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この国はって、雑にくくろうとするからおかしくなるのかもしれない。
となりの部屋の人は、とか、同じ課の人は、とか、手の届く相手のことから考えるのがいいのかも。
だってひとりの人間の中に、これほどの深みや複雑さが存在してるって、この本を読むとわかるから。
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宮城県で民話を採集していた人の収集した民話とそれにまつわるエッセイ集。
民話と聞くと古めかしく、桃太郎や浦島太郎などの典型的な話をイメージすると思うけど、本著では民話の採集を通じて「人が話す、それを聞く人がいる」という、人間を人間たらしめている営みがいかにオモシロいかを知ることができる本だった。著者の人はもう80過ぎの女性で本著で書いているのは、そんな彼女が30-40代に宮城県内で聞き込んだ民話とその語ってくれた人の人生だ。ざっくりした歴史観だと70−80年代の日本は成長期で80年代なんてバブルの頃だけど、そんな喧騒とは無縁な田舎の生活史としてもめちゃくちゃ面白い。農村で生きる過酷さがビシバシ伝わってきた。比較的主体的に自分の人生を生きることができる今の環境の素晴らしさに気づかされること山の如し。自分の兄弟の面倒みながら親の仕事を手伝うのは当たり前だし、もっと厳しくなると口減らしで突然家を放り出されてしまう。個人的にうわーと思ったのは都会と田舎の寂寞の対比。ムラ社会の同調圧力が分散せずに寂寞が余地を残さずに迫ってくると書いていて大いに納得した。
そんな過酷な生活の中における退屈しのぎの1つでもあった民話に基づいて、人や街の歴史を解きほぐしていく著者の考察がオモシロい。民話は教訓めいたことが封じ込められたフィクションなので、大人から子どもに聞かせる話なので子どもを大人が都合よくコントロールするための話だという偏見を持っていた。しかし、たとえ同じ話だとしても角度を変えることで全く違う教訓に取れる点を示唆していて興味深かった。あと民話ではないけど戦争に関する語りも考えさせられるものがあった。僕がまだ子どもの頃はおじいさん/おばあさんの戦争体験を学校やら家やらでダイレクトに聞いた記憶はある。しかし今はもうそれがほとんど実現しないことに読んでいて気づかされた。本著を読み終えると人から直接聞いて得る情報と本を読んだり映像を見たりして得る情報の違いは間違いなくあると特に感じると思う。結局はどの口が何言うかが肝心なのだ。
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『耳ふさがれた風化するには、惜しんでもあまりある生きた人間の足跡がにじんでいる。切れば血が吹き上がる切実な現実に彩られた世界がある。わたしはこうした話を捨てがたく思う。なにかしら、居ても立ってもいられないような気持ちになってしまうこともある。』
各地の民話を訪ね歩き、人々と出会ってきた小野和子さんの本。
民話…と呼んでいいのか、それとも婆さん爺さんの苦労話、愚痴話と呼んでしまうか、そのぎりぎりのところで浮かび上がる人々の暮らしや心情に引き付けられてしまう。
『全部本当のことだよ』と語られるなにかを聞く、というのは、その人の思いまるごとを受け入れるということかもしれない。
東日本大震災後、陸前高田で活動しているアーティスト、瀬尾夏美さんが寄稿されている。両者の行為の共通性_聞くこと、について考えさせられる。
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西荻の本屋ロカンタンさんにお勧めされて購入。やっと読了。こんなに丁寧に作られた本はそうない。隅から隅まで味がある。読みながら、どんどんはまっていく。
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民話採訪者・小野和子さん。
P57〈お孫さんに語るように、わたしにも語ってくださいな〉
軽い気持ちで読み始めた本書。
途中、民話の持つ力にクラクラする思いだった。
時代を経た無数の先祖の声。
ずしりと重いのは当たり前か。
濱口竜介さんの言葉。
P351
〈あなたにはこれを受け取る覚悟はあるか、と突きつけてくるようなところが小野さんの文章にはあります〉
私も、小野さんから問われていると感じた。
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一生ものの読書体験。
聴くというのは、
その人が住む土地や家の匂いや空気、
その人が纏う全てを感じ、
全てを受け入れること
ここに至ってはじめて話し手は、
聴いてもらえた実感、
受け入れられた実感を得る
この実感こそが"生きている実感"
なのかもしれない
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この本の著者小野和子さんは、出版当時85歳
50年もの間、民話を語る人のお話を聞きに訪ねている人
民話を研究したり、再話したりする人たちは、民話を語ってもらって聞くことを「採集」「採話」という。
昆虫採集の採集と同じ字だ。
でも、小野さんは、「語ってくださった方」と「語ってもらった民話」は、切り離せないと考え、「採訪」という言葉を使う
その言葉の通り、この本では民話そのものだけを語るのではなく、それを語ってくれた人、その人が住まう家や土地、そしてその人につながる人々をすべて含めて語っている。
民話とは、それを語る人を通して、営みが反映されて生まれるのだということを知る。悲しいお話だけでなく、どこかユーモラスな、おおらかな話の背景にも、実は厳しい生活があってこそ生まれるものもあることを知らされることとなる。
昔話の定番のような「おじいさんは芝刈りに行きました」の背景にあるものを初めて知った。私は何と無知だったのか……と思う。
そうか、物語とはこうして生まれるものなのだと知る。
この本を読むことができて、本当に良かった。
きっとこの本は、繰り返し読むことになる本なのだと思う。
物語に携わる人は、読むといいと思う。
特に、「読み聞かせ」に関わる人には読んでもらいたい。
きっと人に読んで聞かせることが、そのあと違ったものになると思うから。
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語る、聞くとはどんな行為か、自分はほとんど理解していないかったことを知った。一方で、このように丁寧な仕事は、それを生業としないことでのみ成立するのかもしれないと感じた。
苦労の多い歳月を暮らし、年老いてなお孤独に生きる語り手が小野さんの来訪を喜び、大切な品を形見として手渡す場面に目頭が熱くなった。この語り手の生命は読み手である私の中に、確かに生き継いでいる。それは小野さんが本書を通して願ったことのひとつでもあっただろう。
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読んでよかった、率直にそう思います。ただ民話が収録されているのではなく、小野さんがそのお話に出会ったときの状況や話してくれた方の背景もていねいに記されており、濱口さんも寄稿していたけれど一緒に旅をしているような気分。もちろん、将来の子どもたちのために民話を残したい、というところもあるのでしょうが、それよりも小野さん自身が「ききたい」「きかせてほしい」と真摯に思っていること、だからこそこちらも背筋をしゃんと伸ばして読もう、そんな気持ちになりました。
個人的には出身が宮城県なので、方言がなつかしくこそばゆく感じられました。(もしかするとちょっと読みにくいのかもしれません)
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聞き手の覚悟、聞くことの意味を再認識させられた。
何度でも読みたくなる。
聞きなれた昔語りの意味を改めて考えさせられた。
なぜ語り継がれてきたのか、考察も素晴らしい。
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結婚して地縁のない宮城県で子供3人を育てながら「昔話を聞かせていただけませんか」と、知らない村のお爺さんお婆さんに民話を乞い、採訪し続けて50年。
倍速で見なければ追いつかない程のコンテンツが溢れている現在では考えられないほど民話は素朴だが、その地域、語り手の背景があり、簡単には受け止められず、咀嚼しきれない。
こんな地平があったんだ。
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民話、昔ばなしかな?って感じだけど、それだけにあらず。
むかしからの日本各地の人びとが
時に苦しい暮らしのなかで生き延びるために編み出された
不思議だったりおもしろかったり悲しかったりのお話。
物語になっていない、エピソードのように断片的なものもある。
ねずみの地下の国、浄土の話など、各地でよく聞かれるものもあるようだ。
あとは戦地に赴いた人が、死期に故郷の親兄弟に知らせるべく夢に出てくる話。
それも民話らしい。
あてもなく海辺や山合の町を訪ね歩き、むがぁしむがし、の覚えている話を聞かせてくださいと見ず知らずの人の家に行くのは、考えられないくらいキツいこと。
でもこの方、話を聞いていくごとにどんどん相手の心に立ち入っていくような不思議なパワーとスキルをお持ちのよう。
すっかり仲良くなって、度々訪ねていったり、亡くなる間際に形見を預けられたりとかで、すごいんだから。
あらためて、民話って、何。
人びとの暮らしと共にある、子どもをあやす話。語り継がれる話。
幼くして奉公に出された子どもたちが、どうにも辛くなったときに、町外れにあるそうした民話を語ってくれる一人暮らし(たいていなにか訳あり)の大人のところへ集まる、という話もあったな。
人びとのそばにある、人びとなぐさめる、人々とともにあるお話、というものかな。
かつ、どの時代にもずっとそばにあるもの。
3.11の震災のときのことも描かれている。
民話でつながった縁が、震災のあとの再会でしみじみ深いものであるとわかる。
ただの昔ばなしではなく、現代も人びとの中にある、暮らしの悲しみやそういうのを表現して共有するのが民話。
こういう、変わり者とみられるような、探訪者がいなければ、この世から消えてなくなってしまうようなお話の数々なんだろうな。研究者だね。
東北なまりが郷愁を誘う、貴重な保存版のような一冊なのであった。
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出会う人たちに向ける作者の小野和子さんの目線の優しさにウルウル。
民話といってもよくある昔話ではなく、本当の民の話。
時に優しく、時に厳しい自然に向き合い、どんな人にも生き様はあって。どれもが愛おしい。
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小野和子さんが、宮城の語り部たちからはなしを聞くドキュメンタリー映画を観た。「あいたくてききたくて旅にでる」を読み始めたら、小野和子さんの姿が私の脳裏に浮かび、その声が聞こえてくるようだった。賢く、辛抱強く、温かく、優しく。
見知らぬ者がいきなり訪ねて来て、昔話を語ってくださいと頼んでも、不審がられるし、せっつかれても語れるものではない。昔話ではないのだが、厳しかった暮らしを思い出しては泣き、口にすることも憚られるようでありながら、とつとつと語られ始めた体験談は、その人の生きてきた歴史の中で、いつか熟成されて物語のようになって、はじめにむがすむがすとついたなら、昔話のように聞こえてくるだろう。 かのさんの語った、犬ころのカロの話は何とも胸が締め付けられた。
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本書を読むきっかけになったのはNHKのこころの時代ライブラリー「“ほんとう”を探して 小野和子」を偶然観たことによる。もともと聞き書きやオーラルヒストリーに興味があり、老後は自分史の口述筆記のお手伝いでもやろうかとぼんやり考えていたので、なんだか私がやりたいと思っていたことをすでにやっている方がいるのだと心の中に電流が走る思いがした。しかも民話採録というとても体系立てるのが難しい領域で。今まで民話は教訓的なもの、戒めのようなものととらえていたが、小野さんの長年の経験からすると、庶民の体験に基づいた基層文化にあたるもので、先祖から連綿と受け継がれてきた人生に裏打ちされた物語なのだそう。昔話によくあるお爺さんが山へ柴刈にいくという本当の意味を知り衝撃だった。
また、民話を聞く側にも覚悟がいる。語る人と真剣に渡り合わなければ本当の民話を聞くことはできないという。傾聴を気楽に考えていた私には衝撃だった。
NHKのドキュメンタリーのほうがよくまとまっていて本書よりもわかりやすかった。
編集方法と文字のフォントやレイアウトもちょっと読みづらかったりする。
小野さんが民話再訪を始めたのはお母さまが若くして亡くなったことがきっかけだったらしいが、なぜそれが民話再訪でなければならなかったのかがもう少しはっきり知りたかった。ただ、小野さんは、文学や物語の成り立ちを民話再訪のなかから汲み取られている。神話は宗教や国家や民族において、必ず必要なものだが、文学の始まりは先祖からの連綿とつながった生きた記録から民話が生まれそれが色んなバリエーションを地方色豊かに生み出しているというお話には共感できる。また、私の採録した民話などほんの一握りだとも言っている。そんな一握りでも残してくれてありがとうといいたい。採録された民話と語り人で一番印象に残ったのは猿の嫁ごを語ったヤチヨさんのお話。最後に大事にしていた忠臣蔵の絵本を小野さんに贈ったエピソードも物悲しくいとおしい。また、豆粉の話も面白かった。民話がこんなに人々の生活を照らした奥深い物語だったことを思い知らされるばかりである。この本を知ることができてよかった。満足度★★★★