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( ..)φメモメモ
人間の価値が生産性で決まる世界に生きている。成果ばかりに価値を置くシステム内では芸術が危うくなるという事実。それは文化に関わることでもある。
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本書は何もしないことによって、リフレッシュして仕事に戻ったり、生産性を高めるために備えるのではなく、現在「生産的」だと認識しているものを疑ってかかることを主張する図書。そのため思索的な内容であり、何もしないでいよう…という社会への拒絶の図書ではない。そんな本も面白いけど…。
生産的と認識されているものばかりに注意を向けるのではなく、別のことに注意を向けることによって、自分の社会、世界への接点は変わり得る。
何が有用かどうかなんてわかるもんか、立場、状況、環境によって変わり、有用かどうかの評価は不能という視点は確かにそうだけど、働いていると忘れちゃう…。注意をそらして抵抗したい。
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アテンションエコノミーに踊らされている時代で、そこから距離をおくということについては大いに賛成である。ただ本書に出てくる内容はあっちに行ったりこっちに行ったりで、ひとつのメッセージのためにグダグダ回りくどいことを挙げていると感じられた。思想的には養老孟司氏と近いものを感じたが、養老氏の著書の方がずっと分かりやすい。
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以前から気になっており早川の年末セールで半額になっていたので読んだ。タイトルからすると「何もしない」ためのハウツー本かと思われるかもしれない。しかし、そうではなく「何もしない」ことはどういうことか?注意経済との付き合い方、それに対する論考などをガッツリ議論している1冊で興味深かった。
本著における「何もしない」とは文字どおり「何もしない」わけではなく「生産性へ寄与するための何か」や「資本主義に巻き取られてしまう何か」を「しない」ということを大まかには言っている。著者が薔薇の咲く公園でバードウオッチングに勤しみながら思慮を深めていく導入はエッセイのようで読みやすかった。公共空間は企業から干渉されない貴重な空間であり公園を大切にしようという話は、最近公園によく行くようになってうっすら感じていたので、著書と公園の付き合い方は腑に落ちた。
注意経済からの離脱は当然として、その結論に到達するまでの大量の論考が載っている。色んな角度から考えることで付け焼き刃ではなく根本治癒を目指しているような感じ。著者が繰り返し主張していたのは注意の向け方の重要性だった。注意を何かに向けることは時間をどのように使うかに直結し、その注意を広告で金にしていくのがソーシャルメディアを運営する企業である。私たちは自分の意志で何を見て、何を聞くのか決定することが重要であり、それはコンテクストの存在しないただの情報の羅列ではなくもっと根源的なもの(著者の場合は自然だったが)に注意を払うべきであると主張している。我々はそのランダム性に中毒になりつつ恩恵として高速で種々雑多な情報共有の手段を得ているわけだけど、そういった事実に対して意識的にならないと食い物にされているだけなんだなぁと思う。育児、本を読む、音楽を聞くなど自分の人生にとって大切なことに注意を払いたい。注意が散漫になっていることへの痛烈な一文が刺さった。
*集団的主体が「注意を向ける」個人の能力を反映し、それに依拠するのであれば、行動が求められるこの時代に注意散漫でいたらどうやら(集団レベルでは)死活問題になりそうだ。意識を集中できず、自らとコミュニケーションがとれない社会的身体は、考えたり行動したりできない人間のようなものだ。*
ソーシャルメディアのコンテクストの失われ方や、時の経過と共に人間は変わるというのに変化が許容されないであるとか、従来の人間らしさが失われている現状を嘆いていた。なかでもSNS時代の到来を予見していたようなメロウィッツの思考実験が紹介されており、それが興味深かった。具体的には家族、友人のような特定のオーディエンスと個別にやり取りする際と、家族、友人などが一堂に介してオーディエンス全体でやり取りする際のコミュニケーションの差異に関する実験で、それが今のSNSにピッタリ当てはまっている。つまり全体を意識して当たりさわりないことを話すのか、特定のメンバーに向けて本音のようなことを話すのか。以前はSNSが囲われた世界だったのに対して今はパブリックな場所になった。それゆえの地獄は数多く見たのでかなり納得した。
成長、進展することがすべてであると単純化し、その前提条件にある維持やケアについて顧みられていないことへの言及がありそれには納得した。(訳者あとがきにもあるように「ケアの倫理とエンパワメント」とシンクロする部分が大いにあった。)そういった雰囲気下で「何もしない」こと、逆に言えば停滞しているように見えても自分にとって意味がある、楽しいことを追求するために「何かをする」ことが注意経済全盛期の今もっとも大切なことなのだと思うので惑わされないように訓練したい。
*注意を向けるのをやめるという営みは、本来は何よりも先に心のなかでなされるものだ。その場合、必要となるのは、何かときっぱり決別することではなく、継続的なトレーニングだ。それは、注意を向けるのをやめるだけでなく、注意を別の場所に向けて、拡大増幅させ、その鋭さに磨きをかける能力を身につけるためのトレーニングだ。*
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FacebookやTwitterをはじめとするSNSの台頭で、時間は経済的な価値を生み、著者が主張する「注意経済」の中で我々は生きている。日常生活で洪水のような情報量に触れ、断片的に物事や他人を判断し、結果的に社会の分断を生み出していると著者は警報を鳴らす。
Amazonでは購入履歴から欲しいものリストがレコメンドされ、Netflixでもオススメコンテンツが並ぶように、身の回りの選択がすべて予測可能になってきた。しかし、著者が言うように、自分の望むものは全てサービス提供側が把握しているのは大変便利だが、自分の選択肢の外側を知らずに生きていくことと同じだ。そうして、完全に予測可能な世界で生きていくことが、楽しい人生と言えるのだろうか、と本書を読んで考えされた。
SNSのタイムラインに慣れ過ぎて、瞬時に情報を手に入る一方で、アイコンの向こう側の人も断片的に理解してしまう。当たり前だが、どんな人もタイミングや状況によって、考えや発言は変わるはずなのに、SNSではスナップショットのように投稿を見てしまうので、その一瞬の投稿がその人の全てに思えてしまう。
こうした、予測可能性、瞬時の情報提供といった注意経済から反抗するためにも、あえてゆっくりと時間を過ごすことが大事だと思った