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プロレスを取り巻く、社会環境というか。
ご本人のプロレス論が表にしっかり出てるわけでもなく、なんか物足りない感じ。
本当に文化論か。
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前著『力道山 — 人生は体当たり、ぶつかるだけだ』に感銘を受け、本書も著者買い。プロレス文化研究家を名乗り、高校教師を勤めながら研究を重ね、2010年には力道山に関する研究論文で大阪大学人間化学研究科博士課程を修了し、現在は社団法人・現代風俗研究会の傘下でプロレス文化研究会というワークショップを主宰中。然るに、本書も至極真面目に真っ当にプロレスを分析している。
いろいろな断面でプロレスを切り取っていて、どれもこれも目を引くのだが、中でも大手新聞によるプロレスの取り上げ方の差異は興味深い。力道山のいた日本プロレス時代から長きに渡ってスポンサーとなっていた毎日新聞とアンチ・プロレスの朝日新聞では、相当な違いがあるだろうと予想はしていたが、それを実資料に基づいて冷静に分析しているあたりは著者の真骨頂。昭和の社会史の貴重な1ページと言える。
ところで、上述した現代風俗研究会の世話役であり、建築史家・風俗史研究者である井上章一が、本書の中でプロレスの持つ一面を上手く表している。
「プロレスファンが一般人と語るときには必ず演劇か八百長かというパターンの議論になる。これはおそらく経済学者が一般人に『先生、株で儲かりますか』と質問されてうまく答えられないのに似ている。」
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日経新聞で増田俊也が書評で「岡村正史は平成の嘉納治五郎となり、21世紀のロラン・バルトとなったのである。」と書いていた本です。たしかにロラン・バルトを手掛かりにしたプロレス文化分析(プロレスそのものの分析とか批評ではない…)で、世の中とプロレスの関係を出来るだけ冷静に分析しようとしています。著者はそれを大学院の修士論文、博士論文にまで待ち込み評価を受けています。そのマニアックな人生そのものが、プロレス的だな、と思いつつ、このプロレス的という言い方も、プロレス文化の影響なのだと改めて気づかされました。プロレスという見る人にとって主観的なジャンルを、メディアの視点から浮き上がらせるという手法が今更ながらに新鮮で、プロレスラーの死亡記事が朝日、讀賣、毎日でどう取り扱われたか、または取り扱われなかったか、という分析はプロレスを分析するというより、プロレスを通してメディアを分析するという結果を写し出しています。また、趣味を真面目に学問するという著者の趣味(?)が、また数々のプロレス者たちとの交流を産み出していて、「1985年のクラッシュギャルズ」に登場する伊藤雅奈子が「プロレス・ファン」の編集長であったとか、細かい人名録も楽しいです。そういえば自分がロラン・バルトの「神話作用」を始めて手にしたのは村松友視の「私、プロレスの味方です」キッカケだったよなぁ、と思い出し、ロラン・バルトの存在の日本のプロレスへの影響力をまた、感じました。
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「プロレス」を文化人類学的に分析した一冊。
プロレスラーや関係者ではない視点なので新鮮な反面、インサイダーじゃない分内容としては薄味に。
特に最後の章は討論会の話がメインで退屈に感じた。
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教師をしながらプロレス文化研究会の代表を勤める筆者がプロレスへの愛情を込めながらその歴史と文化との関わりなどを語る。子供の頃は毎週金曜夜の「ワールドプロレスリング」を夢中になって観たものだったがその後は特に興味を持つわけでもなく、たまたま本書を手にしてみた。
常に登場してくるのが、プロレスとは「八百長」「演劇・ドラマ」「ショー」といった言葉だ。子供の頃は本気で闘っているものだと思って観ていた。今まで身近にいたプロレスが大好きな人達の言動を見ていると、「エンターテイメント」という言葉が今時はしっくりくるだろうか。ルールというかストーリーの中で人間の闘争本能を煽る様は歌舞伎のようなケレン味があり、プロレス好きを夢中にさせるのはよく理解できる。
国会のやり取りがよくプロレスに揶揄される(そして時たま物議を醸す)という指摘にも頷ける。皮肉のようでいて、しかし政治に国民の関心をもっと寄せるためのひとつの考え方にもなるのでは。