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客観的、とは、場合によっては、定見がない、ということになる。公正というよりも、世の中に受け入れられやすい考えを採用してしまいやすい。
子育てよりも労働に価値がある、という前提があるから、満員電車の中のベビーカーに立腹することになる。
労働に価値がある、と考えると、怠けているものに生活保護を与えることは許されないという考えにならないか。
失敗してこそ成功がある、失敗を乗り越えて成功した、と考えるより、失敗などない、失敗したと思えてもそれは成功の一部である、と考えるほうがいいのではないか。
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多くの人が、日頃感じてることが丁寧に書き表されている、といった感じの本です。目新しいことは、そんなにないけど、2点ヒットしたのは、
①逸脱を嘲り笑うことについてのモヤモヤ
②今の若い人は片思いを告白するとき相手の迷惑にならないか考えてしまうくらい、空気を読むということに気を配る人もいる
ということです。ちなみに二つめはとある男子学生が、というエピソード。これは草食以前… 日本だけの都合で、本気で少子化に歯止めをかけるつもりなら、一夫多妻制にでもしますか?いやいや、それすら「空気を読め」としかられそうですね。
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仕事をめぐるモヤモヤ
「何を選んでいいのかわからない」
・ハズレクジを引きたくない、や不満があるのに自ら選べないは、よく分かると思った。
自分1人の責任で解決出来る事なら、すすんで失敗しても良いと思うけど、状況によって「不利・ハイリスク」が予想されると途端に自信がなくなり動きが鈍くなる。
責任持てないから他力本願・効率的でリスクの少ない方法を考える・手を出さないとか。
他、「協調性と個性を求められる」や「いじる」等、かなり痛い所を突いてるな〜と思う一冊。
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“冷静に話すことを重視する人たちが強調するのは「怒りは何も生まない」です。怒りは当たり前ですが、個人的なものです。しかし、「何も生まない」という考えは、怒りの発露をワガママであるかのように扱いかねません。(中略)
怒りでわなわなと震えるような、もっともらしい理屈では言いようもない怒りは、そのまま「怒っている状態」として表すほかないわけです。「感情的に話す」ことが怒っている状態を伝える上でもっともストレートな表現です。であれぱ、「それは良くない」などと他人に自分の怒りを奪われる筋合いはありません。”(p.99)
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以下引用
彼は社会を枠組みのない決まったものでも、何が何でも従うべきものでもなく、あくまで動的なものとして捉えていたこと、いつだって私たちの力で変えることができる、だから現状に対してノーということは、個人が社会を動かしていくうえでの原動力となる
日本はノーよりもイエスを良しとします。
厳しく指導し、結果を求めたところで個々の自立があまり望めないのは指導する人の考えや評価基準への依存を学習するから
自分に厳しくといったところで、ほとんど親や教師から教えられた価値観をなぞっているのが実情
他人にのぞまれるような自分を演じる
世間が求めている常識に従って、自分の主張を取り下げ、他人の言動に異を唱えるよりも、まずは受け入れ、共感し、同党にふるまるのをよきこととしてきた
私が誰かと出会い、言葉を交わし、何か通じ合ったとき、喜びを覚えるのはなぜか。あなたの中にまだ見ぬ「私」を見出すからです。私の中にいる<あなた>という名の他者を通じ、わたしはあなたと出会う
彼らはできることがある、それ以外に何が必要なのか、と実に堂々たる態度
身体に自信が備わっている、というより身体が自信なのです。そのため他人がどうあれ、自分の感覚こそが、重要で、あまり人に共感を持ちたいと思っていない
自分のやり方にこだわって妥協しない態度はみんなと一緒の共同作業には向いていないし、折り合いをつけたい人にとったは迷惑です。気に入ったものが作れなかったからやり直す、納期を守れないのは、発注した側からすれば、わがままです、ものづくりいの仕事を垣間見ての私の感想は、己を徹底してしか行き付けないし、だからこそ見える景色があるのだなということ
身体に根を張る具体的な生き方を支える技、それがない代償としてコミュニケーションとそこで得られる共感を頼りに、自身の価値を「いいね」をはじめとする他者からの評価で得ようとする
私のいた施設では、社会復帰に向けた練習は行っていませんでした、かえってそれがものづくりの特徴のひとつになっていました
健常者は、目的を掲げて結果を求めるための訓練が得意
★苦手なことを克服する努力をしないとすれば、どうやって製品をちゃんと作ることができるのか、確かに重い障害のある人が規格品をつくることは難しい、けれども自分のやり方でものをつくることはできる
ここでいうできないは、健常者の期待する通りにはできないのであって、かれらは独自のやり方とこだわりで作ることはできる。彼らのできると、健常者のできるは違う
成長や能力の向上をよそに、「いま・ここ」において努力せず、できることをただ表す姿に動揺している
淡々とただ愉快そうにほっているだけだった。ただひたすら彫ることをしているだけ、その姿はとても自身にあふれているようで、まぶしく見えた
彼らが自信ありげに見えたのは、そのときにできることをただ行っているだけだからではないか。ただものごとを行っていれば、できなかったらどうしようという不安が入り込む隙がない
強度は何によってもたらされるでしょうか、自分の外の概念に身をゆだねることで強くなろうとします、けれども彼はどうやら自分を何かの基準に照らし、比較して行動することにあまり関心を払っていない
自分がただ自分でいることを禁じられ、それはおかしいといわれ、教え込まれるとやんだり弱くなって、本人も気づかないうちに自信を失ってしまう
同町圧力で才能をつぶしにかかる
この社会はわかりあうことへの期待が異様に高い。それは自身のなさに由来している。私の抱く不安への共感を
示しほしい。
常識という名で語られる了見の狭さをうたがうべき
客観性によってものごとを理解するはやさ
客観とは、対象と自分との関係を捉えてものごとを考えること、主観なくして存立しない
思っていた通りの出来事のおとづれは、変化の否定を意味します。永遠の美が実現しないのは、概念だから
私たちが安全に生きていくために採用した方法は、社会の価値に合わせることでした、それをよしとするようになったのは、自分の感じていることが正当に扱われず、また感じていることと社会の価値との違いを肯定されなかった数多くの体験があったから
感じていることを率直にただ表現することは、迷惑、わがままと価値づけされる。本当はそのように判断されて却下される前に、あなたの率直な表現に対して肯定や否定や様々な反応がありえたhがず、全面肯定でも、全面否定でもなく、他人とのせめぎあいの中で生まれる新たな独自の価値観
あなたはそうなのですね、で済ませればいい。
自分が手にしている信念を疑うには勇気が必要。他人と異なる行いをしては抵抗と摩擦が起きる。この社会では集合意識みたいな思い込みが空気としてある
自信を持つというよりは、信じるという根拠のない感覚、感覚は言葉に比べると確認するにも手ごたえが薄く、つかみどころがありません。
自分が無視してきた体感にフォーカスしていくと、長年かけて育てた感性が実は社会に合わせていたことや、分かってほしかったけれど、理解されなかった経験があったのだと気づかされる
感じることはわかりやすい理解に至らないため、とても弱く頼りなく思える。ところが弱さを認めることが結果として強さに結びつく
この社会に適応していないと非難されたとしても、適応していないのは、ただ適応していないだけで、そこに善いも悪いもない。社会性がないから、真っ当ではないという表現は直ちにあなたが常識外れなことをしており、それが反社会的な行為のように扱われる、しかし逸脱は反社会ではなく、非社会的な行為なのだと視点をずらしてみる、単に現状の社会の中には見当たらないだけ
誰かの言った正しさを受け入れ、それにかなうように努めてきた
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モヤモヤの正体 迷惑とワガママの呪いを解く。尹 雄大先生の著書。同調する必要なんてない。協調性なんて気にしない。迷惑だと言われてもいい。ワガママだと言われてもいい。他人の評価よりも自分自身を好きになること。迷惑ワガママと言われないために生きているわけではないから。モヤモヤの正体は自分自身の心の弱さなのかな。迷惑とワガママの呪いを解かないとすっきりしないから。
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「満員電車にベビーカーを広げたまま乗るのは非常識だ」そんな風に暴言を吐く人は実際は、自分を正当化させたいだけなのでは?といったモヤモヤの確信に迫る1冊だった。
この価値観を知っているかいないかで、今後の社会に対する見方が変わってくる気がする。