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2021年の本とは思えない
2022/01/23 12:42
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:塩トマトの味 - この投稿者のレビュー一覧を見る
タイトルに惹かれて買ったものの、素人の自分でさえそれは間違っているのでは?と感じる部分が多く、著者による徳川幕府の政策への評価が妥当とは思えなかった。
御手伝普請の話で「財政負担を免れる巧妙な手法であり、それは江戸開府とともにはじまる」として大名がその負担に苦しめられたとしているが、御手伝普請は豊臣秀吉の時代から既に行われているため、別に江戸幕府が始めたわけではないのでは?
改鋳政策の話にしても、元禄の改鋳に対して「商品経済の発展を促した面もあったが、インフレのため物価が上昇して庶民の生活が苦しくなったのもまた事実」として、改鋳政策を悪いものとして強調して記述している。それ自体は改鋳に対する著者のスタンスとして見てもいいのだけれど、貨幣の質を落とす改鋳を悪として話を進めているためか、文政の改鋳に対して「元禄・宝永の改鋳以来、3度目となる改鋳を断行した」と書いており、元文の改鋳の存在を本書では完全に無視している。
綱吉が生類憐れみの令を出した理由に関しても、戌年生まれを絡めた隆光の勧めを理由としており、2021年に書かれた本とはとても思えない古さを感じる。
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国の経済を握るのは、大きくとも有限で、しかも端から腐って崩れるパイをいかに長く保たせるかの創意工夫の連続みたいだなと思いました。
貨幣を鋳造できはするけど、それも打出の小槌ではないようだし。
今はパイは世界規模の大きさだけど、やってることは根本的に変わってないんだろうな。
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財政難に政治家がやるべきこと
徳川幕府3代将軍までの潤沢な財源も備蓄が瞬く間に減り財政難に、それ以降幕府は再建の見通しがなかったことが明確だ。特に幕末における外国と借款までするという事実は、大政奉還(幕府返上)がもはややもう得ない状況であったことが頷ける。「歴史の繰り返し」は、質素倹約等で財政難を逃れるとたちまち資金難になる様は現代の政治家等の思考と変わらないのではないかと思える。収入構築が全くできない、しかも浪費はできる政治家と収入と収益に苦労しながら年々増え続ける税金を納める国民の姿に見えてしまう。
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徳川幕府は15代将軍・250年以上も続きました。武力で日本を統一した徳川家ですが、時代が経過するにつれて、資金繰りが苦しくなってきたようです。
中学や高校の頃、江戸時代の後半にもなると、金の含有量を減らした価値の低い貨幣を発行したと習って、これは良くないことだと思っていましたが、現代の政府も「量的緩和」と称して同じことをやっているのではないでしょうか。
更に貨幣価値を戻した政策は素晴らしいと当時は思っていましたが、言い換えれば貨幣流通量を減らして緊縮財政をして景気を悪い方向へ持っていたことになったことも今になって理解できてきました。江戸時代も中盤以降になると資金繰りは色々と苦労していた様子がこの本を通して少し理解ができたと思います。
以下は気になったポイントです。
・約250万石にも及んだ徳川家の所領のうち、その財源となる直轄領は100万石ほどで残りは家臣たちに分け与えられた。全国トップの所領を誇ったわけだが、天下人たる秀吉の直轄領はこの数値を上回る(220万石)当時の全国の石高は約1850万石なので12%にあたる。さらに全国の金山、銀山を支配下においていた(p11)
・関ヶ原の戦いにおいて豊臣家直轄領の削減分を含めると、家康に没収された所領は約780万石に及んだ、これは40%に相当する。このうち徳川家の直轄領に135万石を組み入れた、5代将軍の元禄期には約400万石に達した(p12)
・幕府直轄都市は、日光・下田・駿府・山田(伊勢)・京都・伏見・奈良・堺・大坂・長崎、鉱山は、院内銀山(秋田)・佐渡相川金銀山・足尾銅山・伊豆土肥金山・駿河安倍金山・但馬生野銀山・石見大森銀山(p16)
・幕府は地方行政官たる代官(役高150俵)あるいは郡代(400俵)を現地に派遣することで幕領の80%以上を支配した、郡代は関東・飛騨・美濃・西国郡代で、大半の幕僚支配は代官が行った(p34)
・幕府は金貨・銀貨・銭貨という3種類の通貨を鋳造することで経費を差し引いた分を歳入(財源)にあてた(p42)元禄13年(1700)幕府は金1両=銀60匁=銭4貫(4000文)の相場を公定したが実際の相場は変動していた、幕府が鋳造した通貨は、江戸城・大阪城・二条城・駿府城・甲府城・佐渡奉行所などに蓄えられた(p50)
・幕府は鎖国という形で制限をした、外様大名が貿易で利益を挙げて富強化するのを恐れた、例外として対馬藩を介した朝鮮との貿易、薩摩藩を介した琉球との貿易は容認した(p56)
・赤字財政に転落した(4代将軍頃)ことで勘定所は新たな財源を通貨の改鋳に求めた(p59)明暦の大火(1657正月)では、本丸と天守が焼け落ち、二の丸・三の丸もほとんど消失、西の丸呑みが焼け残った。江戸の6割が消失、焼死者も10万人を超えた。この理由として江戸の気象環境がある、春先は南西風・冬は北西風、11月から5月は乾燥する(p63)
・改鋳差益により増収(出目)できたが、6代将軍家宣を補佐した儒学者・新井白石は金銀の含有率を元に戻す政策を断行する、金銀貨の質を落とすことは鋳造者たる幕府の威信を低下さ���るという考え方を持っていた(p172)しかし文政元年幕府は再び質を落とす改鋳を行う、水野忠成である、質を落とした二分金を新たに登場させた(p173)これにより財政破綻の危機からは脱したが、インフレが江戸を襲った(p174)
・下関戦争の賠償金、長州藩は75万両(1両=4ドルとして約750億円)を約束したが、幕府が支払う羽目になった。幕府が朝廷に約束した攘夷の実行に従っただけという長州藩の言い分が通ったので・幕府は6回に分けて支払うが支払い延期を認める代わりにイギリスは1866年5月に関税率を20%から5%に引き下げる改税約書に締結させた。関税収入が1864年の174万両から100万両を超える大金を失ったことになった(p204)
・第二次長州征伐において出陣した旗本や御家人は大阪城で1年間足止めされた格好であったが、滞在中の手当だけで毎月18万両かかった、開戦前に300万両支出していたが、長州再征で最終的には437万両に及んだ(p208)
2022年5月5日作成