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第8回石田波郷新人賞の俳人、斉藤志歩さんの第一句集です。プロフィールによると30歳そこそこの若手のようですが、芯のしっかり通った安定の読みごたえでした。とはいえ堅苦しさは一切なく、むしろユーモラスでさえあります。お茶のおともにぱらぱらめくって、時々クスッと笑わせてもらえる、そんな親しみやすい句集です。
以下、わたしの好きな句を3つご紹介します。ただ、わたし自身は俳句未経験で句集を読むのも初めて。古文も苦手で、作者の句を正しく読めているかどうか微妙です。だから、ここに書くのは鑑賞文ではなく、ましてや批評ではなく、感想文あるいは二次創作のようなものと思ってください。
◯秋風やきりんの舌のよく見ゆる
この句から思い浮かぶのは、たとえばこんな情景です。ある日、作者は友人たちと動物園に行きました。きりんの前でのやりとりです。
A「うわ、でけぇ」
B「背たかーい」
C「首ながーい」
斉藤「舌が赤い」
ABC「そこ?!」
アウトラインよりディテールが気になるのは作者の特性なのでしょうか。世間一般との感覚のズレがユーモラスな句です。
「いや斉藤さん、きりんだよ?よく見てよ」
「だから、よく見ている」
「いや、そういうことじゃなくてさ…」
という会話の続きまで空想してしまいました。あくまでもからりとした秋晴れの日の出来事です。
◯好きらしく栗飯の栗先に食ふ
ほくほくに炊けた栗ごはん。秋限定のお楽しみですよね。子どもの頃に栗だけほじって食べた経験、誰にでもあるんじゃないでしょうか。
でも、この句で栗だけ先に食べているのは作者ではありません。家族や親友でもなさそうです。よく知る間柄なら嗜好は把握していますから「好きらしい」とはふつう言いません。
栗が好きなのは初めて知った。この句にはそんな発見のニュアンスが含まれています。栗ごはんを食べているのは作者にとって、嗜好は把握しきれてないけれど無関心ではいられない人なんです。箸の上げ下ろしまで、つい詳細に観察してしまうほどに。
栗ごはんの栗だけ先に食べてしまう、子どもっぽいところのある人。作者とどんな関係なんでしょうね?
◯とんかちの音はるかなる日永かな
春のうららかな日、どこかで家でも建てているのでしょうか。とんかちの音が遠くまでひびいてゆく。のどかな日常の風景を詠んだ、すがすがしい句です。
一方で、つい深読みしたくなる句でもあります。芥川龍之介の箴言集『侏儒の言葉』に次のような一節があるからです。
〈打ち下ろすハンマアのリズムを聞け。あのリズムの存する限り、芸術は永遠に滅びないであろう。〉
個々の芸術家は滅びても、芸術は必ず民衆の中に種子を残している。そう芥川は書き遺しています。アーティストとしての強烈な自負を感じさせる一文です。
で、この句は芥川へのオマージュかも、と一瞬思ったのでした。芥川が蒔いた芸術のタネが、斉藤さんに根付いて芽吹いてこの句を詠ませたのだったら面白い。九割方わたしの妄想ですけれど、そんな悠久の営みをも感じさせる、のびのびした句でし��。
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