そのうえで著者は、鎌倉仏教の祖師たちのほとんどが比叡山で仏教を学んだことに目を向けます。天台宗の「一仏乗」や、真言宗の「九顕十密」という思想は、最澄や空海の総合主義的な立場を端的に表現しています。鎌倉仏教の祖師たちは、そうした総合的な仏教を学んだうえで、「専修」の道を切り開いたのです。それゆえ、「専修」は「末端の行の一つ」(one of them)ではなく、「全仏教の行を統合する行」(all in one)として理解されなければならないと著者は考えます。こうした立場から、道元の只管打坐、法然・親鸞・一遍の念仏、日蓮の唱題のもつ意味を解説しているところに、本書の特徴があるように思います。