投稿元:
レビューを見る
プレミアのついていた1980年の徳間書店の単行本。
登録してはいないが手元にあり、いつでも読める状態にあって未読だったところ、なんと43年を経て再刊行。
おそらく国書刊行会の磯崎純一氏の働きによるもの、と思われる。
思いのほかゴツくて重厚。
「シン・仮面物語」……言ってみたかっただけです。
最近刊行されている諸作と比べるとまだ読みやすい……はず。
何処で誰が何を、がわかりやすい……はず。
しかし流行りの風邪の病み上がりに読んだせいもあり、うまく整理がつかないまま雰囲気に酔うことしかできなかった。
その酔いは極上だったが。
とはいえ山尾悠子にとってはこの種の信者的な読者は有難迷惑で、本当はもっと真っ当な評論を望むものだろう。
が、それができない自分が不甲斐ない。
ところで連想しただけだが、飛浩隆「零號琴」もまた仮面づくしだった。
投稿元:
レビューを見る
一文に施されている言葉たちが礫となって跳躍、受け止めることも避けることも難しい
「たましいの顔」
自分は誰なのか、何者なのか
魅惑的で神秘的であるワードに翻弄され、貧相な読解力では果てしなく続く濃霧の中を彷徨い、脳が痺れて眠くなるのでなかなか進まない
読了してこの世界から解き放たれ、逃れられたと安堵する
投稿元:
レビューを見る
室内のシーンが多いのに建物の構造がよくわからないのでイメージしにくい。
善助の魂が別の体に入っている=善助の体は死んだ?と思っていたのに終盤でいきなり元の体に戻っている?
消化しきれてないのでもう一度読んでみる。
しかし眠くなるんだこの本。
投稿元:
レビューを見る
彫像師の善助は、実は人のたましいの顔を彫ることができる〈影盗み〉である。新たに訪れた鏡市で仕事を始めた善助だが、いつしか街の中心にある二重館の人びとの思惑に絡め取られていく。たましいの顔を彫られまいとして仮面をつけた者たちと、ゴオレムや自動人形、虎が行き交う迷宮のような街を襲うカタストロフとは。長らく封印されてきた、著者最初の長篇小説。
ずっと読みたかった作品。埴谷雄高の『死霊』を思わせる堂々とした佇まいで復刊してくれたのが嬉しい。
〈影盗み〉とは何者かという謎と、事故によって体を作り替えられた聖夜のアイデンティティをめぐるゴシック小説である。善助は〈影盗み〉であることを隠しているのに、葬儀用の彫像をつくる仕事に就いているのがまぬけでユーモラスな主人公だ(『歪み真珠』収録の「影盗みの話」で作者自らツッコんでいる)。
善助が自分のたましいの顔を彫った像はゴオレムとなって動きだし、ドッペルゲンガーの善助を憎む。肉体から離れてゴオレムや自動人形のなかに入り込んでしまう善助だが、彼らを操ることはできない。だとすると、ゴオレムと自動人形にもたましいはあるのか。
アマデウスと聖夜を中心にくり広げられる自動人形と人間の相違をめぐる問いは、出力される世界観は全く違うものの、長野まゆみの初期作を思いださせる。アマデウスの政治パンフを書くオートマタという設定が面白い。作中で文章を書くのが狂死する詩人とアマデウスなのを考えると、狂わないのがアマデウスの"人形性"と言えるのだろうか。
でも、そうした哲学的な内容以上に、ステンドグラスに囲まれた巨大な水盤に沈んだたましいの顔だとか、金の鱗を隠しながら闇夜に暗躍する自動人形だとかの硬質で絢爛な銅版画的イメージを楽しんだ。晦渋で読みづらいというほどではなかったけれど、今の山尾さんに比べると確かに角ばっていて少し重たい文体ではある。ポーやマイリンクを参照しながらも、独特なイメージの連なりで群像劇を描いているのがやはり「夢の棲む街」の作者だ。
設定を語るだけで終わってしまったようなところもあり、若書きとして復刊を拒んできた著者の気持ちもわかる気はする。けれど、街を浸していた水の栓が抜かれ、全てが二重館の水盤に還っていき、善助が生まれ直すクライマックスは、山尾作品らしいカタストロフ(漏斗状の街!)と明解な再生が同時に描かれていて新鮮である。たましいの顔を芸術作品と見なせば、人びとはそれを直視し賞賛するという皮肉もよい。最後まで謎だったのは不破だけど、彼はかつて善助が作って忘れてしまったゴオレムだったりするのかな。