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過去に2回失踪した者として興味深く読みました.
最近思う暴力の抑止と同じく失踪ってのも他者の先回りにより回避できんだろうなぁ.
そして「親密な関係」からの離脱をしない人達ってな,ただ単に寂しくなるからじゃないのかね.
ああ,でもお金の問題もあるのかな.
注釈をちゃんと読んでないのでいつか再読する~
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気になった部分だけ読んだ。
無理のない考察がされていると思った。
特に、失踪をした人の「勇気がない部分と、とても勇気がある部分があるのはなぜか」
という点についての考察がすごく納得できた。
論文として完成度が高いと思った。
なんとなく、"失踪"はある種の宗教的な行為なのかもしれないと感じた。
また、私は「死にたいと思うくらいしんどい思いをしている人を引き留める理由には何があるのか?」と思っていて、
"失踪"がそれについてのヒントを示しているような感じがした。
(社会の中で生きるとはどういうことなのかについてのヒント?)
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とても論理の組み立て方、議論の進め方が勉強になった。
まずは言葉の定義を組み立て、多元的なアプローチで分析し、結果を示す。
以下面白かった一文
ギテンズによると、純粋な関係性は外的な基準を介さないもの。コミットメント、つまり自発的な関わりが大切。
自分にとっての純粋な関係
→自分が何をしても良いと思えながら、相手のことを思いやれる感覚を持てる関係。
今の関係は何に基づいているのか?
責任の倫理
責任を持つことこそが道徳の基礎である。
→個人主義になることで、この意識が強まりすぎている?
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中森弘樹著『失踪の社会学:親密性と責任をめぐる試論』(慶應義塾大学出版会)
2017.10発行
2018.4.9読了
なぜ人は失踪するのか。私自身、あらゆる柵から逃れて、無名で匿名な存在に戻りたいと強く思ったことがあったので、書評を見て読んでみようと思った。社会学は、結論自体は単純なことが多く、そこに至る論理が醍醐味なのだが、文章が演繹的なので原理原則が頭に入っていないと、かなり難解な学問でもある。私の頭では半分も理解できなかったが、まとめると次のようになる。
普遍的な価値規範が失われ、価値観が多様化し、人間関係が選択的なものとなった現代は、他者からの評価が重要性を増している。そうした中で、親密な他者に対して自身の責任を果たさなければならないという倫理が強まり、責任と論理の狭間で行き詰まった人々が失踪するようになった。失踪は責任からの解放という意味では自殺に劣るし、必ずしも根本的な解決には繋がらないこともあり、自殺に代わるものとしてお薦めはできない。大切なのは、失踪するかどうかではなく、責任を解放してくれる場所―あなたは赦されているという他者の承認―が苦難に押し潰された人を救うのではないか。
小中学生の4割がSNSの裏アカウントを持っている時代である。匿名で無名な存在になりたいという人は私だけではあるまい。SNSで泊まるところを募って、家出を繰り返す少女もいるという。居場所がなくてネット上を漂流するとは本当に切ない話だ。そうした少女を狩る存在が座間事件を生み出したのだろう。
URL:https://id.ndl.go.jp/bib/028542522
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とても素晴らしい内容と感じました。
2作目を最初に読んだのですが、1作目も捨てるところのない本であると考えます。
結論よりも追い求めていく過程をだれでも終えるように開示してくださっているので、得るものがとても大きいです。論文を多少なり読む仕事をしているので、パラフレーズや問い・研究方法の設定方法なども含め夢中で読んでしまいました。突っ込みどころを探してしまうのですが、僕の思いつくようなものはすべてご自身で回収されており、率直に畏敬を感じました。
本棚に保存して読み返そうと思います。
以下メモ書きを元に書くのですが、
筆者の言葉と自分の感想が入り混じってしまっており、また見直さなければならない気がしています。
結婚するのが当たり前だという意見は減少する一方で、結婚しても相手に満足できない時には離婚すればいいという意見は2002年以降伸び悩んでいる。離婚は「失敗」と結びつけられており、それを恐れる表れなのではとも感じました。
離婚件数も2002年をピークに減少しており、「大事なもの」を家族とする回答も多い。一方で理想とする関係を自分で作り上げるという意識の希薄さないし自信のなさがあるのではないかと感じました。特定の人との永続的な関係を願うのではなく、特別な関係を重要視して相手を都度探すコンブルエントラブ足りえるだけの精神的強さを持てる存在足り得ない人が多いのではないかと。
これは婚活で疲れ果てたときの体験を自身としてはおもいだすものですが、経験はないのですが就活の都度受ける傷もそれに近いものがあるのではないかと想像しました。関係性の中で傷つかない方法はないと感じる自分もいて、コンフルエントラブを達成できるに足る精神力をまとう姿を自身では想像できないわけです。なんとなく組織の中で自分を組織をまとってしまっていたり、属する集団に自己を同一化してしまうのも原因なのかもしれないと想像しますが。
いつ解消されるかわからない選択的な関係よりも、すでに成立している既存の関係が重要視される傾向があるという指摘は激しく賛同しました。別の本ですが、「私の体はままならない」という本の中で、特別な関係性を持たないことに慣れていた人が、いざ特別な関係性を特定の人と持つとなったときに恐怖を覚えたというエピソードを思い出しました。
思うに、選びうる関係は裏返すと、選ばれない(そしてそれに傷つく)ことが当然起こりうるわけで、かつ関係を越えるたびに傷は残るという側面もあるのだと思います。それでも誰でも選びうるという前提に乗っていこうとすれば、傷が残るたびにそれを無視するためその個人への特別性を失わせる方に認知を調整するようにも思うわけです。別れても親密な仲が成立する、というのが理想なのだと思うのですが。そんなにうまくいっている人たちをあまり見たことないので何とも。
親密圏の変容は、関係を解消されるかもしれない、もしくは、関係を構築できないかもしれない不安の対象に変化してきた、という指摘はとても重要なものと感じました。
失踪のとらえ方として、解放と剝奪という目線はとても興味をもちました。並���られるととても面白い。失踪を問題視する視点として、失踪者本人のリスク・逸脱行為の温床・家族を見捨てることへの批判→親密なる者への責任。
次の本でも思ったのですが、インタビューを加工した後ではなく載せてくださるのはとてもありがたい。
自殺と失踪を天秤にかける質問をされたとき、自殺する勇気はないという返答がとても印象に残っています。
中でもMさんの語りがとても興味深かったですし、この本の中でとても重要な位置を占めているように思いました。次作の「死にたいとつぶやく」の内容に繋がるエピソードであるように思えましたし、本人が天啓を感じているように見える部分も興味深いです。当然この語りを高いレベルにまとめられる筆者に感銘を受けました。
責任論についてはとても思うところがありましたがとんでもないボリュームになりそうだったので省略。個人的に責任論には異論が少しありますが、筆者のおっしゃることも十分に理解できました。当方にとっては結果責任と当然そうあるべき状況でそうあるべきである行動を引き受けることという意味の責任が重要に思っています。
レヴィナスの無限責任の考え、瀧川の根源的責任、グディンの義務と責任の違いなどの考えはとても興味深かったです。
傷つきやすさを避けるモデル、という考えはとても興味深かったです。守られるべき立場を想定し、それを守ることを守られるべき立場にいる人たち以外の人達の責任として想定していると思うのですが、近年はそれがとても攻撃的な手法を取られることも目にするように思います。それぞれの苦しみを理解してもらえないという感覚は、こういった常に責任を突きつけられている中にもあると思うのですが、難しいですね。
こういった責任論の行き詰まりとしては、破った人には何ら実質的にはさばかれるものはない状況へのフラストレーションもあると思うのです。
それは法整備や社会的制裁を求める動きなどに繋がるのだと思うが、一部の行きすぎた正義論の背景には責任と考えるこういった行動を破った時の何も起きなさなさがあると思うわけです。
私たちは、責任の倫理の要請から、配慮と応答をし合うことで親密な関係を維持するのであるが、親密な関係を維持することは責任の実践のための条件でもあるのだ。という筆者の言葉はとても重い気付きを与えていただきました。
社会の再帰性の高まり、あるいは個人化の進展
→個別具体的な他者からの評価を必要とする
自分が見られているかもしれない不安から見られていないかもしれない不安という現代の不安の変化
リスク論
親愛なるものへの責任
個人化
→普遍的な価値規範が失われる
→一般的他者の視点が失効している状況下においては、代わりに具体的な他者からの承認が必要になる
友人、恋人、家族などは実際に承認を与えることができる具体的な他者
→見られているかもしれない不安から、見られていないかもしれない不安へ
身近な他者からの承認を得るためには、身近な他者たちからの要求に応答しなければならない。親愛なるものへの責任を果たそうとしている。
親密なるものへの責任は、私たちにとっての親���な他者の重要性が増すのと同時に、普遍的な価値規範に代わって、親密な他者が私たちの選択の前提条件としても機能し始めることによって強固になる。
親密なるものへの責任の前提として傷つきやすさを避ける責任がある。
隠し神が誰に応答してたのか、という話はとても興味深かった。
傷つきやすさを避けるモデルが結局は責任が易きに流れるだけになる可能性があり、ヤングケアラーのように、しょうがないじゃないですますような他社が責任者にとって人質となってしまうような状況が生まれるのではないか。
→介護問題に持っていくのはとても美しい流れだと思う。責任論は責任の発生に関わる論と、帰属に関する論があると思う。
けど、痛み分けの理論のはずでも、現実の感情は痛み分けを許さないのではないか?
傷つきやすさを避けるモデルにおける責任の帰責ゲームは、しょうがないでしょうで人の選択肢を奪うようないやらしさがある。
一方に、外部の超越的な実体に帰せられる「呼びかけ」がある。他方に行動する自身の外部に根拠を持たない〈呼びかけ〉がある。自らの内なる〈呼びかけ〉に応じるためには、他者からの「呼びかけ」に応えない必要がある。原則として、死が明示されていない者には常に責任が存在し続ける
親密な関係からの離脱が、当該関係を修復する可能性
1 親密な他者と距離を置くことによるコミュニケーションの円滑化
2 失踪の長期化によって生じる残されたものからの赦し
3 失踪者が逆に応答されるべき傷つきやすい立場になることで生じる残されたものからの赦し