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対話形式とは違った新しい書き方で面白かったです。感想述べるほど理解できてないですが、テクノロジーを第二の自然とする考え方はなるほどと思いました。科学、テクノロジー的なアプローチが知らず知らずのうちに人間から「活動」の機会を奪ってしまうということなのかな…
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哲学者ハイデカーのもと出逢った19才アーレントと23才ヨナス。ユダヤ人同士の思想家としてナチスドイツと対峙しアーレントは愛するハイデガーと別れ仏、米に渡り長年無国籍で全体主義の考察「人間の条件」を発表。
イスラエル建国に情熱をかけ武器を持つヨナス
アーレントはホロコースト責任者アイヒマン裁判で
悪の陳腐さを雑誌発表しヨナスをはじめユダヤ人からパッシングを受ける。関係修復後技術社会の未来に警鐘を鳴らす「未来への責任」をアーレントに相談し発表するヨナス。過酷な時代を乗り越えた二人の物語。
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アーレントとヨナスは友人の枠を超えて、生涯深い仲で結ばれた。両者は有望な研究者として若い頃から注目されてきたが、ナチズムの台頭により亡命を余儀なくされ、その後ヨナスはシオニズム運動に没頭し、自ら「戦場」へ赴き、アーレントは政治運動とは一定の距離をとる「漂泊」の期間を過ごすという対照的な歩むこととなった。共通のテーマから出発した2人の哲学者はシオニズム運動、イスラエル建国、アイヒマン裁判などのイシューに向き合い、戦後にはテクノロジーへの関心を寄せ、対照的な思想・哲学を持つようになる。
近年の排外主義やポピュリズムは、ナチスの全体主義としばしば照らし合わされるが、大戦期と大きく違うのは技術の発達であり、これらを促進させることもある。本書ではヨナスが論じた「テクノロジー」とアーレントが論じた「全体主義」の重なりを考察するテクノロジー的全体主義について記述されている。
メモ:
p141
あなたはまったく正しいのです。私はこの種の「愛」によっては心を動かされません。それには二つのりゆがあります。第一に、私は今までの人生において、ただの一度も何らかの民族あるいは集団を愛したことはありません。ドイツ人、フランス人、アメリカ人、労働者階級など、その類の集団を愛したことはないのです。私はただ自分の友人だけを愛するのであり、それ以外のどんな愛も私にはまったくありません。第二に、このユダヤ人への愛は、私自身がユダヤ人であるからこそ、私には疑わしいものに思われます。私は自分自身や、何らかの形で自分が実質それに属していると知っているもの愛したりはしません。
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2022年4月からNHKで放送中の「100分de名著」で戸谷洋志さんを知った。わたしのひとつ年下という若さで准教授・・・!と感銘を受け、著書を読んでみようと思った。ドイツ出身のユダヤ人である二人の哲学者、ハンナ・アーレントとハンス・ヨナスの一生を辿りながら、それぞれの思想の変遷と、二人を結んだ固い友情の軌跡を描く。年代ごとに章を区切り、百木漠さんがアーレント、戸谷洋志さんがヨナスを担当する形での共著。
わたしはヨナスについては全く勉強したことがない。アーレントも、ハイデガーと師弟関係にあったということ以外はほとんど無知。だから、この本を読んでみても、二人の思想をしっかり理解したとは全く言えない。アーレント個人、ヨナス個人を見ても、年齢と共に、また第二次世界大戦における悲惨な体験を経て(二人とも、ドイツ出身のユダヤ人なのだ)、その思想はどんどん移り変わる。わたしの拙い情報処理能力では、ハイデガーの『存在と時間』の前半部分(「存在」で力尽きて「と時間」の部分についてはもうお手上げ、ほぼノータッチだ)をちょっと理解したような気になれるまでに二年以上もかかったのだから、一冊読んだくらいでああなるほどねとなれるわけはない。
そういうわけで、戸谷さんも百木さんも聞いて呆れるかもしれないけれど、わたしはこの本をヨナスとアーレントの友情の物語として読むことにした。仕方ない、二人についてはまだ初心者だもの!興味を持ったところから探求を始めていくしかないのです。
1900年代初頭に生まれ、マールブルク大学で出会った若き二人が、唯一無二の親友となり、修復不能にも思えた決裂をも乗り越えながら、それぞれのフィールドで世界に名を馳せる人物になっていく。こんなことが本当に、現実にあったのねと言いたくなるような、小説のような物語。
わたしは戸谷さんの文章がすごく好きだと思った。特に第二次世界大戦中のヨナスを描いた章。理路整然とした論文調の中に、当時のヨナスの絶望と苦しみに共感するからこその少し感情のこもった文章が紛れ込む。ある恩師との再会を機にヨナスが一筋の光を見つけ、「私には研究がある。私は研究をすることができる。」(p.117)と噛み締めるように力強く語る箇所では思わず涙が出た。戸谷さん、いつか小説書かないかなあ。ドラマチックで素敵な文章。
閑話休題。
数日前に、「思想の違いを愛は越えられるか?」という鴻上尚史氏のコラムを読んだ。結婚して10年、夫との意見の違いをかつてのように笑い合えなくなったという41歳女性からのお悩み投稿(どうしよう、共感しかない)に鴻上氏がアドバイスする形のコラムだ。笑い合えなくなった理由として鴻上氏は、とても興味深い考察を経て、①コロナ禍、②彼女たち夫婦が大人になったこと、③夫婦の議論の目的が違ってきたことの三点を挙げる(ああ、共感しかない)。その上で、解決策としてこう告げる。
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僕のアドバイスは、「愛で思想の違いを越えよう」とするのではなく、「愛と思想がなるべくぶつからないようにする」ということです。
それは「お互いに、政治や社会問題の話題は避ける」という方法です。
(https://dot.asahi.com/dot/2021121600064.html?page=4)
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なんやねんそれ、と思った。避けるって、そんなんただの逃げやん、と(謎の関西弁で)。このときは肩透かしを食らったような気がしてムッとしてページを閉じた。
その後、しばらく経ってから『漂白のアーレント 戦場のヨナス』を読み始めた。そしてハッとする記述に出くわす。それは、アイヒマン裁判に関する見解の相違を巡って親交が断絶していた二人が和解するシーンだ。こんな記述がある。
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ヨナスはその言葉(ヨナスの妻の、アーレントともう一度親しくなるべきだという言葉)に背中を押され、アーレントと和解しに赴いた。アーレントは何でもなかったかのように、彼を迎え入れたという。こうして、『エルサレムのアイヒマン」をめぐる二人の短い確執は、幕を閉じた。ただし二人の和解は、二度とユダヤをめぐる歴史の問題を議論してはならない、という暗黙の約束によって実現されることになった。(pp.159-160)
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ヨナスとアーレントも、こじれてしまった関係を修復するため、そして絶対に相容れることのできない意見の相違を友情で乗り超えるため、「その話はもうしない」という結論に達したのだ。これは上のコラムで鴻上氏の言う「愛と思想がなるべくぶつからないようにする」ことにほかならない。ちょっと衝撃を受けてわたしは30秒くらいこのページのまま固まってしまった。
なんだろう(いきなりひろゆき)、一箇所だけならまだしも、二箇所から、しかも全く関連のない二箇所から同じことを言われると、ああそれならそれがひとつの真実なのかなあと思ってしまう。一見して逃げのようにしか見えない解決策が、最良ということもあるのかなあと。というかそもそも戸谷さんも百木さんも、夫婦関係に悩むしがない主婦にこんなライフハック的な気付きをもたらすためにこの本を書いたわけではないだろうということだけは確かなので、閑話休題のはずが元にも戻らずこんな終わり方でなんだか本当に、申し訳ございません!
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ハイデガーの門下で共に哲学を学んだアーレントとヨナス。ユダヤ人への迫害を逃れるために、親しい2人が進む道は大きく離れてしまう。ナチズムへの対峙の仕方や学者・思想家としての考え方も異なっていき厳しい論戦を交わしながらも、再会を果たした後もお互いの深い信頼は変わることがなかった。全体主義への警鐘としての2人の思想をどう解釈するかの重要な観点はさておき、人の生き方や運命について考えさせられた。