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NHKの『趣味どきっ!』という番組で『こんな一冊に出会いたい 本の道しるべ』という特集が組まれたことがありました。その中の第二回に穂村さんが出演されていて、その内容がとても素敵だったので、ブックガイドというか、読書日記というか、ブックエッセイ出してらっしゃるなら、と手にしました。とても穏やかな語り口の中に、鋭いエッジと、ほどの良い抜け感があって、予測通り楽しい読書になりました。
うーん。一言でいうと、日曜の朝にモーニングコーヒー飲みに行くお供にしたいような、独特の空気感がある本でした。読書そのものの趣味としては、私個人とは重ならない、渋いチョイスのものや、不思議な、うーん。日常の裂け目、見えない裂け目から、非日常を万華鏡のように覗く意識を喚起するものがお好きなように感じました。普段でしたら「ちょっと読まないわ」か、「あら、これ好き」で読んでいくのでしょうに、この本は違いました。
そうですねえ。読まないかも知れない本のお話でも、ずーっと聞いていたいのです。心地良いのですよ。結構ドキッとする内容の本だったり、感想だったりしても、全然嫌な気持ちにならない。万華鏡の向こうの風景が、どんなにシュールでも鮮明でも、「ほら、見ろ」と押さえつけられる感じがないのです。それは、「日々の生活のどこかに、万華鏡の閃きがあったら、好きな時に覗くと良いよ」とそれこそ美味しい珈琲でも飲みながら言ってもらっているような。
ですからまさに、必要な時まで本は待ってくれていたり、出会わないでいたりするのでしょう。裂け目の向こうの住人たちは、向こう側から私を見ていて、くすくすと忍び笑いしてるかも知れません。
「まだ覗きに来ないのかな。読まないのかな?」
「きっとあの人は、動いているけど眠っているんだよ」
「そのうち来るかな、ふふふ」
そんなふうに。普段なら、ブックリスト作るのに一生懸命になりますが、再読して、またこの空気を味わいたいので、あえて書誌データは取りませんでした。あの本なんだっけ?って思ったら、もう一度読んだらいいのです。それにしても穂村さん、古書店巡りの達人ですね。お気に入りの気配がなんとなく予知できる妖精みたい。
良いお店たくさんご存知で、すごいです。一緒にブックハントのお散歩してみたい。古本屋さんの総合サイトは、私も同じところ使ってます。無論Amazonも(笑)でも、実店舗ブックハンターの嗅覚には敵わないかなあ。ここだけの話、PC開けると探してる本が見つかりそうな時は、ピリピリっと言うか、ドキドキっと言うか、独特の感覚があります。するとあっちこっち探し回って、たいてい激安になってるのがまとまって見つかります。皆様はいかがでしょう?
この予知?(苦笑)が、もっとお金持ちになりそうなことに繋がればいいのに、いまのところ、そんなことは起きなさそうです。本が見つかる方が嬉しいのですから、それも仕方ないかしら。ふふふ、ああ、楽しかった!
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読みにくい。今まで穂村氏のエッセイや選歌集を楽しませてもらったが、本書はとても読みにくくひどく疲れてしまった。万能で無いところがまた氏の魅力にも思う。
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美しい言葉を見つける才能はどこにあるんだろう。
そんなことを考えてしまった。
また読みたい本、読み返したくなる本が増えてしまった(^◇^;)
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これはかなりいいブックガイドブック。
いつもの短歌引用スタイルを読書日記にも。
ミステリを楽しんでいるのが嬉しい。
あらゆる本からポエジーを吸い上げて。
半分くらいは興味がある本、10分の1くらいは既読で、穂村弘の読みが読めるのも。
吉原幸子「初恋」の一部
ほほゑみだけは ゆるせなかった
おとなになるなんて つまらないこと
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読書日記って最高じゃないですか?
しかも穂村弘さん!面白いに決まってるし、読みたい本増えるし。
本屋さんを巡って、ページをめくる毎日を送りたい。タイトルも良き!
前職の職場にいらっしゃっていたのは知っていた。(遭遇した事はない)
売り場を活字にしてくれたのが嬉しかった思い出。(収録されている)
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面白い。
どこからでも、いつでも、どんなテンションの時も楽しく読めるブックガイド。
取り上げられている本の半分くらいしか読んだ事がなかったから、これから読もうと思います。
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歌人穂村弘さんの読書日記。ことばを紡ぐ人はどんな本を読んでるの?というシンプルな興味から。ことばのプロの読書日記はすごい。どの本も読みたくなる。風邪で寝込んでるのに松本清張の悪人ばかり出てくるミステリが落ち着くってエピソードに笑ってしまう。題名も翻訳ミステリ小説の台詞から。歌集、詩集、句集もたくさんとりあげられていて楽しい。
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紹介される本と自分の守備範囲が違いすぎて、いったいどこに行けばこれらの作品と出会えるのか見当もつかない。
書評としての実用性はなかったけど、読みものとしてはとても面白かった。
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読書日記って、言ってしまえばこのブクログそのものですよね。
著者と同じようなことを自分もやっているのだという勝手な幸福感。
レビューや感想もそれでいいのだというような記録も救われる。
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穂村さんの詩やエッセイが好きで、普段の想いをどういう言葉選びで書いているのか気になって購入しました。
私自身、読書が本当に好きなのですが、ただ面白いというだけでなく感想を言葉にできたらと思って、参考にしたいなと読みました。が、やはり穂村さん。私とは知識量も甚だ差がありますし、さすがだなあと思いながら、でも気張らずゆるりと読めました。
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穂村さんと同じ本を読んでも違うことが思い浮かぶのだなと当たり前のことをとてもおもしろく感じながら読む。
そして本好きな人の話はおもしろい。
ちょうどこの本を読んでいるときに、大昔、イベントに来ていただいた時に作って、もらって下さった似顔絵の消しゴムハンコを今もたまに使ってくださっているらしいという話がもたらされる。懐かしく嬉しい。
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読書日記やガイドブックや書評本を読む時、まず目次からわくわくする。
どんな本を読んでいるのかな?
私が読んだ本はどう紹介されているかな?
今回、目次を見て、あまりの既読本の少なさに驚愕した。
歌人である彼が歌集とか句集とか詩集を紹介するのは当然で、この辺は想定内。
日本の近代文学もほぼ読んでいないので、ここも想定内。
だけど、ニアミスに愕然としてしまったのだ。
「そっちか…」
例えば花輪和一だとしたら、普通は『刑務所の中』だろう。
もちろん私もこちらは読んだ。
だけど、穂村弘が紹介するのは『刑務所の前』の方なのだ。
あづまひでおの『失踪日記』(読んだ)ではなく、『失踪日記2』の方なのだ。
読み込みの浅さが悔やまれる。
既読本だとしても、油断はできない。
高野文子の『ドミトリーともきんす』を、私は科学者の目から見た現実世界の興味深さが面白くて、文系の人も面白く読める理系本のブックガイドとしても重宝しているのだけど、穂村弘のこの本の興味はそんなところにはない。
”それは普段は小説しか読まない人が詩を読む時の感覚に似ていると思う。同じ日本語で書かれているのに、文字の量、意味の密度、言葉と言葉の結びつき方、改行の意図などのルールが小説とは違っていて、磁石を持たずに別世界に迷い込んだ感じがするだろう。戸惑いと緊張を覚えずにいられないのだ。”
それ、私のことですか?というのはおいといて、高野文子の作品を読む時にそのような新鮮な感覚を覚えるというのだ。
同じ本を読んでも、感じる部分が違う。捉え方が違う。
だから面白いのだ、この手の本は。
穂村弘の読書日記をもっと面白く読むためには、私がより詩に俳句に短歌に近づけばよいということがわかった。
…ハードル高いな。
直接この本の感想ではないけれど、阿久悠の『なぜか売れなかったぼくの愛しい歌』の引用から。
”蒸気機関車を、日本を豊かにするために汗みどろで働いた男たちだと考えるとよくわかるだろう。その人たちが、はいご苦労さまで捨てられていいわけがない。
汗をかかない、走らない、力を出さない、汚れない、これだけを求める人間がすべての社会が、活力を発するわけがないのである。不細工に、不細工に、働くとは、生きるとは、そういうことなのである。”
何十年も前から職場で進められてきた、効率化という名前のリストラ。
最近では生活のすべてに、無駄を排し、コスパやタイパを重視し、余白を切り捨ててきた結果が、日本の現状なのだと思う。
あんまりキリキリ絞り切ったら、いざという時の余力がなくなるのでは?と以前から私は思っていたけど(職場でも言ってるけど)、いざという時の余力どころか、今は必要最低限の力すら残っていないのではないかというくらい青息吐息の現実。
無駄は嫌いだけど、余裕がないのも嫌だ。
ほどほどの余裕の中で締めたり緩めたりを自分の判断でできないで、何が一流国だろう。
そして、過去の経緯を大事にしない者は、未��からも受け入れられないのだと思う。
勝ち組のつもりで上へ上へ登ったその足は、今何かを踏みしめているのだろうか。
ってなことを、阿久悠の文を読んで思ったりしたのだけど、それにしても阿久悠、文章下手すぎないか?
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著者のエッセイや書評を読むと、本が付箋だらけになる。今回一番、ああそうだそうだよ、あの感覚は言葉にすればこういうことだったんだ!と思ったのは、次のくだり。
「『おれは鉄平』を読んでいると、座禅や瞑想をしている時よりも(したことないけど)自分の心が無になっているような気がする。純粋な面白さの中に〈私〉が溶けてしまった感覚である」
そう、夢中で本を読んでいるときって、「私」は「溶けて」しまっていて、四六時中自分にべったりと張り付いている自意識から解放されている。本を読まずにいられないのには、その快感を求めているという面が確かにある。
また、「命や神の問題は、本当は人間にとっての最大の関心事なのだ。でも、とても歯が立たない。だから大人になるにつれて、人は恋愛や仕事やスポーツや料理や旅や洋服に関心を移す」とあるが、ここまではまあ誰かが言っていそうなことではある。しかしその後の言葉「それらを鏡のように使って、命や神の姿をうっすらと映すのだ」には参った。人の営みの本質をこんな軽やかに言い表しているものって、他にもあるのだろうか。
自分はファンシーなものが苦手なのだが、言われてみれば、このように感じるからなのかもしれない。
「子供向けのイラストレーションやぬいぐるみなどの多くは、実物よりも可愛くデフォルメされる。可愛いデフォルメとは、つまり死の隠蔽ではないのか。生物は皆、次の瞬間にまったく無根拠な死に襲われる可能性がある。にも拘わらず、それがないことにされるようで落ち着かない」
著者は現実には著名な歌人で、著書もたくさんある。でもなぜか、「不器用で繊細」「孤独」の側の人のように感じさせるものがある。そこが不思議。以下はすべて抜き書き。
・実際には、お洒落でお金持ちの歌人だっているはずだが、そのような〈私〉が作中にそのまま現れることはまずない。順風満帆な人生の勝者は共感されにくいからだ。従って、短歌の本を読むことには、不器用で繊細な負け犬の呟きを楽しむ、という一面がある。
・「人魚」(染野太郎、角川書店)という歌集を読んだ。頁を開くと、孤独と焦燥と無力を感じさせる独白世界が広がっていた。でも、というか、だからこそ楽しめた。他人の孤独感を味わうと、心が安らぐのは何故だろう。
・「ふつう」との戦いは「悪」との戦いよりもずっと厳しい。「ふつう」との戦いにおいては、いつの間にか、こちらが「悪」にされてしまうからだ。
・そもそも「ふつう」からズレた世界像とは、何のために存在するのだろう。それは無数に分岐する未来の可能性に、我々が種として対応するための準備ではないか。「ふつう」でない世界像の持ち主は「宇宙人」というよりは「未来人」なのだ。一方、「ふつう」への同調圧力とは、均一化された現在への過剰適応であり、状況がいい時は効率的に作用する。しかし、状況が変化したり、限界に達したりした時、危険なことになる。現在の流れに固執して生き延びようとする「ふつう」は、まだ見ぬ未来の価値観を怖れ、生理的に強く反発する。そして、自分たちの未来の命綱を自らの手��切ろうとするのだ。
・(ヒグチユウコ「すきになったら」について)「この言葉からは、女の子がワニに食べられるイメージが浮かぶ。では、これは愛に対するアイロニーなのか。そうではないだろう。好きになる、ということの中に本質的に存在する怖さが、正確に表現されているのだ。
・(松本清張を風邪の時読んで)「性悪説で統一された世界に浸っていると心が落ち着く。登場人物たちが自らの欲望に従って動いているのを見るとほっとする。彼らの中に善悪が不安定に同居していたら、その生々しいランダム感に堪えられない。体調の悪い時に、そういうのは読みたくない。現実の感触を思い出すから。その意味では、松本清張の世界がリアルという意見には賛成できない。
・ジャンルを問わず、ひとつの枠組みを前提として受け入れた表現は、内容が優良であればあるほど既存の価値観を強化するだけで、なんというか、面白いけど退屈ということがあるんじゃないか。