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『何をどのように言われたところで、この道を行く怖さは減らない。そもそもわたしは怖さを欲していた。何かの予兆のように広がる、清々しい怖さを』―『三つの穴』
エッセイのような、短篇小説のような。とても小池昌代的、と受け止める。内省する言葉、そう言い換えることもできると思う。とにかく、この詩人の書き下すものは狭いところに押し込められていた感情が導くもののように思う。それも解放された感情ではなく、あくまでぎゅっと縮められたままの思い。それが小さな出来事によって表出する。かさぶたを剥がした後にじわじわと血が滲み出すように。それを読めば、そんな思いが必然的に自分自身に跳ね返り、自分もまた解放できない感情の蓋に重しを乗せていることに意識が向いてしまう。
『彼女たちは、自分たちの感情を安々と名づけたくはない。更地にしておきたい。いつも何かに名前をつけたり分類したり、片づけようとするのは、外側から来る力』―『清水さんは、許さない』
それは哀しみというよりは怒りなのかも知れない、と考え方を変えてみる。哀しみと思っていた感情の正体は何か説明のつかない理不尽さに対する感情を抱いてしまうことの反作用。そう考えてみると何だか腹落ちがする。哀しみという感情も場合によっては永く心に刻まれることもあるだろうが、いつまでも残るのは何故そんなことになったのか、という思いに裏打ちされてのことではないか。小池昌代が描くのはどうやらそんな世界のことであるように思えてならない。
もちろん、それが良いとか悪いとかということではない。この詩人が感じ取っていることは人間の本質的な感情のメカニズムなのかも知れないと思うだけ。それが一般的な働きなのか、放っておけば全てが植生に飲み込まれてしまう湿度の高いこの国に棲みつく人間に限定された心の動きなのか。それはよく解らないが、小池昌代の書く文章にはいつも紙面がしっとりとするような湿度を感じる。
一つ確かなことは、こうして創作の種に自身の思いや経験を使うことは、どことなく鶴が自らの羽を抜いて反物を織り上げるという昔話を連想させるということ。同じようなことをする別の作家、例えばポール・オースター、には感じないそんな思いを、何故か小池昌代には感じ取る。この詩人に必要なのは、創作の元となる新たな刺激なのかも知れない。