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紹介されている内容がどれもこれも胡散臭いと思ってしまったけど、新しい技術が生まれる直前というのはこんな感じなのかなとも思った。
人工子宮の件、女性はキャリアと家庭のすべてを手に入れるのはほぼ不可能という認識は全世界共通なんだなと実感させられた。
どんなにすてきな技術でも、使われ方までは指定できないところが怖い。
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「性愛」「肉食」「生殖」「自死」という重たい議題を
テクノロジーを軸に展開。
性愛=セックスロボット
肉食=培養肉
生殖=妊娠ビジネス
自死=安楽死
どれも倫理感とテクノロジーの狭間で
僕たちが「?」となるテーマ。
取材をもととした事実が列挙され
いろいろ考えさせられる。
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興味のあるテーマなのでどの章もとても面白かった。
が、著者が個人的な自意見や感情を剥き出しにしていたりインタビュー中に喧嘩腰になっていたりする点が読んでいて少し気になった。
読者としては最新の未知なるテクノロジーの情報を得たくて読んでいるので、著者が思うところがあってももう少しジャーナリストとしてフラットな目線で、今後起こりうる様々な可能性や危険性を語ってほしかった。
テクノロジーは人間としての機能や価値を殺すかもしれないが、それにより救われる人も解決される問題も数知れない。
社会が純粋に求めているものと企業が企てている意図が違うこともわかった上で、今までになかった新しい技術というのは恩恵もあるし当然犠牲もあるもの。
それでもこれから起きるか起こらないか分からない問題にばかり目を向けて否定的になったり悲観的になるよりも、私は新しいテクノロジーが多くのものを救い・解決するかもしれないという可能性と希望の方に期待していたい。
そしてそんなテクノロジーを生み出している技術者や企業を応援していきたい。
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最先端テクノロジーは人間を幸福にするのか。自称「懐疑的なひねくれもの」である女性ジャーナリストが取材するテクノロジーの世界には、人間の見栄、虚栄心、エゴ、支配欲が充満している。
テクノロジーをフェミニズムの問題として読める新鮮な読書だった。
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最新のテクノロジーを詳しく知れると思いながら読んだけど著者の私情がふんだんに入っていて正直邪魔だった。しかも批判的…
セックスロボット、人工肉、人口妊娠、自発的な死を取り上げている。
テクノローと倫理がテーマだった。でも著者に興味はないんだよななければ良かったな。
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読めなかった。
読み始めてすぐ挫折。
翻訳本なのもあるけど、著者がその道の人と会話しているのが延々と続くのだけど、なんというか会話が薄くてだるい。
各人が言いたいことを言ってるだけで、なんというかキャッチーなタイトルで惹きつけた真面目な話かと思いきや、タイトルどおりのエグいテーマをエグさそのままに延々と喋ってるという印象。
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読むの結構時間かかった
興味を引くタイトルではあるけど、筆者の批判の仕方がどこか揚げ足取りだったり、インタビューからの発展(考察)がないから読んでいても退屈かも
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びっくりした。著者、失礼だし考察もろくにしてない。調べて好みを述べているだけ。書かれている事象は面白い。
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セックスロボット、人造肉、人工子宮、自殺装置についての最新テクノロジーを追った四章。
著者の考えはともかく、いろいろなテクノロジーが紹介されていておもしろかった。
著者はなぜかどれに対しても批判的。
もしかしたら問題点を見つけるために、あえて否定的な目でみてるのか?
そのせいでどのインタビューも開発者やその技術を求める人に寄り添う気持ちがみえなくて、発言が失礼。
セックスロボット:著者(女性)の偏見がすごい。
心を通わせて肌に触れ合うことが最上の幸福だと断言する。
モフモフとかもいいと思うのに、なんで自分の性癖を全ての人に共通すると思っているのか…。
ロボットを恋人にしようとする人は女性をモノ化してコントロールしようとしていると言うけれど、本物の女性をそんなふうに扱えないからロボットを求めるんだし、男性型ロボットもあるし、女性型が圧倒的に多いのは裸体画も女性を描いたものが圧倒的に多いように女性の体の方が審美的に見て美しいからだと思う。
フェミニズムの問題にするのはどうかと思う。
人造肉:牛肉をつくる際の非効率性がすごすぎて、もう肉食に未来はないと絶望的な気持ちになった…。
ここには出てきてないけど、昆虫食が推奨されるのも仕方ないのか…。
とにかく地球がヤバイ…
人工子宮:フェミニストっぽい著者なので女性が妊娠出産から解放されるこのテクノロジーには一番理解を示していた。
もともとの目的としては、早産で子宮にとどまっていられなかった胎児をバイオバッグで胎内と同じ状態に保って育てることらしい。
中絶できる期間というのは生まれても生存不可能な週数で決められているので、バイオバッグができれば妊娠をやめることと胎児を殺すことを分離することになる、というのが確かにいろんな問題に波及しそう。
あと、生活態度などに問題のある妊婦から胎児をとりあげる動きが進むはずだという意見もおもしろかった。
もしもバイオバッグによって女性が胎児を育てなくてもよくなれば、社会、というか人の在り方は完全に変わってしまうだろう。
妊娠出産を経験しなくてよくなったら、生理は完全に不要なものになってしまう。そしたら、あんな不快なものを約40年も毎月我慢し続けるなんてありえないから、生理がこないように薬を飲み続けるか子宮を取るかすることになるだろう。それって、めちゃくちゃ負担が大きい。女性=はずれクジってなってしまうかも…。
自殺装置:著者は安楽死には反対っぽい。
死ぬことより、その辛さのもととなる、例えば世話をしてもらって人に迷惑をかけることへの苦痛、などについて考えるべきだという。
こういうことを言うのは、生きてるだけで素晴らしいと思ってる人で、そもそも生きることに価値を感じない人だっているのに。
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性、食、生、死の形が今後多様化していくのは間違いないと思うし、その多様化を進めていくのは本書に書かれているような人々なのだろうけど…なんとなく拒絶感を感じてしまう…著者が否定的だからなのか、本能的なものなのか…
何十年、何百年後には書かれているような技術が普及してる未来が本当にくるのかしら…?
本書の著者は女性だけど、同じテーマで男性が取材・執筆したらまた少し違う景色が見えてきそう。
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倫理の議論が追いついていないほどの超最先端テクノロジーに対して、フェミニズムの視点と生身の人間を最上と定義する著者がインタビューをする内容。質問内容にも筆者の考え方が色濃く出ている。
最新技術はどれもSFのような夢のある発明ばかりで、読んでいてワクワクする。倫理的な議論の余地も存在するが、超最先端テクノロジーが好きな人にはおすすめできる。
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人間のもつ欲求に対し、科学がどう超克していくかという話なのだけれども、大きな矛盾にどんどんぶち当たって、なんというか欲求の本質のような部分が科学によってむき出しになってしまうのを目の当たりにした。
それぞれの発明に対し、著者は一貫して批判的なスタンスを崩さない(クリーンミートの冒頭だけ、期待を持っていたかもしれない。)が、そのスタンスが健全な猜疑心に基づくものであって、読んでいて心地よい。
どんな問題も、これがすべての解であるとするのは危険だと思う。この本の中に登場する人々は程度の差こそあれ、自分がいま取り組んでいる問題に解があると信じている人々だと感じた。それが、テクノロジーへの危険性を思い起こさせる大きな要因になっている気がする。
引用もしたが、セックスロボットが新しい奴隷を作り出しているという指摘や、肉食が究極の支配欲の発露であるという考えは非常に刺激的だった。
死については何とも答えが出ないが、少なくともそれをビジネスにしようとする人々には賛成しかねる。
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【感想】
セクサロイド、人造肉、人工子宮、安楽死。倫理的なインパクトがあまりに大きいテクノロジーであっても、科学は止まらない。人間のあり方そのものを変えてしまうような技術の研究は、今この瞬間にも進められている。研究者たちは「我々の技術が世界を変える」と信じているが、多くは投資家から資金を調達するための誇大広告である。その技術が世に出た後の影響を考えないまま見切り発車する場合も多く、結果、不道徳だとして人々の賛同が得られないまま潰えるケースも珍しくない。
しかし実際、そうした最先端技術はどのぐらい実用化が進んでおり、科学者たちはどのようなスタンスで自らのテクノロジーを社会に統合しようとしているのか?本書『セックスロボットと人造肉』は、そのような人間の倫理を超えた科学技術が孕む問題について解き明かす一冊だ。
本書のメインテーマは「性」「食」「生」「死」の4つなのだが、扱う議題がセンシティブなだけに、「生命倫理やジェンダーの“正しい”あり方とは何か」といった、回答困難な問いで溢れている。生命を左右する医療技術がごく身近になってしまえば、私たちの「人間性」に抜本的な変化が起こることは避けられない。未来の出来事について熟慮し、適切な倫理観を土台から構築できるのは、技術が発達しきっていない今のうちだからこそ可能なことである。
例えば「社会的代理出産」にまつわる倫理について。社会的代理出産とは、自分の遺伝子を使って他人に子どもを産んでもらい、産まれた子どもを引き取ることだ。代理母はたいてい貧しい女性であり、自分の子宮を10か月にわたって捧げ、産んだ子どもを依頼者に渡して金銭を得る、という仕組みで成り立っている。
依頼者にはゲイカップルや不妊女性もいるのだが、多くが「自分にも子宮がついている」女性だ。彼女たちの動機は「妊娠したら仕事を失う」「今後のキャリアのためにも今妊娠するわけにはいかない」「モデルで女優もしているため、妊娠で身体が醜くなるのが嫌だ」といった、仕事上の障害によるものが多い。
この話だけを聞くと、「自分がつらい思いをして産みたくないから、他人に苦労を肩代わりさせている」と思えてしまうが、そう単純ではない。この問題を引き起こしているのは、「資本主義/男女平等主義の現代社会において、妊娠や出産のかたちがもはや機能しないところまできている」という事実にあるのだ。
政府や雇用主は女性の妊娠・出産に配慮すべきだと繰り返し言われているが、実際問題それは不可能に近い。女性がキャリアを構築するのに最も重要な数年間は、出産適齢期とぴったり一致する。かつ子どもができた場合であっても、女性は10か月にわたって身体的困難を強いられるが、男性はそうした身体の変化とは無縁だ。両者を仕事上同条件で扱い、同じ基準で評価するのは無理な話だ。しかし、現代社会は女性に「キャリアウーマンであり、母親でもあれ」と要求してくる。
すると、ここで女性たちの価値観がシフトする。つまり、「労働の世界の論理とキャリアを築くまでの道はすでに定着していて変えられないものなので、解決策は職場や生産手段ではなく、生殖手段のほうを変えることだ」という規範が生まれる。
「人工子宮」「代理出産」という言葉だけ聞けば非人道的だと感じるかもしれないが、かといって社会制度の方にメスを入れようとも、出生率の低下は止まらない。であるならば、彼女たちが選択する「出産の委託」は、あながち狂った価値観とは言えないのではないだろうか。
そして、私たちは依頼者のモラルだけではなく、代わりに「体が醜くなる」ことを引き受ける代理母についても考えを巡らせる必要がある。加えて、代理出産が一般的になった際の「世の中」についても考慮する必要がある。
代理母たちの子宮が簡単にレンタルされるということは、貧富の差がこれまで以上に拡大されることにならないか?「お腹を痛めて産んだ」という経験は、育児において必要不可欠なのか?そのうち、本物の子宮を使う「自然な」出産自体が、無責任で無謀な選択とみなされるようになるのではないか?
答えが出ない問題だからこそ、慎重にならざるを得ない。技術は私たちを便利にさせるが、幸せにさせるとは限らないのだから。
――私たちがセックス、食べ物、誕生、死をテクノロジーに委ねてしまえば、相手に対する共感、不完全な自分、主体性、存在の不確実性といったものを失う危険がある。要するに、人間性を失うリスクがあるのだ。たとえテクノロジーがこのうえなく尊い志――地球を救おう!小さな赤ちゃんの命を守ろう!孤独な人に恋人を与えよう!病人を苦しみから解放しよう!――のもとで開発されていても、生まれた発明が誰の手に渡り、その人たちがどんな目的でそれらを利用し、最終的に私たちをどこに導くか、知るすべはない。私たちはテクノロジーが未知のものから自分を守ってくれると期待するが、それは同時に、また多くの未知なるものをも生み出すのだ。
――これまでに紹介した発明は、どれも現実的な解決策ではない。問題回避の手段でしかないのだ。なぜ人は自主性を持たないパートナーをほしがるのか、子どもがほしいのに妊娠したがらないのか、地球や体に害を及ぼす肉を大量に食べたがるのか、自らの死を完全にコントロールしたがるのか。その理由を掘り下げもせず、私が会った人たちは人間が抱いて当然の不安から目をそらすための手段を売りつけようとしている。彼らの手を借りたところで、私たちは解放されるわけではなく、振り出しから動かないままだ。彼らはこうした問題を政治と無関係にし、あいまいにし、存在しないものとして扱う。彼らは私たちに、自分自身と深く向き合うことなく生きる言い訳を与えているのである。
――――――――――――――――――――――――――――――
【まとめ】
1 セックスロボットと従順なパートナー
カリフォルニア州にあるアビス・クリエーションズ社。超リアルなセックスドールである「リアルドール」のメーカーとして世界にその名を知られている。
アビス・クリエーションズで現在開発中の創造物は「ハーモニー」だ。ハーモニーは命を吹き込まれ、人格を持ち、動き、話し、記憶することができる。つまりセックスロボットである。
創設者のマットは言う。「僕の目的は、簡単に言えば人を幸せにすることだ。���の中には、どういうわけかスタンダードとされる方法で誰かと恋愛関係を築くのが難しい人たちが大勢いる。重要なのは、そういう人たちに親密な人間関係に近いもの、つまり幻想のパートナーを提供することなんだ」
ハーモニーの人格には20の異なる要素があり、オーナーは興味を惹かれる5~6種類の要素を選んで組み合わせ、それがAIのベースになる。たとえば優しくて無邪気で、シャイで不安定で嫉妬深い性格にもできるし、知的で話し好き、ユーモアに満ちて甲斐甲斐しく、陽気な性格にもできる。それぞれの要素の程度は好みに合わせて変えられる。ジョークも言えるし、シェークスピアを引用することもできる。お望みならば音楽や映画や本について議論することだって可能だ。
もはやそれは「超リアルなセックスドール」の域を超えている。実際に人間と同様の関係を構築できそうな、人工的に作られたパートナーだ。人工知能によってハーモニーは、現在のセックス産業が提供するほかの製品では埋めようのないニッチを埋めることができるだろう。会話し、学習し、持ち主の声に反応することで、彼女はセックストイのみならず、パートナーの役目を果たすよう作られている。
コンピューター・サイエンティストのデイヴィッド・レヴィ博士は、2007年の著書『ロボットとの愛と性』において、所有しようが時間単位のレンタルだろうが、ロボット売春婦は人間社会にとって必要不可欠な存在になるのはまちがいないと結論づけている。
とりわけ人々を刺激したのが、「人工知能の進化のペースを考えれば、人間とロボットの結婚が2050年には社会的にも法的にも認められるようになるだろう」という彼の予測だった。
レヴィはセックスロボットを、セックス以外のロボット産業をも活気づける、巨大なドル箱になる可能性があると考えていた。彼の言うことももっともである――セックスは技術革新を牽引するのだ。オンライン・ポルノはインターネットの成長を促進し、もともと軍事的な目的で開発されオタクや学者だけのものだったインターネットは、いまや人類に必須のインフラとなった。ポルノがモチベーションとなって動画のストリーミング配信が発展し、オンラインのクレジットカード取引の技術革新が進み、帯域幅が拡張したのだ。
ポルノが今日のインターネットを発展させたのとまったく同じように、セックス・ヒューマノイドの開発はすでにロボティクスの進歩を加速させている。
男には大なり小なり性的欲求が存在し、それに伴う欲求不満が攻撃性に転じるのは危険なことだ。そして、セックスロボットがその解決策になると考えているのはひとりやふたりだけではない。『ニューヨーク・タイムズ』紙や『スペクテイター』誌も、将来セックスロボットが不本意な禁欲者の不満を鎮めて性欲を満たすことになれば、これ以上彼らが人々に危害を加えることはないだろうと示唆しているのだ。セックスロボットは「性の再分配」を可能にするとさえ言われている。つまり、セックスは人間に与えられた当然の権利であり、ロボットがあれば、セックスできない男たちにとって人生はもうみじめなほど不公平なものでなくなる、というわけだ。
しかし、セックスロボットは解決策ではなく、新たな問題が生まれる前兆である可能性のほうが高い。セ
ックスロボットの開発は、インセル文化やディープフェイク・ポルノの発展と時を同じくして進められてきた。
もっと極端な話をすれば、相手がセックスロボットなら、男性は完全な支配権をもつことができる。つまり、セックスロボットは、自主性のないパートナーを手に入れる機会を、それをいちばん欲しがる男性に与えることになるのだ。願望や自由意志といった面倒なものを持たず、自分のほうが絶対的に優位に立つことができるパートナー。ポルノスターに似ているが、何をしてもえずきもせず嘔吐もしない、泣きもしないパートナー。一部の男性にとって、それは人間の女性のアップグレード版だろう。けしてノーと言わないセックスロボットは、そうした欲望を満たすものなのであって、欲望そのものを消し去るわけではない。
現状、セックスロボットに反対する意見の多くは、主に女性に対する影響に目を向けている。だが、セックスロボットの発展は、やがて私たちみんなに影響を及ぼすだろう。問題は女性の性的対象化だけではない。男性のレイプ妄想を実行に移し、女性を蔑視し暴力をふるう機会を与えることだけでもない――たしかにそうした理由でセックスロボットをほしがる男性も少しはいるかもしれないが。考えなければならないのは、ロボットと関係を築くことができるようになったとき、「人間らしさ」がどう変化するのかということだ。セックスロボットは、フェミニズムの問題であるのと同様に、ヒューマニズムの問題でもあるのだ。
持ち主を喜ばせるためだけに存在しているパートナー、親族も、生理周期も、排泄も、心の傷も、自立心もなく、いつでも自分の求めに応じるパートナーをもつことが可能になったら。いっさいの妥協もなく、どちらかひとりだけの欲望ばかりが満たされる。理想の性的関係をもつことが可能になったら、当然、他者と互いに尊重し合う能力は衰えていくにちがいない。共感が人間関係の必須要件でなくなれば、それは努力して身につけなければならないスキルになる。私たちはみな、少しずつ人間らしさを失っていくのだ。
2 人造肉と肉食欲求
肉を食べる人たちが消費する肉の量はかつてないほど増えている。たとえば鶏肉。世界で最も豊かな国々で食べられているひとりあたりの量は、1997年から2017年までに50パーセント増加した。アメリカだけでも年間260億ポンドの牛肉が食べられている。いまの時代、私たちは必要な栄養素を植物やB12サプリメントからも摂れることを知っているし、その手段もある。そして肉を食べること以上に環境に悪影響を及ぼす行為はない。にもかかわらず、毎年700億頭の動物が殺され食用にされている。ただおいしいからという理由で。
カリフォルニアでは、肉に関する問題の最も革新的な解決策が生まれている。正真正銘、動物の体外で成長した「肉」だ。フラスコの中で誕生し、タンクの中で育ち、ラボで収穫される肉だ。彼らはそれを「クリーンミート」と呼ぶ。
クリーンミートの作り方は、まず成体の動物から「スターター細胞」を採取する。シードトレイに入れられたスターター細胞は、培地に浸されて栄養と成長因子を与えられ、増殖を促すためバイオリアクターの中に置かれる。ひとつの細胞がふたつに、ふたつが4つに、4つが8つに増えていく。それを繰り返し、
やがて細胞の数は数兆にまで増える。これらの細胞をゲル状の足場に定着させ、筋繊維のかたちに成形して束を作り、それをいくつも積み重ねる。1個のパティを作れるだけの細胞を成長させるには10週間ほどかかるが、その後の細胞の成長は飛躍的で、10万個のパティを作るのに12週間しかかからない。組成が単純なバーガーやソーセージ等の成型肉の培養は簡単で、サーロインステーキとなると相当な作業が必要になる。
こうした「クリーンミート」研究の出資者の大半はヴィーガンだ。
クリーンミート市場のシンクタンク・アクセラレーターのブルースは、自らの仕事の目的についてこう語った。
「99.99パーセントの肉が植物由来肉およびクリーンミートである世界は、人々が日常的に動物の搾取に手を貸さない世界です。動物の権利が注目されてこなかった大きな理由は、世界の99パーセント近い人々が、刑務所に入れられてもおかしくないほど残酷な、工業的畜産という営みに毎日加担しているからです」
動物の肉を食べないこと=畜産を放棄することは、破綻していく地球環境の改善に繋がる。だがそれだけでなく、動物の権利を求める革命にも繋がっていく。動物実験のビデオを秘密裏に撮影するのでも、毛皮を売るデパートを爆破させるのでもなく、私たち肉食動物に肉の代わりになる何かを与え、自分たちに与えられたと思い込んでいる、動物を犠牲にして生きる権利を見直させることによって、人の倫理を変えるきっかけになり得るのだ。
「世界で初めてクリーンミートを一般発売する」と発表した、時価総額11億ドルの食品スタートアップ「ジャスト」。ここでは植物性由来の卵やナゲットを開発している。しかし、現在の開発進度から言うと、一般発売にはまだ程遠い。ジャストはまだ植物から動物性タンパク質を作ることはできておらず、卵やナゲットもあくまで代用品だ。卵は食感こそそのままだが風味は味気なく、ナゲットはチキン風の味はするが変にどろっとしている。完全再現には至っていない。
「私たちが目指す規模で生産を開始するには、ゼロからバイオリアクターを作らなければなりません。それが難しいのです。だからこそ、製品を売って、人々にその可能性を味わってもらうことが重要です。彼らのサポートと、食肉企業やその他の投資家からの資金が得られれば、バイオリアクターの製造に取りかかれるでしょう」
「最終的な目標は、新しいシステムを構築し、その結果投資家に多くの利益をもたらすことです。彼らにもっと投資してほしいからです」
クリーンミートを成功させるには、一般の消費者に受け入れられなければならない。高級スーパーでベストセラー商品になったところで意味はなく、競争相手である普通の肉と同様の値段で、普通の肉より美味しくなければ意味がない。
ジャストのイメージ画像が映し出していたのは、人間の肉への欲求が招く危機の実効的な解決策ではなく、投資を引き寄せるためのキラキラしたアイデアだった。もしクリーンミート産業のほかの会社も同じなら、短期間にごく一部の人が大金を稼ぐことはできるかもしれない。しかし、それ以外の全員――私たちの体のみならず、この星までも――は、これまで通りの生活を続ける代償を支払うことになるだろう。
クリーンミートは、私たちが人間であることの意味を変えようとしている。この先、人間は動物の命を犠牲にして生きるのをやめるだろう。しかし、もし肉への欲求が自然の摂理でなく文化の産物であるならば、テクノロジーに頼らずに文化を変える力は私たちの中にある。文化はすでに変化している。「男らしさ」はもはや「火を起こし、動物を殺す」という意味ではなくなっているのだから。
クリーンミートはたしかに人間に動物を殺すのをやめさせる、変化をもたらす製品なのかもしれない。いっぽうで、私たちの肉への依存はいつまでもなくならず、私たちはその供給を顔の見えない多国籍企業に頼るようになる可能性がある。肉を食べるのをやめて動物を支配する力を放棄するのと引きかえに、私たちは遠くの企業に自分たちを支配する大きな力を与えることになる。
私たちが肉を食べつづけるかぎり、クリーンミートは食品の数ある未来の可能性のひとつである。これからどのような技術が現れようとも、肉への欲求を断つか、食べる量をうんと減らすかを決めるのは私たち自身だ。テクノロジーを駆使するのではなく、自らの欲求をコントロールすること。本当の意味での力の使いどころはそこにある。それができるようにならないかぎり、私たちは自分の食べているものがどこからやってきたのかも知らされず、それに対する責任の意識も希薄になっていくはずだ。そもそも肉を巡る問題を引き起こした私たちの考え方は、これからも永久に変わらないままだろう。
3 妊娠ビジネスと「出産という苦痛」
カリフォルニア州は、女性が他人の子どもを産んで報酬を得る「代理出産」が認められている。
その中でもパシフィック生殖医療センターには、「社会的代理出産」――自分の遺伝子をもつ子どもは欲しいが妊娠も出産も望まない人が、体外受精で子どもを作って他人の子宮を借りること――を求めて、お金持ちたちが集まってくる。社会的代理出産には15万ドルもの費用がかかる。しかし、もし希望者がモデルなどの仕事をしていれば、確実に職を失い収入がゼロになる。また、企業で高い地位に就いている独身女性も、キャリアを棒に振る可能性がある。そうした女性たちにとっては15万ドルを払うに値する制度であり、依頼がやまない。
代理出産と聞いて、多くの人は否定的な反応をする。「『子どもは育てたいが、産みたくない』などと言う女性は母親になる資格がない」というのが、社会における暗黙の了解である。なぜなら、赤ちゃんのためにまず自分の体を犠牲にしようという意志がなければ、子ども優先の生活をすることは決してできないと世の中ではみなされているからだ。
一見、そうした考えは筋が通っているように思える。だが、よく考えてみれば、父親は子どもを最優先に生活するといっても自分の体を犠牲にする必要はない――女性のほうは生まれながらにして身体的に、そして社会的にもそれを義務づけられているのに。だとすると、女性が代理出産を利用するのは、キャリアウーマンとしてのエゴを満たすためではなく、「キャリアを維持しながら親になれ」という重圧を社会からかけられているためにほかならない。
そもそも、体に負担をかけて産んだからといって思いやりのある親になれるわけではない。第一そんなことを言うのは、男性は母親と同じように子どもに愛情を注ぐことはできないと決めつけるようなものだ。それに、妊娠・出産を喜んでも、いざ生まれてみたら赤ちゃんを最優先したがらない母親だっているだろう。
では、代わりに「体が醜くなる」ことを引き受ける代理母、つまり子宮を貸す人はどうなるのだろう。医学的な理由なしに自分では産まないという選択をした誰かのために赤ちゃんを出産し、命を危険にさらす可能性について、彼女たちはどのように感じているのだろうか?
代理出産は現代において家族を作る手段としてますます浸透しつつあり、とくに体外受精型は人工授精型よりもはるかに一般的である。卵子と精子を受精させてから子宮に移植するので安全性が高く、また生殖医療に携わる多くの人が言うには、体外受精型は合法的で、遺伝的なつながりのある子を産んだばかりの女性に赤ちゃんをすぐに引き渡すよう求める必要がないため、感情的な負担も少ないという。
そうは言っても、人工授精型か体外受精型か、商業的か利他的かを問わず、あらゆる形式の代理出産には深刻な法的、倫理的課題があるのも、またたしかだ。あなたはもしかすると「代理母が自分の産んだ赤ちゃんに愛情を感じ、引き渡しを拒むのが大きな問題なのではないか」と思ったかもしれないが、実際は、依頼者のほうの気が変わり、すでに代理母のお腹に宿った子どもを引き取らないと言い出す可能性のほうがうんと大きい。依頼者夫婦が別れたり、胎児に異常や障害が見つかったりした場合、代理母は自分の意に反して中絶を余儀なくされる。移植に成功した胚の数が多すぎる場合にも、代理母は「余分な」赤ちゃんを中絶するよう求められる。このようなケースは数えきれないほど確認されているのだ。
代理出産がいかに金銭的に貧しい人々へのインセンティブになろうとも、それは本質的に女性を入れ物、つまり培養装置として利用し、体に宿した赤ちゃんに対する生後のすべての権利を放棄するよう求めることだ。搾取されている自覚が本人にあるかないかは別として、それは女性の生殖能力の搾取の上に成り立っている。しかしながら、需要は年々増え続けている。
体外発生には生殖労働をあらゆる意味で公平に再分配できる可能性があると考えられ、よって人工子宮開発を進めるための研究には道徳的な責務がある――オスロ大学のアンナ・スマイドル博士はそう主張する。
出産に対する私たちの考え方は、たしかにかなり異様だ。万事順調にいったとしても、お産には血と痛みと縫合がつきものなのに、誰もそのことにはふれない。「母親であること」のうち、私たちは、妊娠・出産の側面を無疑問に崇拝している。
アンナ「母体胎児医学が飛躍的な進歩を遂げる兆しはありませんが、胎児の研究や、子宮にいる胎児にとって何がよくて何が悪いかについての理解ばかりがやたらと進み、女性がさながら『外付け妊娠装置』として扱われるようになるのは目に見えています。女性は自分のことは尊重せず、赤ちゃんによいことだけをしていればいいのだと」
アンナの考える完璧な体外発生がもし現実に存在すれば、それを使いたいと���う女性は少なくないだろう。てんかんや双極性障害により薬の服用を義務付けられている女性。妊娠中にがんと診断された女性。それから、子宮が欠損した女性。仮に将来、出産が体外発生と自然妊娠の二択になるとしたら、「自然」に対する私たちの考え方は一変するだろう。現在すでにシリコンバレーなどの雇用主は、キャリアでいちばん実り多い時期を仕事に集中してもらうため卵子を凍結保存する社員の費用を負担しているが、いずれはそうした「補助」のメニューに、妊娠・出産を気にせず継続して働けるよう人工子宮で赤ちゃんを育てるオプションが含まれるかもしれない。
そのうち、体にある本物の子宮を使うこと自体、社会的地位の低さ、貧困、乱れた生活、無計画な妊娠と同義語になり、危険な母親である証になるのかもしれない。それは私たちがいま、妊娠中も分娩時も医療の力をいっさい借りずに赤ちゃんを産む「自由出産」を選ぶ人たちに抱いているのと同じような感覚だ。「自然な」出産自体が、無責任で無謀な選択とみなされるようになる可能性もあるのだ。
4 自死の権利
世界に目を向けてみると、自発的安楽死、死の幇助、自殺幇助を問わず、死ぬ権利の法制化が進んでいる。スイスでは1942年以降自殺幇助が合法化されており、350人ほどのイギリス人がチューリッヒにあるディグニタスのクリニックに赴き、そこで命を終えている。オランダでは2001年、ベルギーでは2002年、ルクセンブルクでは2008年に安楽死が合法化された。これらの国では肉体的苦痛のみならず、「耐えがたい」精神的苦痛も対象とされ、アルコール依存症やひどい鬱病を患う人たちも、合法的な幇助を受けて死ぬことができる。
とはいえ自死が合法化された国でも、実際に死ぬ権利が認められるかどうかは医師と精神科医にかかっている。つまり、これまで以上に医師が力を持つことになるのだ。
死を望む人に必要なのは死の装置ではない。必要なのは、老い、病、そして死を恐れなくていい世界だ。
私たちが死ぬ運命とともに生きることを学び、人生の必然として病気と死に向き合う準備ができる世界だ。
そのためには、認知症、筋萎縮性側索硬化症など、私たちを怯えさせる病気の研究にしかるべき投資をしなければならない。誰ひとり自分を「お荷物」と思わないですむ、よりよい緩和ケア、社会的ケアにもっと資金を投入しなければならない。自分の死を自らコントロールしたいと切望する人たちが心から求めているのは、尊厳と安心であって、死そのものではないのだから。
そして何より、私たちは死ぬ権利を法制化しなければならないとも思う。生きたいと思う人を危険にさらすことなく、合法的に死を手助けする方法を見つけなければならない。それには、死の装置を作るよりもはるかに知的な取り組みが求められるだろう。そして、その取り組みは、誰かを金持ちにしたり有名にしたりするものであってはならない。それを実現させないかぎり、これからも切実な望みを抱えた人たちが餌食になり続けるのだ。
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日本で生きていると実感の湧かない世界の実情、地球の現実を知ることができた、自分にとってはとても貴重な一冊。
テクノロジーの発展は、確かに私たちを便利な生活へと導く。しかし、その甘い蜜を現代を生きる誰もが吸っている(無意識的に)からこそ、「便利さ」という誘惑に私たちは驚くほど脆弱だ。
現代に蔓延る社会問題、環境問題は、紛れもなく私たち人間が、引き起こしたものであり、その責任を私たち人間は、引き受ける必要がある。一度手にした甘い蜜を諦めること、手放すこと、すなわち自分たちの生活が「便利でなくなること」に、私たちは過剰なまでの恐怖を抱く。しかしそれは、私たち人間が歩んできた時間軸を、歴史を逆戻りすることと同義ではないはず。便利さ=豊かさではないはず。
テクノロジーは根本的な問題解決策ではなく、あくまでも延命措置的な役割しかもたない。根本的な解決策は、泥臭く、醜く、涙を流し、頭を抱えながら私たち人間が行動すること。そう思う。
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完璧な愛人・食肉・妊娠・死の為の技術…というより、技術に携わる人々を通じて欲望についてを考える。
開発者が名誉や資金の問題を抱えているのは事実だろうけど、筆者のスタートアップへの不信感が強過ぎて話が深まらなかった感があるなぁ。
人造肉のように、筆者が取材した頃には実現化まで距離があった筈が現在には市場にまで出回っている技術もある。有効な問題設定をして取材できていなかったばかりに、ただの過去の話になってしまったのが勿体無い