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認知症当人が、どんなふうに感じているか、どんなことを考えているか、の発信として、とても考えさせられる。認知症になっても、自分でものも考えられるし、日々を改善させられる、ということ。
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認知症診断に使われている「長谷川式スケール」の開発者、長谷川和夫氏が2017年に自ら認知症であることを公表しました。
まだ認知症には「なったらおしまい」という意識が残っているかもしれませんが、著者は
認知症になってもいろいろな世界が見られるということを伝えたかったようです。
本書は、自らが患者となり認知症になって感じること、周囲の人々との関り、隔離、拘束の歴史、長谷川式スケール開発秘話に加えて、今後認知症患者が増えていく社会に対して医療は何ができるか、最終章では「日本人に伝えたい遺言」が述べられています。
専門医の当事者のお言葉であるだけに、とても心にしみます。
どうぞご覧ください。
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いつも認知症の評価に使わせていただいている長谷川式。それを作られた長谷川和夫先生の書かれた本。認知症というラベルが貼られたとしても、その人はそれまでのその人と連続して存在している。訪問診療で出会う時には、だいぶ進行していることも多いけれど、そのことを日々肝に銘じながら接していかなければなと感じさせられました。
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嗜銀顆粒性認知症 しぎんかりゅうせい
80歳過ぎで発症。緩やかに進む。
長谷川先生の穏やかなお人柄のような一冊でした。
認知症を受け入れて、共に生きていく思いを受け取りました。
皮膚はどんどん入れ替わっていくのに、脳はずーーっと同じ。90年近くもおんなじ。
たしかにそれは凄いこと。
脳のある部分がポンコツになったなら、いろんな方法で補えばいい。そんな風に考えらる社会であればいいなぁ、とそう思いました。
理想論かもしれないけれど。。。
私は認知症になりたくないなぁって思っているけど、
将来そうなったら、受けとめて、豊かな時間を構築したい。
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認知症の研究者が当事者になった。長年研究してきても、当事者になってみないとわからないことがある。とても胸にささった。そして、それを伝えていかなければならないという使命感をお持ちになってお仕事を続けていらっしゃることがとても尊い。
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ともかく認知症の人を関与させずにその人のことを決めないでほしい。認知症と診断されたからって、その人がかわるわけではない。1日のうちでも調子がかわる。朝は頭がよく働く。って、私は今でもそうだけど。東大卒で留学もして海外に客員教授として行ったり、長谷川式スケールを作ったりしたえらい先生で現役のときにはずいぶん厳しかったようだけど、今は妻や子に感謝あるのみという感じの穏やかな人。Person centered careを提唱している。
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長谷川認知症スケールの生みの親が認知症に。
その人の目にはどんな景色が映っているのかな、と思って半ば興味本位で購入してみた。
たとえ認知症になっても、その人の人生は生活はずーっと続いている。その延長線にある出来事であって、その人自身は昔も今もそこにある。なぜ認知症の"患者"という表現をしないのか、本当の意味で理解ができた気がする。
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認知症の第一人者である長谷川先生が、知識と体験から認知症について書いている。「認知症の第一人者が認知症になった」というドキュメンタリーを見て、本書を手にとった(同じ人は多いはず(笑))。
「認知症になったらおしまいだ」と想像する人は少なくないだろう。そしてこれからますます高齢化の進む社会が必然的に直面するこの問題に、アントン(スマホでは変換できない!)たる思いがしてしまう。
けれども、著者は言う。認知症になっても、自分にとっては何も変わらない。それまでと同じような日々が続くのだと。だから、介護にあたっても、尊厳を持って接することがとても大切だと。そして、「何がしたいのか」「何がしたくないのか」という意思を聞いてほしいと。
認知症になると「確かさ」が揺らぐ。例えば、鍵を閉めたかを忘れることは普通の人にもあるが、普通の人は鍵を閉めに戻って安心する。けれども認知症のひとは戻って鍵を閉めたかがまた不確かになる。この不確かさに対する戸惑いと不安のなかで闘っているとも言える。
ともすれば認知症に対するケアは押し付けになることもある。本人の意思を聞かずに、これがいいだろうと決めてしまう。本人は、それで家族の負担が軽くなるのならと受け入れる。上述したドキュメンタリー番組「認知症の第一人者が〜」でも、著者自身そうしてデイサービスに参加するのだけど、戸惑いと悲しさを顕に、車いすに座ったきりの姿が印象的だった。一言、「俺の戦場(書斎)に帰りたい」と漏らしていた。ケアを最前線で推進してきた著者の言葉には、介護の難しさを思い知らされる。
これからの社会はおそらく認知症になることが珍しくない、当たり前になる社会になってゆく。認知症であることが人間として終わりであるというラベリングされないように、認知症であることを誰もが堂々と名乗り、一人ひとりの人生をまっとう出来る時代になってほしいと願わずにはいられない。
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認知症の専門医である著者が自らの認知症を観察して言葉にする。それは「確かさがゆらぐ」ことであるが、自身は過去から連続していて、別の世界に行ってしまったわけではないものの、これまでどおりの暮らしが難しくなる「暮らしの障害」ではあるらしい。ただ、だからこそ、認知症の人を遠ざけるのではなく、家族、地域が当人を中心とした「パーソン・センタード・ケア」を行えば、本人も周囲も困らない生活が継続できるという。
そのほか、認知症の特徴やメカニズム、著者の個人史なども盛り込まれている。
今後ますます高齢化が進展する社会で、増え続ける認知症といかに付き合うかという点からも示唆に富む。
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★★★
今月2冊目。
長谷川式スケールを作った長谷川先生が認知症に。
期待したけど、まあそんな内容がある本ではなかった
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認知症の専門医が認知症になった...
やはりドクターということで主に認知症のことについて書かれている。
専門医の発症からの経緯などが詳しく書かれているのかなぁ〜と思って読んでみたのだが...
少し期待外れの部分もあった。
(他の本をいくつか読んでいたせいかもしれないが...)
認知症だから...と扱いを変えるのではなく
介護する側に患者に対して「人ありき」やはり人としての敬意を持って...ということが常に根底にあれば、きっと長くなるであろう介護の時間もお互いがスムーズに(?)過ごせるということだろう。
多くの本にそう書かれており、私自身もそう思う。
一口に認知症といってもその症状は脳の損傷部分で異なる。
一人一人の症状が異なるということだ。
「人ありき」目の前の患者にどう寄り添うのか...
介護する側の心のあり方を問われている。
そして多くの場合、多分、きっと自分も少なからず行き着くところなのかもしれない...とも思う//
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今回は「自分が認知症になったらどうなるのか」という見方をしてみましょう。
認知症の臨床と研究の第一人者である長谷川和夫先生が80代後半になって認知症になったのです。認知症専門医が認知症になっていく過程で知る認知症の真の姿とは・・・。日本で認知症のテストといえば「長谷川式認知症スケール」。①年齢②日時の見当識(今日が何年、何月、何日かを問う)③場所の見当識(今現在の場所がどこなのか問う)④3つの言葉の記銘(3つの単語、桜・猫・電車(または梅・犬・自動車)を順番に暗記してもらう)⑤計算問題(数字を使った計算100から7を引いていく)⑥数字の逆唱(提示する3ケタの数字を逆から読んでもらう。正解したら次は4ケタで)⑦3つの言葉の遅延再生(④で暗記した単語を復唱してもらう)⑧5つの物品記銘(5つのアイテム-タバコ、ペン、腕時計など)を順番に見せ、後で何があったかを問う)⑨言葉の流暢性(野菜の名前などをできるだけ多く答えてもらう)・・・これを作ったのが長谷川和夫先生。2月にNHKスペシャルで「認知症の第一人者が認知症になった」(このwebsiteは読み応えあります、お薦めです)を見ました。長谷川先生が認知症になり番組の収録期間中の中でも進行していく姿は驚きでした。
この本はそんな長谷川先生の若き日から現在までの道のりをたどりながら、認知症が進んでいく過程での先生の思いを猪熊律子さんが聞き取りまとめたものです。先生の思いの中でもっとも大事なのは認知症の本質は「ボケること」そのものではなく、それによって引き起こされる「暮らしの障害」=「生活障害」なのだということ。
先生は、「年をとるのは自然の経過だから、『ああ、自分も認知症になったんだな』と受け入れて、上手に付き合いながら生きていく。」と言っています。だから周囲の者が認知症の暮らしの障害がどんなものなのかを理解し、生活を共にするときの知識や技術を周囲の人が知っておいてくれたら認知症の人にとっての生きやすさはかなり違ってくるのです・・・それを称して「パーソン・センタード・ケア(その人中心のケア)」・・・なんだと。
しかし、ここまで読んで私は思いました。先生がいうところの「検査や薬ではなく、パーソン・センタード・ケアの精神で生活の障害を支援しつつ老化の進行に付き合い、そして死に寄りそう」・・それって結局、昔の日本の大家族の中で普通に行われてきたことじゃないですか。大家族の中であったら、そして今ほど長寿じゃなかったら、家族とともに自然体で暮らしながら死を迎えられたんじゃないかと。それを長谷川先生が一生かけて疾病化し、病名も変え、診断手法も考え、医療化したことが本当に良かったのだろうか。結局、誰も老化は避けられず、脳の老化が先行することもひとつの自然経過なのだと。そしてそれを長谷川先生が身をもって示してくれたということではないでしょうか。
ところが、「認知症を病気にしてしまったことが本当に良かったのか疑問だね・・」などと、私が食卓で理屈をこねていると、現実的なわが妻が言うには、「病気と認められたからこそ、家庭と切り離すことができて、良かった・救われた」。ここで初めて、多くの女性にとって親世代や夫の認知症を介護することは老後に降りかかってくる災厄でもあったのだと気づかされました。
長谷川先生も認知症になりながらも快適な生活をおくれるのは奥様とお嬢様の二人の介護者がいるからなのでした。長谷川先生も私もまさに昭和男の「ボク」目線で認知症がわかったような気になっているだけなのかも・・・いやきっとそうですね。
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本を読む前にNHKスペシャルで特集をされていたので、どちらかというとスペシャルの方がリアルで面白かったかな。
長谷川式は診療で当たり前の様に用いられているものだけど、専門でもないのでそれが作られた背景や歴史は全く知らずにいた。今回その作成された方が認知症になったと言うのを聞いた時は結構な衝撃だった。「君の研究は君自身が認知症になって初めて完成する」と先輩から言われた事があると書いてあったのも、なんだか複雑な気持ちにさせられた。
スペシャルで言っていた認知症になっても景色は変わらないって言う言葉が印象的。認知症と言うファクターで患者さんを見るのではなく、1人の人間としてちゃんと尊厳を持って接していく事が認知症への理解を深めていく事なのだと理解した。
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いつも見ている認知症のことがわかっているようで全然わかってなかったなーとしみじみ。
長谷川式スケールのことも知ってはいましたが、こんなに素敵なお人柄のドクターだとは知りませんでした。
当事者目線での認知症が、家族にも当事者にも医療職にもすごくわかりやすい本
生きること、死ぬこと、長生きすること、老いることについて考えさせてくれる本です。
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認知症診断のものさしを作った長谷川先生がご自身が認知症になった経験から当事者の視点で認知症を語る。認知症診断の歴史などにも振れることができる。