樋口 覚さんのレビュー一覧
投稿者:樋口 覚
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紙の本百年の預言 上
2000/10/21 00:18
日本経済新聞2000/3/5朝刊
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色々な要素が重層的に組み合わされた小説である。著者が得意とする恋愛小説に音楽小説という要素が加味され、登場人物が東欧と日本の闇を激しく行き来する。
ウィーンとブカレストと金沢の「三都物語」でもあり、東欧中で最も改革が遅れたルーマニアに焦点を当てた「現代東欧史」という側面も遺憾なく発揮されている。
ベルリンの壁が崩壊したあとの、あのチャウシェスクの独裁政治が崩壊する前夜に照準をあて、そこにうごめく群像を壮大なスケールで描き出した小説である。
ウィーン駐在の外交官と女性バイオリニストは同じ金沢の出身で、ウィーンで会って以来、激しい恋に陥る。この帰趨をルーマニア革命の去就と同期させ、最初の逢瀬で互いに味わった性的な不全感が、この動乱を観察し、それと関わる複雑な過程において解消し、ついに完全な和合を遂げる。
それを可能にしたのは彼らの音楽に寄せる情熱である。ポルンベスクという百年前に死んだルーマニアの作曲家バラーダの楽譜にこめられた暗号と、そのミステリー仕立ての解読作業を通じて、それが『ミオリッツァ』というルーマニアの伝統的な口承詩「百年の預言」であったというところが味噌である。
わたしはしばしば五十年前の横光利一の絶筆『旅愁』を想起し、難解な会話ばかりしている主人公達の「花の都」パリでの言動と貞淑さに比し、時差を感じさせない登場人物の奔放な動きに注目した。
この小説では、「音楽」は大衆の革命的な狼煙の暗号であり、「音の武器」である楽器は天と地、男と女を繋ぐ「婚姻」の暗喩でもある。
無数の密告と裏切りの中を生き、革命の表と裏を生きる亡命者達が、一見華やかにみえるこの小説の脇をしっかりと固めている。本書にはエリアーデ、ブランクーシの名が出てくるが、「バルカンのパスカル」E・M・シオランも故国ルーマニアを追われた亡命者であった。
(C) 日本経済新聞社 1997-2000
紙の本消えさりゆく物語
2000/10/21 00:15
日本経済新聞2000/6/18朝刊
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老境にさしかかった男の意識の異変と変調を主題とした短編集である。幾重にも折り畳まれた人生の諸断面の苦渋と閃きが相互に描かれている。どれも身につまされる話なのは、人生をよぎる白日夢と悪夢の跳梁がつぶさに表現されているからである。夢はその側鉛を深く自己の鉱脈にまでに下ろし、幼年期から自己の死後にまでわたっている。
巨大都市東京の瘴気に満ちた街路が突然、異界として感じられたときの茫然自失。老いに伴うしくじりや幻覚の意外な結末。
夢はまた無我夢中であった若き日の資質の輝きとしても捉えられる。旧制高校を松本で送った時代に自然があれほど美しく見えたのは、敵の本土上陸を前に死を賭して戦おうとした皇国少年であったからだという発見は鮮烈である。
少年の誰もが経験する同性への覚醒と残酷な破綻の物語もある。異性のオブセッションとしては、一兵士として現代アジアの都市の迷路に紛れ込んだときに、女性に対して突如襲われる罪障感をめぐる話がある。
これらは著者のヴィタ・セクスアリスの発見であると同時に、戦争という巨大な経験を生きたものとして今も主人公を苛む焦慮といえよう。
集中めざましいのは、同盟国ドイツの崩壊寸前のベルリンでソビエト軍の侵攻に逃げまどう男を主題とした「駿馬」である。そこに颯爽として現れる馬上の若い女性は著者の理想の女性像で、著者が老齢となった現在にこそどうしてもしかと記憶し、書きとどめておかなければならなかった超現実的な「物語」である。
「駿馬」は馬を扱った小説としても逸品で、軽井沢で馬術を嗜んだ過去の甘美な追憶であるとともに、馬に捧げる一篇の抒情詩といってもよい。これは著者が敬愛した埴谷雄高の夢日記『闇のなかの黒い馬』のメルヘン版であり、著者の父である斎藤茂吉とも関係の深い小説である。茂吉の馬好きは有名で、留学先の西欧で見た立派な骨格をした馬のことを書いた「玉菜ぐるま」や「馬」という名随筆をわたしは連想した。
(C) 日本経済新聞社 1997-2000
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