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桂木市助さんのレビュー一覧

投稿者:桂木市助

3 件中 1 件~ 3 件を表示

エネルギーを燃やす「コツ」

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 斎藤孝著『「できる人」はどこがちがうのか』を読み終える。“カッパブックス”みたいなタイトルだけど、“ちくま新書”である。別に“ちくま新書”だからえらいと思っているわけではないのですが、あまりに内容とタイトルにギャップがあったもので。

 著者の斉藤氏の言及は一貫して「技を習得するコツ」に向けられ、「技」そのものには向けられません。ここではとくに「卓球ができる」とか「語学ができる」とかいうことの価値、意味には触れられず、それらに通低する上達の道筋・コツに焦点があてられています。

 う〜ん、どう書いてもHow Toモノに見えてしまいますね。仕方がないので、私の個人的解釈で書くと、これは「技とは何か」について書かれた探求の本であります。楽器演奏やスポーツはもちろん、仕事や語学、はてはギャンブルに至るまで、それぞれの世界には「熟練者」がおり、初心者にはおよびもつかないことをいとも簡単に行なっています。
 齋藤氏は分野をまたがった「熟練者」の「技」には、共通する修得過程があるとみます。これは当たり前のようで、大胆な指摘だと思う。つまり、ギターと包丁さばき、バスケットボールに英単語暗記や庭掃除まで、およそ「熟練」というものがあり得るものには共通した上達の過程というものがあり、何かひとつでその上達の過程、コツを身に付けると、その他のことの習熟の過程でも応用が効くというのである。

 これは、達人コックさんが卓球をやっても強くなるのである、とか、そういう奇天烈な話ではない。「達人」である、ということではなく、熟達する、その過程そのものを多分野にも応用可能なものとして認識するかどうかという問題である。

 さらに言えば、これはある種の「コツ」を知っていればなんでもうまくいく、という週刊誌の裏表紙広告の、実は正反対の主張なのです。うまくなる「コツ」を知っている、というのは、上達の過程にはショートカットできない、長さ・険しさがあるということを知っている、ということでもあるからです。
 上達の道は険しい、ということを知っているからこそ、そこを歩くことが出来る。それは、楽して歩ける、ということとは程遠い認識です。決して楽な道はないわけですね。歩かなければ楽だけど。

 人は歩く道の長さがわからないと歩けない。この先で食料は調達できるのか、そもそもこの道は先があるのか? さっぱりわからなければ荷物をリュックに詰めることさえできないものである。結果、芸事の道に入った多くの人は日帰りで帰れるところまでしか足を伸ばさない。別に「取って食われる」わけでもないのに、である。

 コツを知る、とは、上達の道のパースペクティブを持つことである。

 斉藤氏は「コツを知らない若い人のエネルギーが怖い」とあとがきに書いている。上達のコツを知らず、エネルギーを燃やしきれない人間がキレルのではないか、と(これはどーかと思うが)。

 本書の最大の問題は、このコツについて、日常的に感覚的に感じたことのある人でなければ、読書効果が薄いであろうということです。…う〜ん、これは深刻な問題ですが。

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紙の本レヴィナスと愛の現象学

2002/03/13 11:44

愛と師の連鎖

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 レヴィナスは「難解」で有名な思想家である。それゆえ、読む人にはそれなりの覚悟が求められる。つまり、読む前には確認しようがない、読後に得られる「何か」の価値について、ほとんど盲信的になる、ということが求められるのだ。これを読めば、何かがわかる、いや、私はこれを読まなければいけない、という厳しい要請がなければ、難解なテキストを読むエネルギーを得られないだろう。

 内田氏によれば、レヴィナスのテキストの「難解さ」は、読み手にそうした「師に仕える態度」を読み手に教える機能を担っているのだという。そして、さらにレヴィナスの「難解」なテキストそのものが語っていることも、「師に仕える態度」そのものを語っている。レヴィナスは難解なテキストを提示する身振りそのもので、自らの思想を語っているのだ。

 本書は、内田氏の、レヴィナスへの愛に満ちた書である。しかし、それはただ単に内田氏の私小説的な吐露を表わすわけではない。当のレヴィナスのテキストそのものが、師への愛を語るものなのだから。

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紙の本「健康」の日本史

2001/04/23 15:07

不健康はなぜ悪い?「健康」信仰を打ち砕く快著

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「ぶら下がり健康器」を買って「健康」になった人をあまり聴いたことがない、とよく笑い話をしていたのを思い出した。しかし、そのときにわたしたちが笑いものにするのは、ぶら下がり健康器を買ったバカな人であり、「ぶら下がり健康器」そのものではない。「どうせ運動なんかしないくせに、高い金を払っている」といって笑うわけで、その批判のほこさきはそこにとどまっていた。
 本著は、「ぶら下がり健康器」のばかばかしさ、引いては、「健康」なるものの価値にいかに根拠がないか、ということをわたしたちに気づかせてくれる。重要なのは、本著は「ぶら下がり健康器」が「健康」に効果があるかないかを論じたものではないことだ。著者の語り口がソフトなので騙されやすいが、本著の指摘はもっともっとラディカルである。
 「ぶら下がり健康器」が仮に、「健康」に非常に効果的な代物であるとしても、この著者はやはり、それをして滑稽とみるだろう。なぜなら、著者の批判はここでアプリオリに価値あるものとなされている「健康」概念におよんでいるからだ。
 著者は江戸時代にさかのぼり健康の語と概念を検証する。そこからみえてくるのは「健康」以前の日本人の身体観と、近代合理主義・国家主義と蜜月状態に絡み合った「健康」の姿である。

 身体醜形症や拒食症の一部をみても、現代のわれわれの身体観が観念的に偏向していることは明らかだ。それらの仕組みを紐解くかぎのひとつが「健康」かもしれない。本書を読み、そう思った。

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桂木市助

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