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内容的に私自身の考え方と非常に近しい内容だと思いました。
相模原の障がい者施設を襲って殺害を犯した事件をベースに
正義とは何かを論じていく内容となっています。
内容もいろいろ考えることがあると思いますが。相模原の
事件に関して、何も語られることがなくなっていることに
非常に違和感があります。史上最悪の部類の事件ではないか
と思うのですが。
そもそも正義って大声で振りかざすのは恥ずかしいことだと
いう感覚があると思うのですが、最近正義を大声でいう人が
多くなった気がします。
マスコミでもそうですが、会社や地域の中でも。そんな人
たちが胡散臭くて恥ずかしくなるような世界に
なるようになればいいのかなあと思います。
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自分よがりの「正義」が蔓延する中、どうやって生き抜けばよいのか。
きっと皆不安なのだろう。不満なのだろう。
逃げるのも、一つの手かもしれない。
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正義を伴う暴力について、精神医学の立場から見て書かれた一冊。
ここで書かれている正義を伴う暴力とは、動物的で正義といった価値判断を伴わない「暴力的」な暴力ではなく、感情を伴う(人間的な思考を伴った)暴力であり、またそれが蔓延しているように見えるという主張は、素朴でありながら否定しがたい事実におもえる。
一冊を通してアイロニカルな内容であり、例えば相模原の障害者施設における大量殺人の犯人のような「完全な悪」に対して「正義の側から語る」ように見える語り口には「うっかり」共感しかねないが、少なくとも読み手が「自分は正義の側にある」と「勘違い」する循環に陥るのは文字通り「怖い」と感じる。
こうした自分は正しい側にあると自分自身を捉えることこそが、ホロコースト的な思想の源であるのではないか、自己矛盾していないかと、いつもながら内容が「リベラル左翼受けする内容」でありつつも、完全にそっちに染まるにはあまりに賢すぎるように見える著者だけにいろいろ深読みもできておもしろかった。けっこう好き。
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2016年7月に神奈川県相模原市の障害者施設を襲って、戦後最悪の犠牲者を出した惨事を引き起こした植松聖。精神科医の著者が、植松が惨事に至る社会的、個人的な背景を解く。その背景は、我々が生きている現代の病巣でもあり、我々はその病巣の中に生きている。▼植松は自分を特別な存在と思いこむ「自己愛」の強い人物だ。それは現代社会で多く見られる。彼は自分を認めてくれない社会を恨み、ゆがんだ正義から復讐する。犠牲になったのが弱い障害者である。障害者に生きる価値を求めなかった植松の意識は、コスパ全能の現代社会の我々の持つ意識でもある。社会が、コスパであらゆる価値を判断されている。
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正義って、いつでも歪んでるんだと思うけど…
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自分が正義だと思ってとんでもないことをする人たちがいる。大量殺人だったり、詐欺まがいのことだったり、あるいはtwitterで他者を攻撃する政治家だったり。
なにゆえ正義と思うのか、そして正義というやっかいな柱が、どんな暴走を起こすのか。そういうメカニズムは、読むとそれなりにわかる。なるほどそうやってどこかで抜かないと、ダメになってしまうわけですか。
わかるのだけど、これを攻撃することもまた、何かの正義をもって他者を攻撃することになってしまわないのかな、と弱気になったりもする。誰かにとって赤信号は、誰かにとって青信号だったりするように、正義もそんなもんかと。
いや、でも多分、そこにある決定的な違いは、他者を思うということだろう。
所詮は他人、本当に他者の身になって、なんてことは出来るわけないのだけれど、少しは相手のことも考えてみること。僕はこれが、今のところは出来ていると思うので、この本で出て来る正義を歪めた連中の仲間入りは、今のところ出来ないかな、と胸をなでおろしている。
それにしても、政治というのは、自分を支持しなかった人も含めた有権者に対して何かをなすべきではなかろうか。大量殺人や生活保護受給を叩く人よりも、僕はやはり、そういう単眼的政治家たちを、本当に憂う。本当に正義が歪められている時代だ。
それがわかっても、せいぜい自分は違うと思い込むぐらい。気持ち良い本ではない。
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今後こういう人は増えるような気がする。
結局のところ事件を起こした理由は、ナルシシズムを膨らまして理想と現実のギャップに耐えられなくなっただけ。
そしてその耐えられなくなった自分自身を認めることができないので、正義の顔を被り自分をごまかしているに過ぎない。