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暗黒啓蒙、新反動主義、加速主義。
90年代以降、資本主義に対するオルタナティヴが喪失してしまったことがこれらの思想の発展を後押ししたというのは腑落ちする主張である。
テクノロジーの進展や世相、そしてクトゥルフ神話のようなSFから半ば自己暗示的に未来を規定してきたというのは面白い。
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新反動主義や加速主義など、現代思想についてざっくり知れるだけではなく、その思想が生まれた経緯や、影響を与えた過去の思想についても紹介されており、とても興味深い。
真新しいように見えても、過去に回帰している部分が少なからずあるのだと実感した。
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「暗黒啓蒙」や「新反動主義」と呼ばれる思想について説明した本。三人の重要人物のピーター・ティール、カーティス・ヤ―ヴィン、ニック・ランドに焦点をあてて、全体像や流れを紹介している。内容はダークで難解な部分が多いが、装丁もダークな感じになっている。
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現代思想の新しい潮流という新反動主義、またの名を暗黒啓蒙を紹介する本。
読みはしたけど今ひとつ何が新しく、どんな魅力があるのかがよくわからなかった。わかる人が読めばわかるのかもしれないけれど、何か駆け足で説明してる感じでよく頭に入って来ない。
ヴェイパーウェイヴやホラーとの関係を解説してる点は面白い。
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ピーター・ティール、暗黒啓蒙、ニック・ランド、加速主義の4章からなる日本ではあまり馴染みのない主にサイバースペース起源の思想哲学を紹介した書として貴重。
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黒を基調にした異様な装丁に厨二心をくすぐられ、思わず手に取ってしまいます。デザインの勝利。
中身ですが、政治、哲学にあまり明るくない大学生にも辞書の助けを借りながらなんとか読み切れました。
そもそも最近よく耳にする「オルタナ右翼」「加速主義」とはなんぞや?という解説と、Vaporwave (電子音楽のジャンル)やクトゥルフ神話などとの思想的親和性に対する考察も盛り込まれ、単純に読み物として楽しめます。
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近現代の思想家ともなると引用元がブログだったりするのだな 私があと5歳くらい若かったら完全に「暗黒啓蒙」に取り込まれていたと思う
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ニックランドを中心に、その影響を受けた方々など、新反動主義といわれる潮流について解説されています。現代社会の大きな根本となっている資本主義という考え方、そこから発生している問題点にどう向き合うのか。今までの社会の形が変わっていくなかで、どの変化にどう対応していくのか。それは旧世代の常識からは外れた考え方を必要とするものかと思われますが、なかなか想像しにくいものかとも考えられます。そういった新しい考え方をする方々の活動を、本書では紹介されており、現在の私たちの多くは、なぜそれに馴染まないのかも、私たちは何に逃げているのかも、考えさせるような内容です。とはいっても、ごく最近の考え方というわけでもなく、時代の中でゆっくり育ってきたものが出てきているのかと。この主流となりつつある考え方に向き合わない限り、新しい世代とのジェネレーションギャップに戸惑うばかりという未来を感じつつあります。
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木澤佐登志「ニック・ランドと新反動主義」読了。新反動主義は暗黒啓蒙とも呼ばれ平等主義や資本主義を疑問視する先鋭的な考え方。国境を越えるネット社会の負の側面を垣間見る様に思えた。一方、Vaporwaveというポップカルチャーとの融合は初期のパンクロックみたいで個人的にとても面白いと思った。
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トランプ大統領を陰で支えているとも言われるピーターティールをはじめとした裏で世界を動かしている人たちについての本です。優生思想や極右、陰謀論と結びつくちょっと危険な本ですが、一読には値すると思います。
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民主主義な制限がある体制に不満を持つ「優勢」的な思想を持つもの、キリストのような平等、道徳的、愛を。そういった宗教に自由を奪われているように感じるらしいが、それがなくなってしまったり、薄れるとどうなるんだろう?と不思議に思った。
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果たして「加速主義」がどの程度のリアリティをもつ「思想運動」なのか、ニック・ランドがそこまで重要なのか、その辺のリアリティを共有できないと意味不明な文章ではある。ただし、個人的にはピーター・ティールがルネ・ジラールに師事していた点に驚いた。誤読!としか思わないけど、本書全体が「フランス現代思想」の英米圏での「誤読」の記録なのかと思うとなかなか憂鬱にもなってくる。。
ニック・ランドは「面白さ」による「誤配」を実践した人物ではある。彼のフォロワーは、旧来の左翼的「真面目さ」を引き継いだ「カルスタ」にはない”ヤバさ”に惹きつけられたのではないかな。後年の人たちから見るとバカみたいなものに熱狂するのが世の常なので、仕方ないことではある。さらに、1990年代のランドたちの活動の多くがウェブという一旦消えると遡ることが難しいメディアだったものを、紙にして記録し紹介した点に本書の意義があると思う。
引用。「ベンジャミン・ノイズはランド的加速主義を「大学院生の病」と総括している。これから激しい就職戦線に放り出され、そして死ぬまで労働の奴隷となる運命の大学院生たちに、加速主義は一種のイデオロギー的ストックホルム症候群を与える。つまり、終わりなき資本主義のホラーを、疎外と消尽の享楽へと変容させるのである」(p.198)。この箇所が個人的に染みた。。(記述のソースはRosa JANIS "The Future is the Past: The Failure of Accelerationism"らしい)
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真っ黒な装丁で中二病の心をくすぐる。
4章構成で1章が暗黒啓蒙とかかわりの深いペイパルの創業者ピーターティールの話、2章がヤーヴィンの新反動主義が暗黒啓蒙につながっていくまでの経緯が紹介され、3章ではニックランドを中心とした暗黒啓蒙周辺の思想潮流の紹介、そして4章では加速主義の紹介がなされる。サブカルチャー紹介程度の気持ちで読んだが、思ったよりも哲学・思想色が強く特に3章はかなり観念的で神秘主義的な部分もあり、読みにくかった。特に思弁的実在論(SR)などは言葉遊び程度にしか感じられない。1章のピーターティールの『スタンフォード・レビュー』にまつわる話などは、ポリティカルコレクトネスにまつわる議論が1990年代から存在したという点について新鮮に感じた。この辺りは単純に読み物として面白い。2章、3章は比較的思弁的内容が多く退屈だった。4章の加速主義は比較的に論点がよくまとまっていたように思える。本書によれば、技術を制御可能な形で発展させる穏健な「左派加速主義」は死に絶え、「無条件的加速主義」や「右派加速主義」が影響力を持っているらしい。加速主義には適当なインターネットの人間が言っている妄言程度の印象を持っていたが、一応『アンチ・オイディプス』『象徴交換と死』『リビドー経済学』あたりの文献からインスピレーションを受けている側面があるとのことだった。
すでによくなることが想像できない「失われた未来」を予感しニヒリスティックにあるいは黙示録的に未来を肯定する加速主義に、過去に倒錯的なノスタルジアを求めるヴェイパーウェイブとの思想的関連性を見出す話も興味深い。
ネット上の思想潮流はかつての文壇などと同等以上の影響力を持っており、今や無視できない側面もあるだろう。そのような点でいえば興味深くはあった。
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メランコリーと人間以後への志向、死への欲動が広く覆っているからこうした思想も出てくるんだろうなと思った。その理由は本書にもあるが「未来に期待できないから」。戦争、貧困、エネルギー、技術革新、格差などなど、累積された問題の前では明るい未来を描く方が難しい。
そうした傾向はダークな作風の漫画やアニメが評価される最近のサブカル界隈にも見出せる。こうした絶滅の予感は長く抱かれているが、それは人類が罹った一過性の病なのか予測なのか。病であってほしいと思うばかり。
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アベマプライムで宮台真司氏が軽妙に語っていた「加速主義」なるものが気になり、購入したのが本書だった。初めて触れる思想が「加速主義」 「暗黒啓蒙」というのをどう評価していいのやら今でも分かりかねるが、数年経った現段階では、私にとって暗黒啓蒙、加速主義はSF的世界観以上の 何者でもない。人間社会が失われたのとは別の必要としていることは理解できるが、本思想がその立場を担えるような代物であるとはとても思えない。 しかし、それでも当時の無知だった私に本書が与えた影響は大きく、衝撃の連続であった。
衝撃の一つは、暗黒啓蒙{現代社会で最早法律を超えたモラルのような存在となっている様々(進歩主義、平等主義、自由民主主義他)に対して反旗を翻す 思想の総称}がその矛先を向けた啓蒙「ポリコレ」についてである。そもそも、私はポリコレを10年代半ばの、Twitterの普及、安倍政権の長期化、 文春無双といった時代に誕生し瞬く間に勢力を拡大したムーブメントと認識していた。ポリコレを強く意識したのは、当時の私の娯楽の中心であった テレビバラエティにおいてであり、4〜5年前、高校生時の私は度々反ポリコレ的な演出の炎上に対しての懸念をツイートしていた。炎上の例を挙げると、 水曜日のダウンタウン「真・モンスターハウス(18.12.26放送)でクロちゃん氏がとしまえんに収監され、それを一目見ようと観衆が押し寄せたことについて、 暴れる観衆とそれを予知できなかった番組への批判や同「モンスターIDOL(19.11.6放送)」でクロ氏がナオ氏の涙を見たいがためにわざとアイドル合格者発表 での合格発表順を後ろに回したことについて、上司のおっさんのセクハラを我慢する部下に映って不快であるとの指摘などである。ともかく、ポリコレについて そういう認識を抱いていた私は、ポリコレが80年代生まれであったという事実に驚愕したのだった。数年どころではないタイムラグが発生したのには、 恐らく様々な要因が複合的に関係しているのに違いない。
ポリコレに対して容赦のない批判を浴びせる暗黒啓蒙論者達の思想もまた、当時のポリコレ=正義の風潮に自分なりの解を見出せていなかった 私にとって{但し、広義の意味で誰かを(自分も含めて)傷つける場合に発生する事象を指す言葉として認識している「お笑い」を、「誰も傷つけない笑い」 として再構築しようという動きには上記の通り全力で抵抗していたので、これを除く}、賛否を別にして衝撃的であった。例えば、80年代に学生だったピーター ・ティールはポリコレを「言いたいことを言うことができる権利の制限」と称して批判した。確かに、ポリコレが今まで言いたいことを言えなかった者たちの ための運動であるのに対して、それによって逆に言いたいことを言えなくなってしまった者たちがいるということは皮肉でしかない。何より、この言説が単なる 言葉遊びにとどまらず、何十年経った現在において世界を分断する壁としての機能を果たしている事に驚く。一方、ニーチェはポリコレの理想である「平等」 に対して、それを信奉する心理にはルサンチマンがあると指摘し、権力にありつくことができないという嫉妬心から、我々に対して等しくない���ての者に復讐と 誹謗を企てようという意思から来るものであると断罪している。これは誰もが口に出すことを憚られる真理の一面を捉えた魅力的で危険な言説である。
暗黒啓蒙の代表者であるニック・ランドは、カントをポリコレの生みの親とも言える「近代啓蒙」の普及における重要な立役者の一人であると分析 したうえで批判している。それは、植民地主義に始まる西洋列強の外部世界への拡大にあたって、カントの、人間は他者を主観を構成する認識作用によって 認識することができるという論が、他者性を圧殺するという意味で、或いは自己の同一性を保ったままに他者を自己の内部に取り込むことができるという意味で 重要な役割を果たしたということである。これもまた、カントについて、「永遠平和のために」が現代の安全保障にも通ずる場面があること(21世紀の戦争と 平和:著.三浦瑠麗)といった、良心的思想の数々の祖のようなイメージしか抱いていなかった私にとって実に興味深いものであった。
筆者は加速主義の、テクノロジーがやがて人間の地平を超えて秩序が崩壊するほどの変革を社会にもたらすであろうという主張とレヴィ=ストロース、 フーコー、フロイト等の哲学偉人達の思想との部分的類似性を指摘しつつも、偉人達が人間に対して未練を残す姿勢を中途半端であると評するランドが、 やはり彼らとは異なる立場であることを強調する。ランド曰く、「人間、それは乗り越えられるべき何か...である」。 このセリフは、シラス(放送プラットフォーム)での東浩紀氏の発言(例えば、2023年2月28日公開「東浩紀突発#89無の突発。今年ももう6分の1が終わった。」 など。しかし、特定回に限らず何度も発言しているし、恐らく新著訂正可能性の哲学でも言及しているのではなかろうか)を想起させる。氏曰く、 人間は我々が思っているよりも相当に面倒かつ頑固で、容易にテクノロジーが打ち勝てるような相手ではないという。その際に氏が挙げる例として、 人間が絵やメロディに感動する時、彼らはその背景にいるそれを創った人間の存在を含めた物に対して感動しているのだろうから、自動生成AIがどんなに 上手い絵や曲を創ろうとも、人間がそれに惹かれ、満足することは難しいだろうというものがある。
ここからは私の私見だが、そういう人間の厄介さとか複雑さというのは乗り越えることもできないし、だとすれば乗り越えるべきでもない最低限のルールの ようなものであるように感じる。ここで言う最低限のルールとは、ある枠内で目的を達成するために創意工夫を行うが、その枠自体を破壊してしまうような それは許されないし、参加者自身もそれを望まないという時の破壊を防ぐためのルールを指している。それは例えばサッカー(枠)で言えば手を使わない (目的:サッカーを楽しむ)ことであり、対戦ゲーム(枠)に改造データを持ち込まない(目的:相手に勝つ)ことであり、ネットカフェやブックオフや1日1話無料の アプリは使っても漫画村は使わない(枠:社会に対して大っぴらにできる趣味としての漫画、目的:漫画を効率的に読む)ということである。つまり、人間はその 枠内で人間にとり、より快楽を得たいという目的を追求し続けるが、そこには人間より上位の存在を許さないという最低限のルールが存在しているように 感じてならないの���。
冒頭に言った通り、私は、失われた未来を受け入れてしまいどこか投げやりで、情熱を捨てない者たち(ポリコレとか)に対する嘲笑を行う一方、 ひたすら無垢にテクノロジーの進歩を礼賛する矛盾した態度に満ちた本思想に本気で肩入れすることはできない。果たして宮台真司がどこまで本気なのか 分かりかねる部分があるが、それはそれとして、当たり前や常識に対して正面からその意味を問う彼らの姿勢からは多くを学ぶことができるし、 そういう体の良いこととは別にSF的世界観としてこれほど想像力を掻き立てワクワクさせてくれるものはないと思っている。
80年代のポリコレ p21
言いたいことを言える権利の制限 p24
平等主義とルサンチマン p36
カント p104
乗り越えられるべき人間 p112