヒロインのような女性の面白さはわからないんだろうなあ。(´-`).。oO
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フーコーの振り子とプラハの墓地を合わせたような作品。残念ながら他の作品のように引き込まれるような感覚はなかった。テーマというか話の筋書きが使い回されている印象。
戦後イタリアというのが、かなり暴力的で不安定な状況だったと知るきっかけになったのは良かった。
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すごく読みやすかった。面白かった。イタリアの知の巨人はどんな手かせ足かせで私を苦しめるのか。。。とマゾ的に期待したが、さわやかにハイキングコースを歩いてきたような。いつもは「うざいうるさいめんどくさい」の注釈ですが、今回ばかりはもうちょっと注釈欲しかったです。いまいち地名なのか建物なのか場所なのか迷うカタカナがあり、そこは未消化。紅一点のマイアさんはアリアナグランデで再生。ん、でもやはり陰謀節を調べて殺されちゃうって話はなあ、特になあ。目新しく感じなかったなあ。
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ウンベルト・エーコ生誕90年のアニバーサリーということで、図書館に特設コーナーができてる。評論やエッセイではなく小説を読みたいと思ったので、これを借りてきた。
陰謀とデタラメと不誠実と根拠のない与太話とファシストつまりムッソリーニ礼賛に、権威主義の事なかれ主義と女性や性的マイノリティへの敵意と侮蔑に満ちた新設の新聞社が、本など読まない普通の人々(主に壮年以上の男性)を対象とした新聞を発行しようと準備している日々を描いた物語。
この物語の登場人物の中で唯一光る知性を感じさせる、ミソジニーへの抵抗感とセクシュアル・マイノリティへの差別は間違っていることだというまともな倫理観を持つ若い女性は、その発言のことごとくをムッソリーニを崇拝しているネオナチの陰謀論者にバカにされる。
まだ読んでいる途中だけれど、ほとんどのページが胸糞悪い。
ウンベルト・エーコは彼自身すら嫌っているはずのこんな狂った登場人物たちを、よくこんな事細かに描いたものだ。
この小説はどうやら、イタリアの戦後史を知っていることを前提に書かれているようだ。私はムッソリーニ崇拝者の言ってることを何一つ理解できなかったけど、それは彼が陰謀論者だからというだけでなく、私がイタリアの戦後史を何一つ知らないからでもあったのかもしれない。イタリアの戦後史を勉強してからこの小説を読み返してみてもおもしろそう。
メディアに対する健全な批判能力や、歴史を記憶し続ける大切さについての小説。エンタメ的な面白さは正直無いけど、また読みたいと思える作品だ。