投稿元:
レビューを見る
素晴らしい。
わたしたちが長年感じていた不満を理解しようとしてくれているし、実際してくれているし
ものすごく頭にくるエピソードもあるけど、それを認めた上で、なぜそういう考えを持ってたかとか、どうして改めなければいけないか、具体的にどう変わるべきか、
そういうことを考えて(くれて)いる。
そっか、だから"男の人"って、そういう行動をとってしまっているんだ、って納得できたこともたくさんあった。
自分のことを"男性"だと思っている人に、繰り返し読んでほしい。
コミカルだけど、
日常のジェンダーに関する、バイブル本になるくらい、深い本だと思う。
投稿元:
レビューを見る
わかりやすい言葉で記してくれている教科書のような本。
時代は変わっても、今まさに起こっているだろう
事例。
男の特権。。。言い得て妙でした!!
投稿元:
レビューを見る
著者が男子高生だった時代に「世間からまったく興味を持たれていないことを痛感し、自分はあまり価値のない人間なのだろうという感覚」を持ち、「内面には興味を持ってもらえなかった一方、結果や実績、役割や能力といったもの(=doing)で人間を計られている感覚」だった
→「そんな中で、自他のbeingに関する観察眼や言語化能力が育たず、知らぬ間に「気づかない男たち」になってしまっていたのではないか」
という視点が、男の人でないとなかなか気づけないもので、なるほど感じた。
「doingにしか興味を持たれないし、自分も他者のdoingにしか興味を持てない」男性を作り出さないためには、恋人や家族など近しい人の一人一人に、女性がよく話し、そして、話を聞くべきなのではないかと思った。
男性の「気づかなさ」が育ち方からくるものから、女性は最初から諦めてはいけないし、男性も歩みよってきてほしい。
投稿元:
レビューを見る
著者がけっこう赤裸々に自分の恋愛遍歴や女性への思い、女性とのつき合いなどを書き連ね自己開示をしながら、男性というもの女性への対し方を悟っていくような……感じかな。よくぞここまで男性的行動や心理を自分なりに分析しながら(たぶん)正直に書いたと思った。いやはや、男たちって物事や異性をこの程度にとらえているのかと思った。わりと女性的立場で物事を見ているつもりの自分のお株を奪われるような危機感を思った。
タイトルには、何かと徒党を組んでホモソーシャルな世界で女性とちゃんと向き合わない「俺たち」と別れ、あらたに「私」という個人へ脱皮するような思いが反映されている。読み始めた前半のあたりは、「俺たち」的な話ばかりじゃないかと思った。たとえば、自分の行動の振り返りを「俺たち男は」として論じてしまうような。なーんだ、看板に偽りありかと思っていたら、後ろのほうは見事に「私」になっていった。双子ちゃんの誕生にまつわって書いた文章は「ぶんちゃん」の話も相まってとてもいいなと思った。
投稿元:
レビューを見る
https://note.com/for_nanba/n/ncf1c33fa68cb?magazine_key=m4bc9bb14bbb6
投稿元:
レビューを見る
フェミニズムや女性性について興味を持つようになりしばらく経ったのですが、ものごとの片面(※ここでいう私の自認の性である女性について)しか知らないことに恐怖を覚え始めて読んでみたもう片面(男性について)の本です。
とても興味深いものでした。著者自身が男性であり、男性を俯瞰として見ているスタイルです。
女が男を研究して書いたものよりも、より相手の気持ちに近いのでよかったです。
投稿元:
レビューを見る
秀逸なタイトルと恋バナ収集という特異な活動背景があるからこそ書ける本。自省的な思考を刺激されるが先の変化に繋がる兆し少なく、もう少し見通しの開ける感覚は欲しかった。
投稿元:
レビューを見る
何をした人かの「human doing」ではなく、その瞬間の自分や相手の感情を大切にする「human being」な男性になろうと作者は主張する。
男性は生存的な安全性が確保されていれば、あとは異性を巡る評判獲得競争にさらされている。だから相手に見えない、相対順位がわからない「human Being」な男は勝ち残れないと思う、残念ながら。
「human Being」だとアピールする「human doing」な男が勝ち残れるなら世の中は変わるかも。
年齢を経るごとに自分自身男の単純さを実感する。
著者のいう通り。
でも男は変われないと思う。
橘玲氏に感想を聞きたい本。
投稿元:
レビューを見る
human doingからhuman beingへということがこの本のテーマにあるけれど、男性だけでなく、human doingとして生きている人(特にhuman doingとして強い立場にある人)に通じる本かなと思う。
この中で紹介されていた本やドラマ、演劇などにも触れてみたい。
投稿元:
レビューを見る
いろいろな人の話を聞くこと、そして当事者研究的に自分をさらけ出すことで、この著者は、人を傷つけない自分を見つけ出し、自己肯定しているのではという印象でした。
投稿元:
レビューを見る
声を出して笑ってしまう部分がいくつもあった。筆致も読みやすい。男性全員に読んでもらってどんな感想が出るかを聞きたい。
投稿元:
レビューを見る
社内SNSでおすすめされていて、タイトルに惹かれて読んでみた。結局、何の話だったのかよく分からない、というのが正直なところ。ちびまる子ちゃんの話とか、お子さんの話とか、言葉選びが上手いと思った。
投稿元:
レビューを見る
「“受験型モデル”の呪縛」という章がある。
著者が早稲田の入試に特化して勉強した1年間で、「外から与えられた課題を頑張って打ち返していくこと」が努力や勉強なのだという感覚が根付いてしまったこと、その後、受験が終わって無事に大学生になってから、やりたいことややるべきことを自分で見つけなくてはいけない状態に戸惑ったこと、大学の講義に全く興味が持てず、語学の授業も難しすぎて全然ついていけなかったこと。
「外から与えられた課題を頑張って打ち返していくこと」が、女性が男性にイラッとすることにもつながるんだろう。
「自分の時間と体力=すべて自分のことに使うもの」とか「「考えなくて済む」という男性特権」とか、あーそうそう、って感じ。
でも自分も別ジャンルでそういうところがある。子どもがいないことや今のところ親の介護がないことや正規職員であることといった面で。
ジェンダー面で比べると、男性の方が女性よりもそういう傾向が強くて対立しがちだけど、他の面で比べるともっといろんな対立軸がある気がした。
投稿元:
レビューを見る
清田さんの2冊め、とても力のこもった体当たり的な内容なんだけど、不思議と残らない。どうしてかな?3冊目読んでかんがえようっと。
投稿元:
レビューを見る
いろんなテキストの集合体で一冊が構成されているのでこれというカタルシスはないのだがそれだけ話し合うべきトピックスは多いのだといえる。性別問わず、依存先を分散させ自尊感情(being)を自給自足してきたいと思う
*
p.139
冒頭で「私たちはもしかしたらすれ違ってすらいないのかもしれない」と書いたのは、こういった考えによるものだ。ローコンテクストなコミュニケーションとはエンプティを言葉で埋めていく作業であり、言動の意図や責任の所在が明らかになるため、ギスギスしてしまう危険性も孕んでいる。しかし、ばらばらな個人がばらばらなまま存在できる多様な社会を作っていくためにも、私たちは摩擦や野暮さに耐えながらローコンテクスロなコミュニケーションにシフトしていくべきだと私は考えている。その社会ではおそらく、すれ違いは不幸なものではなくなっているはずなのだ。