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「戸籍は何のためにあるのか?」と問われ、即答できる人は恐らく少数派だろう。かつて戸籍制度が担っていた役割は住民基本台帳などの他の制度に取って代わられており、戸籍が単独で我々の日常生活に影響を及ぼす局面は限定的。にも関わらず、我々は漠然と戸籍が日本人としてのアイデンティティに不可欠なものであると認識している。これはなぜなのだろう?本書はこの戸籍の不思議さについて、その来歴と運用の実態を大量の文献に当たり詳らかにしながら、現代の戸籍制度が内包する共同幻想=「道徳律」をあぶり出した労作。
現行制度に先立つこと千年以上の昔から、戸籍は警察的な要請による身元調査のためのツールとして整備されてきた。これが明治維新を経て、富国強兵のための徴税・徴兵名簿としての機能を強めていく。著者は、明治政府が無籍者の自発的な就籍を促す過程で、家の規格化による国民統合、即ち天皇を頂点とする「家」制度への登録こそ道徳的美徳であるという意識が国民の間に植え付けられたとする。この家族国家思想としての「道徳律」こそ、戸籍制度が実体面での有効性を失いつつも今日まで命脈を保っていることの理由だというのだ。
そして戦後も、登録要件としてほぼ一貫して厳格な「血統主義」を要請することで日本国民の証明としての戸籍の「純度」が高められてきたが、「棄児」や「外国人」を扱うにあたり、その運用は必ずしも一貫性のあるものとは言い難く各種の矛盾を呈している。著者によれば、動態的な「ヒト」の移動を与件とする現代資本主義社会において、静態的な「イエ」をベースにする管理制度に最早実効性はない。今後の日本社会においては、「国民」としてより「住民」としての個人の権利がより重要性を持つのであって、そこでは「規定された家族」を前提とする「戸籍」は柔軟な運用が困難であろうというのが著者の主張。昨今の晩婚化・非婚化やLGBTの権利意識の高まりをみても首肯できるところが多いと感した。
文章が少々硬くて読みづらく、大量の文献に圧倒されたりもしたが、期待通りのスケール感で歯応え十分だった。
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戸籍制度の成り立ちから現在の戸籍制度の問題点について書かれている。戸籍は、国家が国民を管理する制度であることが良くわかる。戸籍には、日本人しか記載されない理由とその問題点を提起している。戸籍に記載されていようがいまいが、人間として人権が尊重される世の中であることが民主主義国家の基本であることを主張している。一般の日本人は、普段、戸籍を意識しないが、その意識をしないことで、何気なく差別していることを問題にしている。著者は、戸籍制度の矛盾を提起し、批判的な論調で書いている。専門的な知識がないと少し難しい内容だが、非常に有益な本である。
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現代においてもさまざまな理由で無戸籍者が発生している。そして、戸籍がないことの不利益は意外に少ない。
そもそもその存在目的が怪しげで、本籍地から転居してからは戸籍謄本の入手が面倒になったことまあって、ねてより廃止すべきと思っていた。居住地と全く関係なく登録可能な戸籍の必要性には疑問だらけである。
この本を読んで、ますますその思いを強くした。
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今の戸籍制度の成り立ちが詳しい。当初の便宜的な区分が結局は価値に転嫁するのは制度史あるあるだなあと思う。後半部分は新聞相談の解説で、少し冗長に感じました。
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戸籍のことなんて、考えたことはなかった。結婚したときと、パスポートとったときくらい。
「戸籍と無戸籍」を読んでみて(ちゃんと読みこなせている気はしないけど)、「イエ」のこととか、日本人ってなんだろう?とか、夫婦別姓についてとか、日本に住む外国籍の人たちのこととか、折に触れ、むむむ〜
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本書は戸籍制度を、その記載内容、行政による運用方法、利用者にとっての長所・短所、歴史的な変遷、さらには現代におけるその価値・役割など、多様な視点で解明し分析してみせたものである。理論的な解析だけではなく、無戸籍にまつわる事件や紛争といった現実的な側面も描いており、アカデミック・ジャーナリズム的な作品に仕上がっている。相当なボリュームがあり、戸籍に対する相応の関心がないと読み通すのはしんどいかも知れない。しかし本書を読み進めるうち、一見役立たたずに思えたこの制度が、実は執拗かつ邪悪な意図を隠し持っているのではないかと戦慄を覚える瞬間が訪れる。私がここでいう「邪悪な意図」なるものを、著者は明示的に語っていない。ただ現代の戸籍法には、戦前の「イエ制度」の残滓がべっとりとまとわりついていることを確認できるのみだ。この残滓を、日本社会の遺伝子として絶やしたくないという勢力が存在する。例えば、自民党の憲法改正案にはこのような条項がある。「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない。」尊重されるという価値づけ、相互扶助の義務化。しかしこの現代社会において、まずもって最大限に尊重されるべきは、「個人」ではなかったか。家族という抽象的な「集団の維持」が個人よりも優先される世界。過激にいうなら、家族の維持のためには、個人が犠牲にされることを厭わない社会。そのような奇怪な世の中を、改正憲法は容認しようとするのである。このような戦前の価値観は改正憲法によって復活を俟つだけではない。現行の民法親族編とその手続法である戸籍法のなかに、すでに温存されているのである。
著者は挑発する。「戸籍をもたないと、どのような不利益をこうむるのか?この疑問に正しく答えられるひとは、ほとんどいないといえよう」と。私が本書を手にした動機は、この裏命題にあたる「戸籍ってなんのメリットがあるんだっけ?」という思いであった。半世紀も生きてると、他者から戸籍謄本のコピーを要求されることが、なんどかある。たとえば親の死去に伴ってその相続人の確定のため、多数に散らばった戸籍謄本や除籍謄本のコピーをかき集めたがひどく骨が折れた。またパスポートの取得にも、それを要求されたが、その理由を詮索したわけではなかった。さらには、本籍地の役所が他県にあり、戸籍謄本のコピーの請求に郵便局で定額小為替なるものを買って取り寄せたりした。なんて面倒なんだ。住民票のように、コンビニでコピーがとれないのか。こんな面倒な仕組みが、なんのために存在しているのか。積もり積もった思いが炸裂し、このあたりでちゃんと調べてみるか、と本書の
ページを手繰ることになったのだ。
本書の構成は、序章と終章を除いて10章。著者は問題意識として、戸籍の必要性、無戸籍が生じる原因、無戸籍者であることの意味、国家の無戸籍者への対応、という4つを挙げる。ところで、そもそも「戸籍」とはなにか。現代の戸籍は、ある個人の生から死までに生じる民法上の身分(親、子、配偶者など)の変動を記録したものである。ただし個人がバラバラに登録されるのではない。これが重要で個人を単位として登録する制度も海外にはある。しかし日本の戸籍は、夫婦およびその未婚の子(→この集団が家族であり、戸である)が「同じ戸籍」に書き込まれる。さらに、「同じ戸籍」に記載される人間は、「同じ氏(ウジ)」を名乗らねばならない。このようなルールは実体法である民法で定められているが、戸籍法はそれを実現する手続法の位置を占める。その結果、戸籍に書き込まれた情報は、役所という公的機関が記録したものであるゆえ、その写しは、自分が何者(姓名と国籍)であるか、どんな家族関係を有するかを、他人に対し公的に証明する力をもつ。つまり公証力をもつことになる。
古代の「庚寅年籍」、江戸時代の「宗門改帳」、そして明治の「壬申戸籍」、さらにそれを部分的に継受した「戦後戸籍」。これら時代毎に作られた記録簿を一般概念として「戸籍」と呼ぶのは混乱を招く。共通する点は人民に関する何かしらの情報の記録簿である。それゆえ、私は「人民情報記録簿」という語でそれを呼ぶことにする。さて、そこにどんな情報を記すかは、その利用目的によって異なる。しかしここで誤解してはならない。活用されたといっても、誰が活用したのか。それはその時代の支配者・権力者・国家である。登録された側の人民は、その記録をもとに経済的・人的な資源を収奪(税、労役、徴兵など)されたり、特定の思想や生き方(仏教、神道、家への服従など)を強制されたのである。このような収奪や強制が限度を超えたものであると、そこから離脱しようとする人は、どの時代にも存在する。それが無戸籍者である。無戸籍者とは各時代の人民情報記録簿に登録されず、またはいったん登録されたが後に削除された者をいう。しかし支配者側は、無戸籍の状況を放置しない。様々な対策や手段を用いて、その綻びを繕おうとする。本書において、無戸籍者として都会に職をもとめて村を脱出した者、維新期の草莽の志士、サンカ、沖縄からブラジルに旅立った移民などが挙げられ、彼/彼女らが、その社会でどのような扱いを受け、国家がそれをいかにただそうとしてきたか、その多様な闘争が描かれる。闘争といっても、無戸籍者は、犯罪者でも、その予備軍でも、浮浪者でも、反逆者でもない。ただ身分を公証できないだけである。しかし、社会や国家は無戸籍者を先に挙げた者たちと同一視して、その排除に躍起になったときもある。著者が無戸籍者を肯定的に描くのは、収奪装置の一環を担う戸籍から自由になることに、ある種の解放を見てとるからかもしれない。すなわち、そもそも「人民情報記録簿」は、人民にとっては登録されることにデメリットしかなく、そこから逃れようとするのが本来の姿ではないか、その本能的な逃避を国家が敵対視し追いかけまわすことの方が異常なのだ。本書では、徴兵逃れのために人民があらゆる手練手管を使って、国家の網の目をかいくぐってきた様子が描かれるが、そこに人民の活力と頼もしさが見出されるし、場合によっては無意味な侵略戦争に反対する強固な意志さえ感じられる。
そして「戦後戸籍」である。その最大の難点は、制度の目的や効果が不分明な点にある。戸籍の利用方法といわれてパッと思いつく人口調査や、徴税、徴兵と労役(そもそも制度自体が今はないが)などには、全く活用されていないのだ。さすれば制度の存在理由として何が残るか。法的に好ましい家族のあり方を示すという道徳的な価値しかない。しかしその理想像はすでに腐臭を放っている。どういうことか。戦後の日本国家はイエ制度の解体を目指したはずなのに、家族法の改正にあたって、GHQの追及が弱かったばかりに、夫婦と子供で構成される「家族」、特定の「家族の名」である氏、届出をしなくては成立しない「婚姻」という制度が生き残ってしまったのだ。新憲法では、婚姻は両性の「合意のみ」に基づくと謳われているのに。したがって、厳密には憲法上の婚姻と民法上の婚姻は別物と考えざるを得ない。このように家族や婚姻や名前といった暮らしのなかで重要な位置を占める事象に関しは、個人主義は徹底されず、戦前の遺制が中途半端な形で生き残ったのである。
現代の日本社会は、今後、この遺制にどう始末を付けるのか。未来のひとよ、どのような社会を望むのかを自覚し、選択しなければならない。先にあげた自民党の憲法改正案とは正反対の世界を追い求めてほしい。共同生活をする事実上の家族は、その成員の自由な意思によって家族の範囲を柔軟に決め、非血縁者や外国籍の人を排除しない。婚姻は同性であっても可能で、事実婚と法律婚のメリット・デメリットがわかりやすく比較でき選択しうるようにあって、名乗る氏は夫婦もしくはパートナーの間で別にしても良いという、そんな社会の実現を。
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サントリー学芸賞受賞ということで手に取ったが期待していたものとは違っていた。戸籍に対しては否定的なスタンスで臨んでいて(その態度自体は分からなくもないが)、冷静な分析を妨げているように思えた。もっと現代における戸籍の位置付けや無戸籍者の抱える具体的な問題点を深掘りして欲しかった。そのスタンスから当然戸籍が不要ではないかと問題意識を最終章で投げかけているが、今あるものを積極的に廃止するだけの問題点を提示できていないようにも思えた。
一方で、本書は戸籍に纏わる数多くの知識が盛り込まれており、初めて知ることも多く勉強になった。南米に移住した日系人が戦災による戸籍の消失で知らずに無戸籍者になり一時帰国中に旅券の発行ができず立ち往生した問題、無戸籍者であっても婚姻は可能でむしろ戦前の方が日本人である証明も不要で容易だったこと(戦後日本人でなくなった朝鮮人等を排除するため幻覚化した)、などは興味深かった。