紙の本
エアメサイア
2024/02/10 01:13
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投稿者:イケメンつんちゃ - この投稿者のレビュー一覧を見る
いやー
素晴らしい
役所から請求がだされた
新しいタイプの
感動ドキュメント
表紙画のデカさ
目立つ目立つ
なかなか
手に取れない
字が細かい分
絵のダイナミックさが
引き立つ
哀愁のカサブランカ
沈黙のアフガニスタン
街からボーリング場が消える
植樹帯に木があるか心配
ほんとヤル気あるのか心配
毎日毎日
暑い暑い
高校球児が丸坊主姿
がっかり
頼みます
やめてください
在庫もあるそうなので
ぜひお買い求めくださいませ
ペンギンかぞくとおそろしい山
だから丸善書店はおもしろいんです
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カナダの詩人ジョーダン・スコットの祖母との思い出をもとにした絵本。
おばあちゃんはポーランド移民で、元はニワトリ小屋だったところに暮らしていた。
シドニー・スミスの穏やかな光を感じる絵がとても素敵。
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ババ(ポーランド語でおばあちゃん)と孫の男の子の思い出。戦争で苦労したババ。1つ1つの動き、特にミミズの部分が印象的。漂う哀しさや寂しさの中でも、彼にちゃんと引き継がれているのが素敵。
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おばあちゃんと孫のお話。
おばあちゃんはポーランドに生まれ
僕とは言葉があまり通じない。
二人の間には言葉はないけれど
絵本からぬくもりがつたわってくる。
一人暮らしのおばあちゃんのところに
朝、預けられて過ごしていた時のこと・・・。
おばあちゃんに学校におくってもらい
迎えに来てもらっていたこと。
雨の日のみみずとり、
畑を大事にしていたおばあちゃん。
ごはんをこぼした時のようすなど。
いたるところに
おばあちゃんの手のぬくもりが感じられる。
今はおばあちゃんの家はない
ぼくの家に住んでいる。
ぼくの隣の部屋でねている。
毎朝オートミールとリンゴを持っていく。
おばあちゃんがしていたように
落ちたリンゴを拾ってキスをしてお皿にもどす。
ミニトマトを植えた鉢。
ミミズをとって土に入れよう。
言葉はなくてもおばあちゃんの愛情が
生き方が。引き継がれていることを
感じられるあったかい絵本でした。
雨の中ミミズをとりに行った
男の子を窓から見ている
おばあちゃんの横顔がとても愛にあふれている。
素敵な絵。
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自然な光と、優しい色合いが良くて、じっと絵だけ見てていたくなった。
文字数は多くなく、書かれている内容も難しくない。
しかし、どうしてババが食べ物や、暮らしを大切にしているのか、ぼくの家に来てからのぼくとのやりとりなどを含め、その裏はとても深い話だ。
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本書は、以前読んだ、父と息子の温かいやり取りが印象的な「ぼくは川のように話す」と同じ、カナダの詩人ジョーダン・スコットと、画家シドニー・スミスによる、スコットの祖母との思い出を元にした絵本です。
内容は、素朴でささやかなものでありながら、後からジワジワと胸の奥にポッと温かな火を灯すような、「ぼく」と「おばあちゃん」との、これまでの関係から築き上げてきたであろう、その信頼性の高さを感じさせる描写に胸を打たれたのは、スミスの絵による、まるで映画を観ているようなドラマティックな展開や、そこでの思いを絵で伝えるために、様々な視点から切り取ったカット割りもあるのだと思う。
それは、まだ夜明け前の暗い中を車に乗り込もうとする、ぼくと父の扉絵から既に物語の世界に引き込まれ、奥付を経た後の物語が始まる見開きでは、子どもが描いたような絵に驚いたが、それは次の見開きで、車の中でぼくが眺めていた、おばあちゃんに渡す為に二人の絆を描いた、ぼくの絵であることが分かり、こうした細かい点からも、ぼくのおばあちゃんに対する思いが、ひしひしと伝わってくる。
また、スミスの描写で特に印象深いのは、他の方々も書かれているが、光の表現の美しさであり、それは二人を神々しく照らす表紙の絵や、窓を通しておばあちゃんの家のキッチンを明るく柔らかく照らす絵に加えて、雨の場面の、滲むように反射して映し出される水たまりの映像に宿る淡い光までと、様々であり、そのいずれもが、まるで温度も一緒に感じさせるような確かな温もりを持って、読み手にも伝わってくる、そんな臨場感の凄さを感じさせる。
そうした凄さは、おばあちゃんの家の中の描写にも感じられて、元はニワトリ小屋だったそうだが、そんな雰囲気は微塵も感じさせず、キッチンの場面の絵だけでも、おばあちゃんの日々の生活の様子がありありと目に浮かんでくるような、たくさんの物で満たされた、それら一つ一つを、まるで実際の写真を見ながら忠実に描いたような臨場感の中、朝日に照らされたおばあちゃんが、料理をしながら鼻歌を歌っている光景には、確かな実在感を伴っているようであった。
二人の間には、ほとんど会話らしい会話はなく(あっても、ぼくが質問するときくらい)、それはポーランド出身のおばあちゃんが、あまり英語を喋れないからでもあるのだが、言葉が無くとも確かに心が通い合う様子を実感できたのは、その何気ないしぐさであったり、より確かなのは、おばあちゃんがぼくのほっぺたに触れたりといった、お互いの温もりを伝えあい、お互いの存在を感じあうことなのだと思い、やがてはそれが、二人で共同作業をすることが好きになることへと繋がっていく、そこでの二人の柔らかい微笑みには、もはや言葉など無くとも確かに感じ合える、慈愛を纏った光に包まれたような神々しさが漂っていたのであった。
しかし、そうした思い出は、おばあちゃんがぼくの家に来る前のことであり、おばあちゃんの家があったところには、今は大きなビルが建っていた。
物語の終盤を読んでいたら、ジャン=フランソワ・セネシャルの絵本、『ぼく、いいたいことが���るの』を思い出し、家族間に於いて、何かを継承するという話は聞くけれど、それは無意識にやりたくなるような、心からの思いがあってこそのものだと思い、では、何故やりたくなるのかといえば、それはやはり好きだからなのだと私は思い、そうすることで忘れたくない思いの強さには、その人が、いかにかけがえのない大切な存在であったのかを、ありありと映し出しながらも、それが相手にも伝わるというのは、きっとこの上ない幸せなのであろうことを、終盤の本当に文章が無くなった、一連の流れからも感じられて、そこには二人のこれまでの絆と、これからの絆を、ゆったりとありのままに描いており、また、ありのままであるからこそ、その偽りのない、お互いの確かな感情の表れに胸を打たれるのであろう。