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精神科医である著者が、金閣寺焼失の犯人と彼をモデルにして「金閣寺」を執筆した三島由紀夫について、二人の統合失調症的な側面を掘り下げて書いた。
前半は、焼失の犯人・林養賢を、中盤以降は三島由紀夫を、生い立ちや周囲の状況などから掘り下げて精神医学的に考察している。なかなか読みごたえがあった。
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言葉は他者に盗まれる
言葉は、他者を通じて自分に返ってくる。
外に出した瞬間、自分を表さず、
さらに他者の解釈を経て自己に固定化する。
ならば、自己とは何なのか。
この文脈において、金閣を焼かねばならなかった
林に、何故焼いたのか、聞くことに意味はない
何故、人は、意味を求めるのか。
生きることに意味はない
そう、生きることに意味はない。
意味に還元される次元のものではない、
という意味だ。
意味は、所詮、他者を介して自己に返された
ものなのだ。
燃え上がる炎に包まれる金閣を見つめる林、
見事に描ききった三島、
2人に近づきたい、
そう思ってしまった。
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1950年7月2日未明に起きた金閣寺放火事件の犯人・林養賢と、
事件を元に『金閣寺』を執筆して高く評価された三島由紀夫について、
精神科医・内海健が取材と資料の読み込みを元に書き下ろした
ノンフィクションにして作家・三島論という、
精神病理学と文学論を縒り合わせた一冊。
林の内面と三島が透視した風景を抉り、
白日の下に晒したかのような――。
事件当時、逮捕された学僧・林養賢は
動機を「美への嫉妬」と称し、
この発言が三島由紀夫の『金閣寺』執筆を促したということは、
一つの情報として漠然と承知していたが、
読み進めるうちに目から鱗。
林養賢は統合失調症となったために
自らの職場に火を点けるといった惑乱に陥ったと、
ずっと誤解していた。
元々、性格的に独特な偏りのある人物ではあったが、
医師の診断上、発病したのは1951年2月頃で、
裁判で懲役七年が確定した直後だったという。
北山鹿苑寺で僧侶としての務めに従事しつつ
大学に通わせてもらっていながら、
さしたる理由もなく学業を放擲した彼は、
後ろめたさから「皆に嫌われ、悪口を言われている」と思い込み、
師である住職・村上慈海が自分の企みを見抜いている、
秘密を知っていると直感。
では、その秘密とは何かと自らに問いかけたところ、
「金閣を焼こうと思っている」との想念に立ち至ったのではなかろうか
……と、著者は推察する。
狂気のポテンシャルが様々な偶然の重なりによって臨界点を超え、
動機や理由に回収できない地点にまで辿り着いたのでは、と。
そして、もう一人の主人公・三島由紀夫(本名=平岡公威)は、
恵まれた環境に生まれ、世間並みの苦労を知らずに育ち、
しかも早くから類稀な文才を発揮したため、
文芸によって独自の空間を作り上げ、その中に自身を封じ込めて、
リアルな生活上の実感から紡ぎ出された小説とは
異質な美の世界を構築するに至った。
世の中の様々な事象は実体験を得る前に頭の中で組み立てられ、
完結してしまっていた。
そこから脱出するための開口部として、晩年の肉体改造や、
最終的には割腹による自決という行為を必要としたのだろうか
――といった話になってくる。
後で読もうと思っていた『金閣寺』のオチを
先に知ってしまったけれど(笑)それはそれとして、
じっくり楽しめそうな気がする。
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前半の林養賢の精神分裂病(統合失調症)、後半の三島由紀夫のナルシシズムが、『金閣寺』という作品の中で互いを写しあっている様を克明に描き、言語を内在することで生じる離隔、意識の絶対的な立ち遅れという近代的人間の抱え込んだアポリアを描き出す。三島由紀夫没後五十年、驚くべき労作。
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実際に金閣に火をつけた男とそれをモデルにした三島由紀夫の二人を精神学者が分析し、深く掘り下げる。
その内容もさることながら、表現が文学的で哲学的だ。
大事件を引き起こした2人なのだが、炎や自死などとも絡んで、やや美しく表現しすぎなのではという印象もある。
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【その行く手に、他者がはっきりとした像を結ばぬ中を、養賢は駆け抜けた。そしてその先に金閣がいた】(文中より引用)
現実世界で金閣を焼亡せしめた林養賢。その事件に衝撃を受けて小説世界で金閣に火をつけた三島由紀夫。彼らの心象世界に踏み込みながら、なぜ金閣が焼かれなければならなかったのかを考察した一冊です。著者は、『「分裂病」の消滅』などの内海健。
林養賢パートも凄まじかったのですが、ページを繰る手が止まらなかったのは三島由紀夫パート。『金閣寺』と『鏡子の家』という二作品を支点としながら、三島の精神世界を覗く試みにくらくらするような衝撃を覚えました。
このテーマ設定は引き込まれざるを得ない☆5つ
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ベンジャミン・リベットの
「脳の電気活動は意志に先行する」という実験結果をもとにして
先立つのは行動であり
動機はすべて後付けの説明にしかならないという
結論を出しているのだが
それが正しかったとしても自制心の働かない理由にはならない
突発的、暴発的な犯行であってもそうだが
まして金閣を炎上に至らしめるまでの複雑な仕事を行うあいだ
ずっと自制心をシャットアウトしていたことを考えると
やはり何らかの物語に基づく熱狂に捕らわれていたと見るほうが
自然であるように思う
またこの本の場合、林養賢が明白な「分裂病」で
内なる他者の声に流されてしまったのではないか、という
仮説を立てており
それはそれでありそうな話なんだけど
それならば、事前に覚悟を固めるかのような
遊郭で童貞を棄てるという行為は不要だったんじゃないか
という気もする
ただ自分の内なる声に流されゆくだけの話なんだから
(河野多恵子「不意の声」みたいに)
…どうも、犯罪と「不幸な事故」の境界を曖昧にしようとする
ポストモダンな意図を感じずにいられないのだ
それは例えば
神の存在証明を不問としつつカントの純粋理性を論じ
「大人が子供に諭すような道徳」に嘲笑的なニュアンスを含め
自由=エゴイズムをまるで託宣のように扱うくだりからも感じ取れる
だがそれを企図したものとまでは言うまい
所詮人間の作り物にすぎない金閣の「再現性」に気づかぬ
そんな溝口(三島)の滑稽さを批判しえない以上
現実の金閣寺放火事件に関しては
そういう結論に至るのも無理からぬことである
美の一回性に対し、俗の再現性を見いだした三島由紀夫は
「鏡子の家」以降
しばしば世界滅亡を夢想する人物を出してくるようになった
社会が継続する以上は
俗人の生に一回性を認められない
代わりがきく、ということだ
しかしそれゆえに、天皇こそが俗の象徴であるとも言える
「絹と明察」でそこに触れたあたりから
三島は死に向かう具体的な準備を始めたように思う
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冒頭に、林養賢が起こしたことの一部始終が一気に書かれ、そこからじっくりとその精神構造が説かれていく。いきなり”金閣を焼かねばならぬ”になりうる、症状は事後に形成される、分裂病の特徴とはこういうものなのか、とても興味深い。
ちょっと前に読んだ『つけびの村』事件の当事者をも想起する。
P32 (19世紀ごろの近代ヨーロッパでは)知識人である以上、メランコリーには一度はなるものとみなされていたのである。
養賢の生まれ育った時代にも、こうした「憂鬱症」の青年文化は存在した。むしろ、「青年期」というライフステージが、二十世紀初頭になってようやく一般市民層にまで浸透するにつれ、それはごく当たり前のこととなった。青年というものは暗く無口なものであり、そして孤高を保つのを美学とされたものである。
P43 我々はなぜ動機を問題にするのだろうか。実のところ、この性癖とでもいうべきものは、意識というもののの中に深く刻み込まれているからである。意識は出来事に対して立ち遅れる。決定的に遅れている。【中略】だが、我々はそれを「私は見る」あるいは「私は見た」と書き換える。こうして経験は構成される。いうなれば、これはフェイクなのだが、それによって経験はまとまりあがる。【中略】小林秀雄が「モオツァルトの悲しさは疾走する。涙は追いつけない」という名言を残したが、事情は逆である。悲しみは涙に追い付けないのである。
P47 赤ん坊は乳を含まされて、自分の中に沸き起こった不快な感覚が「空腹」というものだったと事後にわかる。ということは、この一連の過程が首尾よく終わるためには、乳を与える母親、つまりは他者が不可欠だということになる。もちろん、いずれ子供は「お腹が空いたよう、ごはんちょうだい」などと言えるようになるのだろう。だが、事の因果をはじめに設定したの他者である。それも自分についてのことである。つまり、母は僕のことを僕よりもよく知っていたわけである。それゆえ、われわれの意識の中には、自分よりも自分のことを知っている他者がいるという構造が設定されている。【中略】意識の核心に他者の痕跡がある
P55 分裂病は、その前景において、つまりは症状が顕在化する手前において、もっとも唐突な行為へと突き抜けるポテンシャルを持つ。その典型が自殺であり、稀に殺人である。それには動機がない。徹底的に「無動機」である。【中略】通常はこうした地点まで突き抜ける手前に事例化する。【中略】その代表的なものが幻覚や妄想である。ところが、特異な状況の下で、あるいはいくつかの偶然の重なりによって、幾重にも降りかかるフレームをすり抜け、ひそやかに病がインキュベートされる場合がある。あるいは周囲が気づかれぬほどに、緩やかな経過をたどることがある、その時狂気のポテンシャルは極大にまで充満し、不意にカタストロフへとなだれ込むことになる。
P67 幻覚や妄想がある事例のほうが、症状の捉えどころの難しい事例よりも、経過がよいことが多い。病が局在化されて、人格全体に侵食することを免れる。【中略】しばしば重大な犯罪が、病的症状によって引き起こされたといった報告がなされる。そのような��ースももちろんある。だが、分裂病の症状は事後的に形成される。【中略】症状とは、他者との間で、さらに言うなら、制度との間で作られるものである。
P72 分裂病の症状に「思考伝播」というものがある。文字通り、自分の考えが伝わってしまうというものである。他人は自分のことを疾うにお見通しで自分が何を考えているかを知っている。どの事例にも表れるというわけではないが、分裂病という事態がいかに途方もないものとなりうるかという意味で、核心的な症状である。
P75 犯行について養賢は、「悪いことをしたとは思っていない」という。これも一貫している。では彼にはいわゆる善悪の弁識が欠如していたのだろうか。もちろんそういうわけではない。【中略】むしろ小狡いことや卑劣なことを忌み嫌っていた。そして公判中も服役中も真摯である。養賢が「悪いことをしたとは思っていない」というのは、金閣放火というものが、そもそも善悪という尺度で測れないからである。
P78 女としての母は、強い嫌悪を催す存在である。それは穢れであり、棄却(アブジェクション)されねばならない。【中略】とりわけ、養賢のような分裂気質者にとっては、女なるものは、自他の境界を揺るがしかねない脅威である。
P87 予測は当たることもあるが、外れるのは当たり前である。必ず当たるに決まっているなら、予測する必要もない。予測があまりにもあたると、薄気味悪くなる。散在してまで厄払いすることもある。なぜなら、それは他者の場だからである。逆に言えば、予測が外れるところに私の場所がある。
P87 人間のライフステージの中に、青年期が登場したのはそれほど昔のことではない。というより、わずか1世紀ほど前のことである。ちょうど「分裂病」が概念化された時期に相当する。
P108 絶対的自発性がほとんど不可能なものであることはすでに見た。いかなる外的に動因のよることもなく行為するとは、ただその行為をすることでしかない。ただ席を立つ、ただ黙々と弁当を食らうだけである。【中略】その行為の主体にとってみれば、立つべきだったから立ったのであり、食うべきだったから食ったのである。そうとしか言いようがない。それ以上の理由をつければ、絶対的自発性ではなくなる。【中略】自由が当為(ねばならぬ)として現れる病態としてかつての拒食症がある。彼女たちは自律的な行為として食事のコントロールを始める。おそらくは、食べることを拒否するのは、人間にとって最も原初的な自律の表現だからだろう。
P134 言語というシステムは、欠陥動物としての人間の存在を補填する。
P146 分裂病に到来する超越者とはどのようなものなのだろうか。一つのモデルとなる社会がある。スターリン政権下におけるソビエト連邦である。【中略】本来姿を見せることのない超越者が現れるとき、それは崇高なもの、神々しいものとは限らない。むしろ無様なもの、あるは猥雑なものとして現れる。理屈は至極簡単である。本来あるべきところにないからである。
P161 三島のナルシシズム的世界において、決定的に欠けているのは他者に対する意識である。この点において、ひりひりとした他者意識を隠し持つ分裂気質とは決定的に異なる。
P212 狂気には現像がない。というより不可視である。それは社会というフレームにぶつかって初めて像を結ぶ。
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タイトルに魅かれて読みたいと思っていた。しかし、単行本であることと、書店ですぐに見つけられなかったこともあって、読まずじまいできた。最近、図書館にまた行き出したので見つけて読んでみた。ことばが難しい。「離隔」きっとキーワードなんだろう。何度も登場するが、結局イメージがつかめないまま読み終わった。わかったこと。当時の金閣寺の住職は、小説の中の人物とは違って吝嗇(りんしょく、ケチ、このことばは覚えた)であった。林養賢の母は、息子が金閣に火を放ったということを知り、京都にやってきた。その帰り、山陰線の鉄道から保津峡へと身を投じた。三島由紀夫は小林秀雄から、どうして最後に溝口を死なせなかったのかと問われている。私自身、幼いころに、金閣寺は一度焼かれたことがあるということを聞かされていた。大人になってから三島の小説を読む。二度目に読もうというとき、小説の中で、いったい金閣は本当に焼かれたのだったか、そんなふうに思っていた。だから、燃えているシーンよりも、主人公の溝口が「生きようと思った」ことの方が印象的だったのだと思う。溝口が死ななかったということは金閣を焼かなかった、計画を実行には移さなかった、と勝手に感じていたのだろう。つまり、金閣を焼いたのならば、溝口は死ななければならなかった、そう考えていたのだろう。結局、小説でも実際にも、金閣は焼かれ、そして火を放った張本人は死ななかった。しかし、養賢は数年後に結核で死ぬことになる。ところで、私は、周りの評判がどうかは別として、「金閣寺」よりも「鏡子の家」の方が好きだ。あの最後のシーン、犬が解き放たれるシーンが印象的だった。それと、あとがきによると、著者はimago誌上にて、安永、木村、中井の鼎談を企画したそうだ。我が家にはいまもこの雑誌が創刊号からそろっている。
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知らなかった事実ばかりで楽しく読んだ
以下、書籍紹介より
金閣寺の放火僧・林養賢。当時、その動機を「美への嫉妬」などと語ったが、そういうことなのではない。三島の『金閣寺』も援用しながら、分裂病発症直前の、動機を超えた人間の実存を追う。