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舞をはじめた自分にとって家元のいうことの一つひとつをもう一度思い出すような一冊でした。日本人として舞うとは。
「幕が降りて初めて一斉に拍手が起こるような躍りを踊りたい」
「能自体は本来神仏に捧げるもの。『影向の松』という、神仏が降りてくる松の前で謡い舞う。これが能の原点です。もともと僧侶が舞を舞っていたのが次第に洗練され、観阿弥・世阿弥か現れるわけです」
「窃盗はいけないけど、芸は大いに盗め目の前で師匠が一回舞ったら、すぐにできなくてはだめ」
「能は芸道ですが、根底には『鎮魂』があります」「すべてがわかってはつまらない。能は『秘すれば花』です」
「同じ動きを何十回何百回と繰り返して、形を心身に叩き込んで、鏡がなくても身体の中の眼で自分の舞姿を把握できる状態にします」
「間や豊かな感情表現は、どのように身体を使うかにかかっています。中でも地球の中心から身体をまっすぐ貫く重力を感じて、骨で立つ感覚が大事です。それも二本ある脛の骨のうち、太い方の剄骨でたたないと、身体の軸はできてきません。もっといえば、お尻の仙骨から、腰椎、脊椎、首の骨、と全部の骨のすき間を空けて、骨一本一本を感じて舞うことが「間」につながる。身体感覚を研ぎ澄ませて、筋肉よりも骨格の動きを意識しないと豊かな表現にならないと常々思っています」
(大切にしているのは)「『伝承』と『伝統』ですね。『伝承とは、先代から教わったものをそのまま演じることともいえますが、そうすると縮小コピーになってしまう。もちろん演じる上で必要なことですが、同時に江戸期から続いてきた大もと『伝統』を知らないと自分の殻を破れません。、ある役を演じるとき、まずは直近でその役を経験した先輩に教えていただいて、その通りに演じ、それからその前の方、その前、と遡ることでいろいろな発見がありますし、役が深まっていきます。」
「よく、揚幕は母の胎内だというんですね。舞台に出ることは生まれるということ。そこから出ていくことは、死を表しているのかもしれません」
「露骨は卑し」
「おいどを下ろす」「四十・五十はハナタレ小僧、六十過ぎて芸の花が咲く」
「役者の躍りを踊れ。君たち舞踊家じゃないんだから・・・役者の場合は癖があっても、観客を惹き付ける個性にできる」
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月刊『なごみ』連載2016.1-12、日本舞踊・能楽・歌舞伎・文楽・能楽などのトップとの対談集。もう踊っていない私、存分に踊りの話をして、踊っていたときのような活力を得た気がする。
何代目とか何世とか続いているし、そしてトップゆえかシニアが多いように感じました。普段なじみがなくて、踊りがイメージできないのが残念です。
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とても面白かった。身体(姿勢、使い方、筋肉の使い方)と踊りの関係、声の出方まで、姿勢に左右されるというのは読んでいて面白かった。
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舞は元々神に捧げるものであるから、全ての意味は知らなくていいんだと言う人と、心を知るべきだという人がいて、ジャンルや個人によってだろうか、考え方が異なるところもあって興味深かった。
身体の使い方についても深く考えておられる。心技一体とはこういうことをいうのだろうか?
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日本舞踊、歌舞伎、能楽、狂言、雅楽、文楽などを古典芸能というんですね。私には殆ど縁がなかった世界です。この本は草刈民代さんが古典芸能の方々と対談し、浅井佳代子さんの写真を添えてまとめた作品です。「舞うひと」、2017.9発行。
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身体を目一杯使っての表現としての「舞い」
それを生業として
それを受け継ぐものとした
そんな人たちとの
バレエダンサーの草刈民代さんとの
対談集
それぞれの「舞うひと」たちの
現在はむろんのこと
その「舞うひと」たちが
受け継いでこられた
これまでの「舞うひと」たちの
ことまでが浮かび上がってくる
とても
刺激的で、興味深い
対談集でした
すてきな「企画」の妙味ですね
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草刈民代さんと古典芸能の人達との対談集。
ジャンルは違えども身体と真剣に向き合い続けている人達の言葉は共通する部分もあり独自の考え方もありとても学びになります。
麿 赤兒さんの「足が痛いなら足をひきずって歩け」「立てないなら這え」という言葉にはハッとさせられました。
とても面白かったです。