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宇佐美先生と野口先生の往復討論とあっては、即買い、即読了です。
すごいです。
野口先生の、小学校の高学年に英語が教科として登場することに対しての、「消極的賛成」という意見には、驚きました。
しかしその理由を読むと、本当に納得です。
現在の小、中学校の国語教育、とりわけその授業の現実を見るに、今のような授業を継続して「国語学力」は決して高まるまいと考えるからだ。「今のような授業」と書いたがこれは決して今に始まった傾向ではなく、むしろ「ずっと昔から今に続いている」と言うべきかとも思う。173ページ
もちろん先生の言う通り、すべての授業がそうだと言っているわけではありません。
英語教育をめぐる両先生の立場の違いだけではなく、とにかく全編が、すごいです。
討論を通して、両先生の違いが、論点が明らかになっていきます。
当たり前ですが、両先生の学識の深さには、とにかく、とにかく、深く感動です。
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面白かった。うまく噛み合ってない感もあるけども、宇佐美氏の、これは論争にしない、というのがいい感じでした。読者にかなり多くを委ねている。ぼくはお二人ともとても尊敬していて、かなり勉強になった。
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教育、とくに国語教育関係での有名人二人による公開書簡。双方の国語教育や授業実践に対する考え方の相違がそれなりにみえる…ともいえるのだろうが、「発問」などの行為概念に関する定義問題をあれこれ述べあって平行線のまま終わっているようにも思えた。
あるいは、学校教育を授業行為を中心とした学習者の発達過程への寄与であるとみなす立場が両者に共通している、という言い方ができるかもしれない。かの呉智英氏は「近代学校教育とは「平凡の強制」だ」と喝破したことがある。そのような、いわば社会科学的観点からの学校教育・学習論には(学習者の階層性などに部分的に触れるものの)ほとんど言及されない。「国語教育・授業論だから当然」ということになるのだろうか?(小学校で日本語を母語としない子供たちが増え続けていくなかで、国語授業・教材はどのような意味をもつのか等、「発問」がどーのよりも緊急かつ重要な問題は多くあるように思うのだが)。
末尾近くで、国語教育の悲惨な状況が小学校への英語教育導入という「外圧」により改善していく可能性、なるものを論じる野口氏の意見は説得力皆無かつ無責任で、現状では批判されるべきだろう(どーでもいいが氏のこの認識は、敗戦後日本の「誇りを失わせた洗脳」を主張する歴史観と奇妙に響き合ってるように思える)。
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久しぶりにヒリヒリする本に出会った。
教育学界の長老・宇佐美寛氏と、授業名人・野口芳弘氏の往復書簡である。
往復書簡ではあるが、『宇佐美・野口対談』と呼びたい。
宇佐美は大学生への指導経験を元に痛烈な批判を展開する。他方、野口は小学生への授業経験を元に反論する。バックグランドが異なるのだから、考え方が違って当然である。
しかし、両者のテーマは国語教育についてである。全く畑違いの二人が適当な距離で話し合っている訳ではない。同じテーマでときには同じ教材について語るのである。
にも関わらず、両者の意見は交わらない。しかも両者、一歩も譲らない。
例えば、「発問」について。
野口氏は発問によって生徒の思考を起動することが大事だと説く。宇佐美氏は学生の思考を縛る発問はやめるべきだと主張する。
宇佐美氏は「一人で読む」ことが大事であると説く。それに対して、野口氏は「一人で学べるなら授業はいらない」と反論する。
年齢的には2歳しか違わない両者は同時代を生きてきたはずだが、意見は全く相入れない。
そのやり取りを読む過程は、両者の意見にグラグラ揺れながら、その中で精一杯思考しながらの「一人読み」であった。宇佐美の主張する「一人読み」であった。
齢80を超えた碩学が信念をぶつけ合う討論がヒリヒリしない訳がない。
本書は、真の「知的エンターテイメント」だ。