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以下引用
イメージと記号の中間段階ーヴァールブルクにはごく自然なものに思われたーとして象形文字的イメージを構想する
→これは言い換えれば象形文字は、イメージでもあり、記号でもあるということ。具象(アナログ)でも抽象(デジタル)でもあるということ。
残存ーある図像表現が時間的・空間的隔たりを超えて生き残り、再来すること
若き日のヴァ―ルブルグは、記号としてのイメージをプリミティブな素描の基本的特徴としてみていた
プリミティブな人間の最初の反射が、媒体に形態を素描することではなく、むしろ環境のなかにある形態を認識するというもの
自然の中にある形態の単純な模倣という思想から、☑の能動的実践=「視覚的感情移入」
★★視覚と自然形態との対話の産物。物質的痕跡としてのイメージは、心の働き、イメージと結び付けられる一連の心的作用を浮上させる
イメージと言語の間に確立される関係
★★★記憶がイメージと言葉に同時に依拠している伝統領域においては、形はたとえ最も単純なものであっても、対象をその外観を模倣した典型的形態によって表現したものでは決してない
芸術はある存在を創造する手法であって、自立した実在性をそなえたある実体の模倣やイメージではない
図像と記憶の間にいかなる関係が構築されるのか
こども、プリミティブな民族、アルカイック期の素描すべてが類似しているのはなぜか。これらの像が現実を再現しようとしているのではなく、一連の内面的図像、特に記憶によって固定されたイメージを転記しているからだというもの。その素描は未発達なのではなく、記憶術的。
絵文字ーある言葉や観念を表現する図業的象徴や素描で。個別の音を表現するアルファベットに似た象徴とは対照的である
アメリカ先住民の絵文字は、アルファベットの未完成な先ぶれではない。入念に形成された記憶術なのだ
★★伝統的な図式では、素描は記号へ、そしてーひとつの言葉、ただひとつの言葉の表現の全領域を包含するー象徴へと進む。こうした視座においては、絵文字は音節文字であれ、アルファベットであれ、ある言語の音の完全な表象となる。だが、アメリカ先住民の絵文字は、まったく別の道をたどった。
→具体的、感情移入的であり続けたということかな
文字文化と口承文化を対比させる従来の図式を検証し直し、言葉だけではなく、身振りやイメージにも依拠するような中間段階を想定しようとする
★★★アメリカ先住民の絵文字やオセアニアのイメージを分析することで、この種の視覚的図像を、たんなる装飾としてでもなければ、文字に到達できなかった試み(最初の文字)としてでもなく、「記憶術」として理解する新たな資材を打ち出そうとする。
→
●つまり、それを線描すること自体が、個人の感得したイメージを社会的記憶として定着させる行為だったということかな。
●ここでのポイントは、記憶と言うのが「抽象」だけでも「具体」だけでも表現しきれないということだろうな。つまり、記号だけではだめだし、かといって対象の形態の模写でもだめ。その曖昧なものを表現し、保存する方法として、素描などがあった。
ここから考えていくと、書道っていうのも、文字を使ってはいるんだけれど、そこで表現しようとしているのはイメージだったんでないかと思う。
★★一見、図式化され簡略化されているように思える図像は、ある知識を伝達するために練り上げられたまぎれもない記憶術的イメージであった
→ここで伝えようとしているのは「生命」なのだと思う。「生命」のアーカイブとして、象形文字や素描が行われていた。
徹さんの話は単に、小児麻痺の子と彼との交わりに過ぎないわけだが、あそこで僕に伝わってきたのは、生命であり、非-知であったわけで。その意味では、確かに自分自身が、なにかとの交わりを「素描」し、その「記憶」を外在化できれば、それだけで、十分に「イメージ」を伝達するメディアとして機能するのかなということを思う。
ひとは、実在する都市や建築など各所に、記憶に訴える力あるイメージを息づかせることで記憶を活性化させてきた
口承と文字との排他的区別が、「イメージ」を除外してしまう
★あの徹さんの聞き書き中に自分が観たのは、小児麻痺の子と、徹さんの交わりの「イメージ=生命」だったんだと思う。あの場で使われていたのは、音であり、言葉であったわけだけれど、一記号にすぎないそれらによって自分に伝わってきたのは、その交わりのイメージであり、その間にある生命であったのではないかということを思う。そして、そのイメージは、自分自身の次なる「流れ」を、非ー知の形で伝播したのではないかとも思う。イメージとしての記憶には、おそらく生命が内在している。それに触れることで、人間は「非-知」としての「いまここ」にアクセスするのではないか。また、誰かや何かと真に交わったイメージとしての記憶には、必ず、自分自身がそこで書き換えられたり、流されたりしたような、非―知が含まれているのではないか。