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金融危機からはや10年。第Ⅰ部は金融業界の異常性をゼロベースで再検証する意義はあろうが散々使い古されたテーマだけに陳腐さは否めない(原著は2015年刊行)。こうした書籍のような自己反芻をしても、金融マンとその仲間たち(象牙の住人も含む)は再びバブルを引き起こし活況のなか世界経済を崩壊させる過ちを繰り返すのだろう。そうした観点で捉えると、本書は金融経済誌で幾つかA book of yearを獲得しているものの金融業界の免罪符的スタンスに思える。
第Ⅱ部・第Ⅲ部の金融の役割と提言は興味深い。結局は世界経済を崩壊の危機に追い込んだ投資銀行は、本質的な必要性はなく我々は決済機能のみ望んでいることを浮き彫りにしている。ジョン・ケイ氏の語るところを見るとトレーディング業務で自己肥大化していった金融機関はToo BigではなくToo Complexであることがよくわかる。
本書自体は金融危機を起こした金融の非常識や不毛な複雑性を真摯に解きほぐして分析している良著ながら、当方が平行して読んでいるタレブ氏の『反脆弱性』のほうが分析に切れ味があり面白い。(タレブ氏自身も本書を絶賛)
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原題は、『他人の金』w
金融機関が、今、なぜこうなっているのか?についての考察が書かれていたが、面白かったのは、冒頭にある「雄牛の寓話」。
雄牛の品評会の体重当てコンテストから、推計値平均が実際の体重に近い事を発見、後年、秤が壊れた主催者は、平均を答えにしようと考える、ズルがないようにプロセスが厳格化され、雄牛の生育についての情報公開、アナリストが出てきて、更に頭が切れる連中が、雄牛の状態を把握することには意味が無くてコンテスト参加者がどう推量するかを正確に見定める事だと言い、老農夫バフェットが不満をいうが、田舎もんと馬鹿にされる。バフェットの牛は丸々と肥えて良い牛なのに。 そして、雄牛の体重評価をめぐる規則を決めるための国際基準が作られ… 雄牛の体重を当てる人数がいなかったり少ないケースにもシカゴ大学の数学者たちが計算モデルを開発、他の推計値から計算が出来るようになり、畜産学についての知識は無用、強力なコンピュータさえあれば事足りる様に…
更に、体重当てのプロや推計の精度を上げられるようにアドバイスする顧問など一大産業が出来上がっていた。秤を直した方が安上がりなんて言える雰囲気はもう無く、これほど大勢の賢い人々の知恵を結集し恩恵にあずかれるのに?と。そして、雄牛は死んだ。誰もが餌やりのことをすっかり忘れてたから。
内容的には、金融の世界にいる人ならすっと入ってくる内容なのかもしれないが、門外漢からするとちと歯ごたえありだった。雄牛の寓話を詳細に追いかけて行く流れ。
そして、以下の一文。
「今日の預金、投資チャネルはどちらも、よほど腕に覚えがあって財布の紐の固い貯蓄者ではない限り、満足のいく実質リターンを得られない仕組みになっている。」
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「金融に未来はあるか」は実体経済に対して以上に発達しすぎ、投資銀行同士でお金を回すことで彼らが不当に利益を得ており、投資対象への目利きは劣化し、投資家や企業がないがしろであることを指摘する本です。
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投資銀行は、なんの富も生産していないということを、ずっと説明してくれるが、直観としてわかるが、具体的には、よくわからない。金融工学は用語からして、騙され感があって、ストンと来ない。長さのわりに、積み上がる理解ということがなかったのが残念です。
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金融業界に属する身としては耳が痛く、襟を正すべき本。金融に夢を抱く人は読まないほうが良いでしょう。著者の示す金融の未来像(ナローバンクと専門金融機関?)は、まさに日本の過去の姿であり、なんとも言えない気持ちになります。
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リーマンショックとそれを引き起こした金融業界の欺瞞、怠慢に対してスチュアードシップ(受託者責任)に基づいた機関投資家のあるべき姿を規定した一冊。著者自身も指摘している通り、若干「時計の針を戻す」あるいは「古き良き時代の金融を取り戻す」類の施策にも思えるが、現在の金融(特に米国金融)が少なからず異常な進化を遂げてしまったのも事実であり、破壊的な変革が必要な時期なのかもしれない。
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本来の銀行業務は3%程度にすぎない。
ケチャップ経済学=サマーズ=本体の価格を無視して投機ゲームをしている。
本来ゼロサムなはずなのに、将来の損失を先取りしている。「そのころには俺もおまえもいない」ことで現在の利益を享受している。
プレトンウッズはニューヨークからもワシントンからも遠いことから選ばれた。
利益は情報の非対称性によるもの、と説明されているが、単に賭けをしているだけ。
ブラックスワンによるリスクは何が問題なのかさえ分かっていないため、考慮されていない。
効率的市場仮説の上に見逃している収益機会を探している。しかしその過程ではフォードやディズニーは生まれない。
他人のお金でギャンブルをすることを禁止すること。
オルタナティブと、他の資産を切り刻んだ資産の区別がつかなくなってきた。
行く末に待つ命運からお金を前借したに過ぎない。そして返済日は気まぐれにやってくる。失われたのは他人の金。
ボンジスキーム=ねずみ講と同じ。デリバティブの高収益も同じ。
高いROEのためには、レパレッジを極度に高める必要がある。
取引に対するトービン税が必要。
預金取引をギャンブルから切り離す。
大きすぎてつぶせない、は正しくは複雑すぎてつぶせない、に等しい。
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Other People's Money
https://www.diamond.co.jp/book/9784478068403.html ,
https://diamond.jp/articles/-/132430
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LSE教授にしてガバナンス論の権威による、金融の本質を問う本。端的に言って激烈な批判本。
原題は”Other People‘s Money”、「他人のカネ」。これともうひとつの引用、「そのころには俺もお前もいない」、この二つで事実上本書は要約できてしまう。
昔はそれなりに企業の目利き、という地味な役割を果たしていた金融が、単なる内輪の賭博、つまり同業同士のトレーディングに化けたひとつのきっかけとして、売っている人間自身が中身を知らない商品、すなわち証券化を激しくやり玉に挙げている。もうひとつ、お金を動かすことに対して手数料が生じる、という設計が壮大なアクションバイアスを呼ぶことも。そしてそれでも儲かることのひとつの原因として、規制が「少なすぎる」のではなく、「多すぎるにもほどがある」(序文より)からだと整理する。
「Too big to failは要はToo complicated to failなだけで、しかもそれは仲間内のトレーディングが絡み合いすぎたからであって一般消費者には関係がない。金融機関を破綻させるな、という人は、その金融機関の提供するサービス(の質の高さ)を懐かしんでいるわけではなく、破綻の影響を残念に思っているだけである」。
著者は言う。「われわれは金融を必要としている」(P338)。
「業務範囲が絞られ」「建設的な目的を持ち」「それにふさわしいガバナンスを有し」「家計と企業に奉仕するための」機能(要は決済と資産の管理・・・)に、コーポレートガバナンスとスチュワードシップの設計で回帰することは可能だ、と。
・・・はい。
で、ガバナンスが担保され、かつ無用な規制を外したときに、「業務範囲を絞り」続けることは企業にとって可能なのか、それは正しいのか。そんなこともふと思うのであった。
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日本の金融行政にも影響を与えている英国人の教授によって書かれた本で、金融業界の問題点を鋭く指摘している。金融化が行き過ぎ、実体経済から離れて巨大化し複雑化したことを特に問題視している。それが非常に悪い形で示されたのが2008年の金融危機だが、「リーマンはシステム上で重要な金融機関であったかもしれないが、(経済的に)重要な企業ではなかった」と本質をうまく説明しているのには恐れ入る。また、「旅客機は乗客のコンセンサスに基づいて飛ぶわけではない」と表現し、金融主導の考え方がもたらす危険性を指摘している。そうした中で、「金融業界に横行する特権意識の強さ」や「金融業界に巨額の利益と報酬をもたらすからくり」に触れているが、「金融が存在するのは家計と企業に奉仕するためである」ことを忘れた金融業界へのいら立ちが読み取れる。オリジナルの題名は「Other People’s Money」。自分の懐が傷むことなく、他人の金を使って短期的に利益の最大化を目指す金融ビジネスへの警告であると言える。雄牛の寓話や牛乳屋で流動性の説明をしている箇所など、わかりやすい説明や洒落た比喩が随所にちりばめられており読み物としても面白い。
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・お金が「他人ごと」で「お客様ごと」ではない金融機関
・お客様に提案した金融機関の担当者が「その頃には俺もお前もいない」から成り立ち得る無責任や利益相反、顧客不本位
これらに対する批判本です。的を得ています。
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金融危機の総括本の決定版と言えるかもしれない。
英国の銀行が抱える資産はおよそ7兆ポンドで、国民の年収を合計した額の4倍に上る。銀行の負債もほぼ同額だ。英銀の資産は英国政府の負債の5倍に当たる。しかしこれら銀行の資産は、大半が他の銀行に対する債権で構成されており、負債は主に他の銀行に対する債務である。大半の人が思い描く銀行の基本業務といえば、ものづくりやサービス業に携わる企業や個人に対する貸し付けだろうが、これは総額の3%ほどに過ぎない。
今から1世紀前、ドイツの社会学者フェルディナンド・テンニエスとマックス・ウェーバーは、こうした変化を「ゲマインシャフト」と「ゲゼルシャフト」の違いを説明することによって的確に表現した。厳密な意味でこれらの単語に相当する英単語は見当たらないが、個人的かつ非公式なものと、公式かつ規制されたものとを大まかに区別する表現である。ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへの移行は、金融化の過程および、金融とリスク管理手法の地域ごとの差異を理解する土台となる。
1960年代のイングランド銀行は、シティの利益を守ることを自らの基本的機能の一つと見なし、ユーロドル市場の発展にハッパをかけた。金融システムの安全性向上を意図した規制は、レギュレーションQがそうであったように、意図したことと逆の効果をもたらすことがあった。レギュレーションQによって金融システムは複雑さを増し、取引は丸ごと規制の網をかいくぐった。規制について、こうした広い視野に立つ教訓に学べなければ、あるいは学ぼうとしなければ、それは深刻な結果を招き続けるだろう。
本書が描写するような金融システムの性質の変化が起こったのは、経済理論が原因でないし、経済学者に世界金融危機の責任があるわけでもない。しかし、そうした変化と危機に経済理論が及ぼした影響は、甚大かつ深遠だ。広い意味で言えば、トレーディング重視の金融業界の発展は、サッチャー、レーガン両氏の登場とともに、公共政策を席巻した自由市場主義と密接に関係している。
高い金を払えば、手術から生還できるとか、最も高く家を売れるとか、投獄を免れるとかいった保証はないが、その確率が高まるだろうとは思える。この種のサービスの多くについては、値切るのは見苦しいだけでなく、愚かなことだろう。最高の仕事をしてくれなくてもいいですよと、暗に告げているようなものだからだ。この種の活動においては、安さを強調する事業戦略はうまくいかない可能性が高い。したがって、なかには高い料金を支払うに値するスキルを備えた人々がいるが、それが誰なのかを見極めるのが難しいという場合には、全員が高い料金を課すことが可能になる。これこそが、金融業界に巨額の利益と報酬をもたらすからくりの一端である。
しかし、住宅ローン担保証券のトレーディングに携わる者の大半は、住宅価格は右肩上がりを続けるはずだと思っているだけで、それ以外は住宅についての知識も関心も一切ないのである。
改革の主柱となる原則は、次のようなものとすべきだ。
―仲介の鎖は���く、シンプルで直線的なものとする。…
―業務を特化した専門機関を復活させる。…
―他人を金を扱う、あるいは金の扱い方について彼らに助言する者は誰でも、顧客との取引における忠実・注意義務の基準を満たしていることを、行動をもって実証し、利益相反を避けなければならない。
―他人の金の管理に伴う高い行動規範に従う義務は、機関ではなく個人を一義的な対象とする、刑事・民事罰によって強制する。
―政府は金融サービスを、他のいかなる産業とも同列に扱う。…公的補助、政府保証その他、政府による支援メカニズムは、中央銀行による「最後の貸し手」機能も含め、廃止する。…
―金融業を経済政策の道具として利用すべきではない。金融業界の人々が出す経済政策への意見は、他の産業人が出す政策提言と同じ留意を払って取り扱うべきである。
銀行が本来果たすべき経済的役割は、預金チャネルを動かすことだ。それを通じて短期の残高を借り手、つまり主に住宅購入者に回すこと。また、預金の安全性を守りながら、資本を使う側の長期的ニーズも満たせるよう、流動性を調整することだ。