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サフォーク州を徒歩で横断した「わたし」は、旅の果てに力尽きて入院する。ノーフォーク州ノリッジにあるその病院は、トマス・ブラウンの頭蓋骨が眠るとされている場所だった。旅の記憶と本の記憶が交じり合い、連想が連想を呼ぶメランコリックな旅行記小説。
旅の話とブッキッシュな歴史の話がシームレスに繋がれ、脱線に次ぐ脱線をくり返していく。特に6章の橋→竜(ボルヘス『幻獣辞典』)→西太后へとモチーフをするする転換させ、あたかも居合わせたかのように西太后の生涯を語ってみせるくだりは、既読のゼーバルト作品からは感じたことのない陽気さがあって新鮮だった。大英帝国の罪を告発するコンラッドとケイスメントの伝記などもあるが、全体的にストレートなユーモアを感じられる小説になっている。ディティールを膨らませて連想を転がしていく語りの楽しさは私にトマス・ブラウンを教えてくれた澁澤にも近く、もっと似ていると思ったのはキアラン・カーソンの傑作『琥珀捕り』だ。
散歩をしながらその風景にまつわる知識を無尽蔵に引きだし、幻想のなかにまで歩いていってしまう、〈フラヌールの文学〉というジャンルがあるのではないかと思う。『変身物語』を下敷きにしてアイルランドとオランダを語る『琥珀捕り』もそうだし、多和田葉子の『百年の散歩』も典型的なものといえるだろう。エッセイとフィクションのあいだに揺蕩う、このジャンルの小説が私は大好きだ。商人と盗っ人の守り神、ヘルメスを水先案内人にした『琥珀捕り』に対し、『土星の環』はタイトル通りサトゥルヌスに導かれ、破壊と喪失をめぐるメランコリックな思索の旅になっている。
カーソンとゼーバルトが大きく異なるのは、『琥珀捕り』は一貫した庶民目線で書かれ、民話や昔話の再構成が大きな縦軸になっているが、『土星の環』は民衆蜂起や革命を取り上げながらも貴族趣味に寄っているところだ。王族や没落貴族に対するシンパシーが、そのまま失われた時代への追憶として語られる。「この世に慣れることができなかった」と呟いたアシュベリー家の人びとへのしっとりとした共感は、どこかナルシスティックな余韻を響かせる。
自己陶酔的に感じてしまうのは、既読の『移民たち』『アウステルリッツ』がほぼ全篇「~~と○○は言うのでした、と××は語った」式の間接話法で語られていたのに対して、本作は一人称の語り手「わたし」の存在感が大きいせいもあると思う。だからといって別に語り手が暑苦しく自説を語るとかではなく、夢と現実のはざまを縫うような語りの術は健在なのだが、行動の主体も回想の主体も「わたし」だということが、ゼーバルト作品のような繊細な世界観ではそれだけでエゴを感じさせてしまうのかもしれない。
『壺葬論』に記された「パトロクロスの骨壺に残された紫色の絹の切れ端」に思いを馳せてはじまった連想の旅は、死者を惑わせないよう美しい絵画に「喪のための黒絹の薄紗」がかけられていく場面で幕を閉じる。他のゼーバルト作品と同じく、やはりこれも喪の旅であり、”既に終わってしまった世界”を悼む葬列だったのである。「この世界は既に終わっている」という滅びの感覚と彼の貴族趣味は無関係ではない。没落貴族��いうのは生きた廃墟にほかならないのだから。