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巷に溢れる中国論は、ステレオタイプのものばかり。
強面の反中国論にはじまり、嫌中、爆買い、非常識。
おかげで、日本人の中国に対する好感度は「悪い」が9割とか。
かく言う私も、中国を好きか嫌いかと訊かれれば……その先は、言わぬが花でしょう。
だが、確実なことは、好むと好まざるとに関わらず、この先も中国とは付き合わざるを得ないということ。
それなら出来る限り、その実像を把握しておきたい。
そう思っていました。
そんな折、あるコラムで紹介されていたのが本書。
普段は辛口のコラム氏が絶賛しているとあっては、読まないわけにはいきません。
早速、買って読みました。
いや、実に面白かった。
中国人とは、そのような思考パターンを持つ人たちなのか、と目から鱗でした。
書名にもなっている通り、日本人は「スジ」、中国人は「量」に価値を置いて物事を判断するんだそう。
本書では、いくつも例を挙げていますが、「犯罪」が一番分かりやすいと思います。
日本の刑法は犯罪を「質」の面から捉えています。
どんな小さなことでも、違法な行為をすれば犯罪です。
しかし、中国は「質」と「量」の2つの側面で犯罪を捉えます。
たとえば、窃盗罪は「金額の比較的大きいもの」以上のことを指すのであって、「金額が比較的大きくない」ものは窃盗罪とはみなされません。
具体的には500元未満は、ほとんど法に問われないそうです。
日本人の感覚では全く理解できないことです。
だから、民衆レベルでは、こんなことが起きます。
日本人はジュース代130円を借りたら、後で必ず返します。
ところが、中国人はほとんど返しません。
それはケチだからでも非常識だからでもありません。
中国人は「量」で発想するため、130円を「わざわざ返さなければいけないほどのお金」とは捉えないのです。
どうでしょう。
スッキリしましたか?
日本企業が中国でなかなか成功できない理由も、本書を読めばたちどころに分かるでしょう。
日本の「スジ」を中国人が理解し始めていること、「量」で考える中国とIT社会の親和性が高いことなど、未来を考えるうえでも有用です。
反中の人は「中国なんて理解する必要ない!」と怒り出すかもしれませんが、非常に公平な内容なのでご安心ください(公平なのが許せないかもしれませんが…)。
ステレオタイプの陥穽に嵌まり込まず、まずは相手を理解しましょうよ。
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「反応快」 反応が速い。
厳密さや正確性より、気の利いた反応。
「スジ」の日本
貧富の差を意識しないで済む。
お金をどう使うかの金銭感覚が社会の側に。
個性と価値観で消費する。
統治者の責任
モンスター国民を法を使って統治する。
儒教
仕組みによってでなく、自らを律すること。
自己評価。普遍的体系に欠ける。
うまみ
人を引き寄せる仕組み。
仕事より投資で儲ける。
先払い
自尊心を満たす
一点集中を避ける
状況は流動的を前提とした判断基準
面子
「文」=ホワイトカラー
実務や技能は尊重されない。
個の存在より同調性。大国化での問題に。
小農意識
視野が狭く身勝手で身内しか信用しない。
スマホ
臨機応変な「量」社会と相性がいい。
ブランド化には「スジ」が必要。
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シナってこんな国、っていうのは判る気がする。それを量という言葉でまとめていいのかどうか、最後までわからなかった。
なぜ、量になったのかってのも。
要は、政治と庶民、詰まる所統治と生活が全く乖離していて、みんな気持ちが荒んでて、儒教的なタテマエがずっとあったからってところなのかな。
スジも量も、両方ともこんないいところがあってここはおかしいってのはわかりやすかった。
しかし、お隣にももっと、はず、とか、べき、とかいう国があって全然違うなあ、と思って読んでたんだが、スジの国と量の国の悪いところを集めた感じなのかなと思うところもあり。
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日中の違いをスジと量で解説する。
なかなか新鮮な視点で日中の考え方の違いをえぐり出す。
インダストリーとトレーディングとか、安定に関する考え方や面子の意味とか、分かりやすくて納得出来た。
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<目次>
はじめに
第1章スジに沿う日本、量で考える中国
第2章スジと量の特性はこう表れる
第3章量の中国人が会社で考えていること
第4章量の世界は毎日が闘い
第5章スジの民、日本人の生きる道
第6章量の社会にスマホがもたらした革命
おわりに
2018/10/22初版
著者は1983早稲田卒、中国にかかわり、現在コンサル。
スジと量という論点で一貫しており、きわめて分かりやすい。
中国にどっぷりの経験でないと実感できない視点。
自分も中国から仕入れをしているのは、1980年代後半からなので、ほぼ同世代であろう。
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2019年9月14日読了。中国人の妻を持ち長年コンサルを務める著者が、「スジの日本・量の中国」という観点で両者の思考OSの違い、付き合い方のコツを解説する本。「現実的」「個人主義」「面子」など中国人の行動様式を歴史観点あるいは接触した実感から解説する本は多いが、「量」という観点でこれほど「スッキリ」腹落ちのある説明ができるとは驚き!現実への影響を踏まえて常に事象を判断しようとする中国人の思考の一端に触れられた気がするが、同時に「どこまでも自分は悲しいくらい日本人なんだなー」という気持ちも芽生える、自分は中国で生きることはできないな…。気になるのは、恋愛や結婚においても中国流の投機的思考・リスクヘッジは働くのか、ということ。結婚なんて「他の選択肢を捨ててあなたにスジを立てる」最たるものなんじゃないのかな?ここは中国人の「血縁主義・家族重視」の思考で説明できる部分なんだろうか?
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どちらが優れているかではなく、違いがあって面白いという内容。中国の悪口を期待して読む人には物足りないだろう。
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日本と中国の比較論。中華思想とそれが根底にある共産党政治が骨に沁み込んでいる印象。しかし情報のインプット・アウトプットが誰でもすぐに出来る世の中が浸透しつつあり、この底流は既に変わってきてるかな。
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「スジ」の日本、「量」の中国。
どちらが良いとか悪いとかではなく、各国民の言動や思考には「クセ」「相場」がある。
これを理解していないと相互理解やビジネス展開の妨げになる。
実質的な利害よりも筋を通すことに固執して勝手にイライラしてしまうことは身に覚えがあり、中国的な「量」の考え方を見習うことで生きやすくなるだろう。
ところで、本書は「ロジカルにスッキリわかる」とうたっている割にロジカルさは感じられなかった。(私は本書に関してはロジカルさを期待していないので問題ないが。)
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表題の通り、「スジ」「量」という観点で日中両国の違いが説明される。
そして全編に渡り、繰り返し強調されるのが、
①「スジ」「量」に優劣はなく、ただ違いがあるということ(この違いがなぜ生まれたかについても、歴史を遡って説明される)
②お互いに良好な関係を築くためには、「スジ」「量」の違いを踏まえる必要があること
の2点である。
果たして、この「スジ」「量」という見方での整理が学術的に正しいかはわからない。
しかし、それは決して大きな問題なく、自らの実体験を通した考察をわかりやすく書けること(少なくとも私にとっては腑に落ちた)はとても素晴らしいと憧れを抱いた。
異文化の世界に触れ、そこでの体験から文化を考察し、それを書いてみたいと思わせてくれる良書だった。
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著者のコラムをオンラインで拝見したことがあり、そのコラムの総まとめ版の同書を手にとった。面白いことに先に読んだ中国の不思議な資本主義の中で、発売前にこちらの著者に中を見てもらったというような表記があったこと。顔が広い方なんだろうなぁ。内容としても表現の仕方は違うが、多少かぶるところがある。
自分自身の中国人との交流経験と重なる部分、なるほどと思う部分、そうなのだろうか?と思う部分とあるが、興味深い。
スジ(あるべき姿)を重視する日本人と量を重視する中国人の考え方の違い、その結果としてどのような衝突・摩擦・食い違いが発生するかという事について書かれている。著者が繰り返しているのは、良し悪しではなく、ただ基本的な考え方がこれだけ違うという事、その上でどうすべきか考えるかということだと思われる。
しかし飛行場で飛行機遅延に対して国家を歌うことが、自分たちの政府にどうにかしてくれという意味とか飛躍しすぎてちょっと普通の感覚ではよくわからない。。が、それが中国的な”法治;自分たちが思う社会的正義”を実現するための懇願という考え方なのか・・・・。確かに法の前の平等性とか、感覚的に中国の人たちとは共有していないなと感じていたが・・。彼らの法治ってそういう意味だったのか。
P.15(判断基準が揃う日本、バラバラの中国)
日本社会では、ある事象を前にした時、誰が判断しても結論は同じになる。(中略)しかし、中国の社会では「量」を判断する思考だから、(中略)各人の判断にはバラつきがでる。(中略)だから中国人は人によって判断が不揃いで、みんな言うことが違う。ここに日本人は戸惑う。「規範というものがないのかこの国は?」である。
P.20
日本社会の抗議行動は「カネが欲しいんじゃない。スジを通せ」という主張になりやすい。(中略)一方、中国の人々は多くの場合「自分が受けた損害」に対して憤る。例えば、近くの工場が汚水を不法に垂れ流した。その時に「社会的責任がある企業がそのような行いをするのはけしからん」というよりは、「環境汚染でマンションの価値が下がった損害をどうしてくれる」と憤る。つまり「スジ」ではなく、金銭的損害という「量」で憤るのである。(中略)「問題はカネじゃない。道理が通るまで30年でも50年でも頑張る」という「日本的抗議」をする人は、いないわけではないが、中国社会では「変わった人」に属する。必ずしも社会の共感を得られるとは限らない。「そんなことにこだわって、人生浪費してどうするのよ。適当な補償金をもらって楽しく暮らしたほうが頭いいでしょ」ということだ。
P.58(一橋大学 王雲海教授:日本の刑罰は軽いか思いかより)
中国の警報は犯罪行為を「質」と「量」の2つの側面からとらえている。「質」とはいわば「何を犯罪とするか」という要件のようなもので、(中略)犯罪の「量」とは(中略)その犯罪の社会に与えた現実的影響、例えば盗んだお金の額や行為の悪質さといったようなものである。この「質」と「量」の両者が揃って、中国では初めて「犯罪」となる。「法律に違反した」だけでは「犯罪」ではない。(中略)そうだ��すれば王教授が指摘するように、「質的」には法律違反であるが、「量的」には犯罪ではないーという行為が出てくることになる。例えば中国の刑法では、第二六十四条{窃盗罪}の条文で「窃盗とは公私の財物を盗むこと」としたうえで以下のように規定している。
・金額の比較的大きな物、あるいは複数回の窃盗、侵入盗、凶器を携帯した窃盗、スリなどは3年以下の懲役、罰金などに処す
・金額の巨額なもの、あるいは情状の重いものは3年以上10年以下の懲役および罰金
・金額の特に巨額なもの、あるいは特に情状の重いものは10年以上の懲役もしくは無期懲役および罰金あるいは財産没収
(中略)窃盗罪とは「金額の比較的大きいもの」以上のことを指すのであって、「金額は比較的大きくない」ものは窃盗罪にふk目ていないことである。では、その「金額」はどのように決まるのか。そこには最高人民法院の解釈によるガイドラインがあって、それはおおむね次のようになっている。
一、”金額が比較的大きい” 500〜2000元
二、”金額が巨額” 5000元〜2万元
三、”金額が特別に巨額” 3万〜10万元
P.83(気前がいい会社で働きたい!)
ある人がその会社に入社を決めた理由を聞いていると、大きな企業であればあるほど、会社もしくは経営者個人が「ケチではないから」「お金を大胆に使う太っ腹(中国語で言う”大方”)な会社だから」といった回答が少なからず出てきた。
P.96
私たちが日常的になじんでいる「法治」は「法律という一つの体系の下、社会的地位や属性などに関係なく、すべての参加者が同じルールでプレーすること」という考え方である。一方、中国社会の「法治」は「法律という道具を社会の管理者(権力者、政府)がしっかりと運用し、社会正義を実現すること」という意味合いが強い。
こうした中国社会の「法治観」には一つの前提がある。それは「社会に必ず国民の上に立つ統治者(権力者、政府)が存在している」ということである。(中略)中国社会で暮らす人々にとって統治者の存在は水や空気のように当たり前であり、「自分たちで社会を管理する」という発送はほぼ、ない。社会を統制し、「よい」世の中にするのは天から降ってきた「偉い人」のしごとであり、統治者がその仕事をうまくできなければ不満を言う。(中略)「社会をよくする」「社会正義を実現する」のは、民草の責任ではなく、統治者の義務であるというところがポイントである。(中略)統治者が仕事の遂行のためにつくる道具が「法」であり、そのれを使って世の中の秩序を維持するこが「法治」である。
P.107
中国の人々は、世の中や会社の規範よりも、目の前の出来事が「自分にとってどのようなメリットがあるか」を重視する。言い換えると「自分の力が認められること」に異様なまでの強い執着を持つ。「自分に力があること」が明らかになる仕組みであればパワーが出るが、そうでないと途端にやる気がなくなる。好結果はあくまで自分のちからでもたらされたのでなければならない。(中略)「仕組み」のおかげで仕事がうまくいったのではダメなのだ。
P.110
儒教とは、ざっくばらんに言ってしまえば「自己修養の教え」である。つまり人は自ら厳格に律して、深��修養し、「立派な人」にならなければならない。極端に言えば、すべての人が「立派な人」になれば、世の中は丸く収まる。そういう社会を目指すべきだーというのが儒教の基本的な考え方である。(中略)つまり伝統的な中国社会の観念では、人は自らの力によって、自ら立派な人になるべきであって、それができる人こそが立派な人である。第三者の力や「仕組み(神や仏も含む)」に依存することで自らを律しなければならないようであれば、それは本当の立派な人ではないーということになる。(中略)儒教的な考え方を背景にした「すべての人が立派な人になれば、よき社会が実現する」という発送の致命的な弱点は、この「立派さ」を評価するのも自分自身だというところにある。「中国的自己修養」の考え方によれば、「自分の律する」ことに自己評価も含まれる。常に自分の身を謙虚に振り返って、足らざるところを反省し、さらに精進する。このサイクルを自己完結で行うことができる人が、立派な人なのである。
P.138
中国の経営者は自社の価値を上げるためなら何でもありの総合的な商売をしてくる。一方、日本の経営者は自分のか行、自分の強みとする「仕事」に徹して、「この道一筋」で商売に切れ味を出そうとする傾向が強い。(中略)考えてみれば、中国という国そのものが「投資」で成り立っているようなものである。(中略)中国政府が高速鉄道や高速道路をここまで急いで全国に造るのは、やや意地悪く言えば、人民の生活が便利になるからというよりは、インフラの整備によって周辺の地価が上がるからである。中国政府は中国全土の土地のオーナーなのだから、国土の価値があがれば、まさに天文学的な額の利益が生まれる。せっせと学校をつくって人を育て、産業を興して社会を豊かにし、税金を払ってもらうという「仕事」をするより、インフラに投資して地価を上げ、そのリターンを得る方が何倍も何十倍も手っとり早く、利益が大きい。権力者はそのことをよく知って入生。そして現実は、まさしくそうなっている。
P.197
日本の経営者やマネージャーは社員や部下に「仕事」を配分しているのに対し、中国の経営者やマネジャーは同じく社員や部下に「利権」を配分しているということである。(中略)「利権」とは、その商売をすることによって得られると想定されているメリット全体を指す。そこには金銭的なもの、約得、名誉などすべてが含まれる。
P.204
中国語でよく使われる言い回しに「面子が大きい」という言い方がある。(中略)要するにこれはその人の「問題解決能力が高い」ことを意味する。つまり「他人にはできないことが、その人にはできる」ことである。(中略)普通の人々に広く適用されているルールや常識的な相場観のようなものが存在するにもかかわらず、その人物が出てくると、その枠を飛び越えて、異例な取り計らいが実現してしまうような人が「面子の大きい人」である。
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楠木健氏の書評や出口治明氏の世界史本から繋がり読んだ。
日本人のスジ論と、中国人の量論、の比較で中国人の価値観の根底にあるものとは何か、非常に興味深い視点で語る。
中国で長くビジネスをしてきた筆者の視点は興味深く目から鱗。
率直に、中国という国の歴史と量的思考とその数(人口)から生み出されるパワーには目を見張るものがあり飛躍的成長をしたわけだと感じる。