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  3. 廻由美子さんのレビュー一覧

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先月(2017年8月)

廻由美子さんのレビュー一覧

投稿者:廻由美子

25 件中 1 件~ 15 件を表示

マニエリスムの大家、ポントルモの遺した日記。芸術家の生活を垣間見ることのできる一級資料

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 16世紀のイタリア絵画の歴史に「マニエリスム」という新たなページを与えた異色の画家ポントルモ、本名ヤコポ・カッルッチ。
 鋭い感受性と病的な性格で独特の絵画様式を創りあげ、数々の傑作を遺した彼が、最晩年にあたる1555年から1556年にかけての二年半ほどの間に書いた日記である。
 その強烈な美学に支えられた異色の芸術家の日常ともなれば、我々凡人には思いもつかないような出来事で満ちているに違いない。創作の苦悩、歓喜、霊感に溢れた非日常的な毎日。きっと錬金術師のように大鍋をかきまわし、美女の生き血を吸い、ヘビなど食し、叫び、吠え、魔法の杖を振り回しているのだろう。決して他人には見せないであろう創作現場がこの日記によって覗けるかもしれない。その中のいくつかは取り入れることができるかもしれない。そんな卑しい根性で読み始めた本であるが、そんな期待はすぐに打ち砕かれる。この日記の中にあるのは徹底的に虚飾を排除した、恐ろしく単純な日常である。

 木曜日は夕食にパンを15オンス食べた。
 金曜日はパンを14オンス。
 土曜日は夕食をとらなかった。

 こんな具合なのだ。肝心の創作に関しての記述も全く飾り気がない。

 金曜日 上半身(スケッチ) 
 土曜日 脚  

 こうなるとほとんどシュールな感じすらしてしまう。「読まれる」ということを全く意識せず、ひたすら自己の「記録」としてつけられたこの「日記」は、よくある現実を記すよりも理想を現実のごとくに書いた「読まれたい日記」などと違い、一行一行がじかに心に響く。
 絵を画くのに何の秘密もない。そこには厳しい自己管理と毎日の鍛練があるのみだ。芸術に魔法の杖は存在しない。ひとつひとつの技術の積み重ね、それ自体が魔法の杖なのだ。我が身を振り返り、反省することしきりである。 (bk1ブックナビゲーター:廻由美子/ピアニスト 2001.05.12)

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ショパンの生涯 決定版

2001/02/07 18:15

ポーランドの生んだ天才、ショパンの生涯は孤独なドラマである。貴重な書簡を含む待望の一冊

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ショパン〜最高に気高く香り高く、優雅にして大胆、古典美と前衛感覚をあわせもつショパン帝国の王者。あまたある下品でベタベタした演奏でショパンに媚びようとする輩はことごとくバカにされ、その門をくぐることすら拒絶され、ショパン帝国はますます燦然と光り輝いている。
 しかし我々は常に気をつけてなければならない。なぜならば、数多いケバい演奏にあてられてしまい、王国の、作品のせっかくの光りが見えなくなってしまうかもしれないからだ。

 この『ショパンの生涯』は気軽に読めるし、作曲家のニュアンスに近づくのに丁度よい。ケバケバした演奏をしばし忘れて、本物のショパン王国を垣間見ることができるのだからうれしいではないか。
 しかし、なんといってもこの本の「ウリ」は「ポーランド語から直接日本語に訳した」という点であろうと思われる。ポーランドには言うまでもなく、御国の英雄、ショパンのことを書いた本が沢山でているわけだが、書かれている言葉はポーランド語、なかなかむつかしくきちんと訳せる訳者が少ないということがネックになり、我が国人気ダントツの作曲家でありながらも文献は充実しているとは言いがたい状況であった。ところが今回、ポーランド文化とポーランド語に精通する訳者、関口時正氏がこの状況を憂い、やっと重訳ではないポーランド語からの直訳本がでたというめでたい話なのである。
 とにかく音楽にたずさわらない人にとってもショパンというのは魅力的な人物にはちがいなく、20歳で祖国ポーランドを出てから、革命のために二度と祖国の地をふむことなくフランスで「亡命者」として暮らし、貴族サロンの寵児となり、ご存じジョルジュ・サンドとの大恋愛、破局、病気、あまりにもはやい死など、彼の一生はドラマにことかかない。
 本書はどちらかといえば一般むけの「ショパン物語」といった風であるから、音楽からはなれて、ひとりの天才のドラマとして読むのもおもしろいであろう。
 ショパンの霊感に満ちあふれた、少々シニックな人物像、厳選された交友関係、サンドとの火花、けっこう家庭臭溢れる別れかた、絶対の孤独、などがショパンの書いた手紙や彼がもらった手紙、同時代の音楽家や批評家たちの証言などを織りまぜて綴られており、外見は弱々しいが、内面は芸術家魂につらぬかれ、針のように鋭いショパン像がうかびあがってくる。
 しかし、現在、最高に美しいピアノ曲を書いた作曲家として知られるショパンの作品を「耳も裂けんばかりの不協和音」「恐ろしくねじくれ曲がった旋律・リズム」などと罵倒する評論家がいたり、ショパンの熱烈な支持者であったシューマンすらも「ソナタ変ロ短調」のことを「しかし、何といっても音楽ではないのだから、義理にもほめるわけにはいかない」と言ったりしているのだからわからないものである。あのショパンの名曲が当時は相当にゲンダイオンガクだったのだろうか。芸術というものは本当に奥が深い。 (bk1ブックナビゲーター:廻由美子/ピアニスト 2001.02.08)

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大指揮者フルトヴェングラーを多面的に検証。歴史的名盤の数々とともに歴史的事実も明らかになる。

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 「矛盾した性質を持つ男だ。野心的で嫉妬深く、高貴だが独りよがり、臆病で英雄、強さと弱さ、子供と知恵者が同居していて、ドイツ人でありながら世界人でもあった。ただ音楽においてのみ、矛盾なく、比類ない存在だった」
 チェリスト、ピアティゴルスキーは回想録のなかでフルトヴェングラーについてこう書いている。
 あまりにもドイツの音楽家、ゲルマン魂そのもの、「永遠に苦闘し、探究するファウスト的性格」を持ち、常に「天国と地獄の門のあいだで動揺して」いた不世出の指揮者フルトヴェングラー。
 その彼の人物像を、オーケストラにおける指揮者の歴史や、音楽家と戦争との関係、永遠のライバルとの関係などいくつもの視点からから描き出しているのが第一部。フルトヴェングラーが遺した録音を、著者ジョン・アードインの熱のこもった試聴記やフルトヴェングラー自身の書いた覚書などと共にたどっていくのが第二部であり、フルトヴェングラーを通して20世紀前半の音楽界の激動の歴史が明らかにされていく。
 特に、永遠のライバルであったトスカニーニとの関係は音楽上のことだけにとどまらず、ナチの支配するドイツに居残り(もちろんそれは窮地に陥った音楽家達を助け、ドイツ音楽を守るためではあったが)ナチス・ドイツの官僚たちと交渉のあったフルトヴェングラーをトスカニーニは決して許さなかったようだ。この「フルトヴェングラーとトスカニーニ」の章はことに読みごたえがある。
 ファシストに抗議して政治的立場を明らかにし、イタリアを出たトスカニーニからすれば「もうきみの顔はみたくない。きみはナチだからだ。正式な党員証をもっているかどうかは別だが。西側ではユダヤ人と昼食を共にして立場を悪くしないようにしながら、ドイツではヒトラーと働いているのだ」ということになり、フルトヴェングラーからすれば「たまたまヒトラーが支配した国で偉大な音楽を指揮したからといって、どうしてわたしが彼を代表しなければならないのだ。音楽が属しているのはまったく別世界、そのときどきに起こる政治情勢などより高次の世界だ」ということになる。
 音楽の内容にしろ、その行動にしろすべてがキビキビと迅速で、向かってくる敵はバッタバッタとなぎ倒し、ダイナミックで英雄的なトスカニーニにくらべ、敵の一人一人と話し合おうとし、人間の深層心理を引き出してくるかのようなフルトヴェングラーは英雄というにはあまりにも人間的すぎたようだ。
 しかし「人間的」すぎたせいかどうか知らないが、彼には私生児が少なくとも五人はおり、そのうち三人は最初の結婚以前に、あとの二人は結婚している間に生まれたそうだ。音楽家はいつの世もかわらない。 (bk1ブックナビゲーター:廻由美子/ピアニスト 2001.01.16)

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紙の本オペラ名歌手201

2000/09/13 00:15

アナタの贔屓の歌手は誰?大スターから若手まで201人をとりそろえ、名唱名盤を紹介している。

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 べつにオペラ歌手のことを詳しく知らなくてもオペラは楽しめるのダ、と言ってしまえばそれまでだが、やっぱりそこはカブキと一緒、贔屓の歌手の一人もいればもっと楽しみがふえるし、幕間での語らいもずっとヴィヴィッドなものとなる。
 「やっぱり椿姫はダレソレでなくちゃなア」
 「ナニ!彼女はサイコーなのだぞ」
 などという贔屓対贔屓のバトルがくりひろげられたりする。
 
 マリア・カラス対レナータ・ティバルディのファン戦争はつとに有名であり、双方サクラをやとって大騒ぎをやらかしていたらしい。
 現在のお客はもっとおとなしいのでそのような騒ぎにはならないが、やはり「自分はこの歌手がまだうんと若いときから目をつけていたのだ。それがこんなにスゴイ大歌手になったのだぞ。おれの耳もたいしたものだろう、え?」などと吹聴するのはなかなか楽しいかもしれない。

 この『オペラ名歌手201』はカラスのような不世出の大歌手からドミンゴ、パバロッティといった現代の大スター達、玄人ごのみの渋いヴェテラン達、キラキラ輝くスターレット達までとりそろえ、ひとりひとりに対し、プロフィール、特徴、ハマリ役、オススメCDなどを紹介している。

 しかしたとえば「彼女はどうやって今の成功を手にいれたか」だの「それをあやつっていたのはダレか」などといったウラ話的なことを期待してはいけません。それはそれで別の本をあとでちゃんと御紹介いたしましょう。

 この本はどちらかといえば辞典ぽく、しっかりと必要な情報をコンパクトに得ることができる、といったもの。執筆陣も充実しており、客観的でありながらも執筆者個人個人の趣味が端々にニジミでている。

 ところでお約束の音楽界ウラ話満載の本のハナシ。
 『金色のソナタ』クラウス・ウムバッハ著、西原稔/玉川裕子訳 音楽之友社

 これはべつにオペラに限らない音楽界の内幕モノであるが、そのあまりにスキャンダラスな内容、激辛文章はドイツで大反響を巻き起こしたそうな。
 巨大で黒グロとした音楽産業マフィアについて書かれたものであるが、そのマフィアのドンは今も健在であります。
 
 『オペラ名歌手201』に載るくらいの歌手なら皆この「音楽ビジネス」の中を溺れまいと懸命に泳いでいるはずだ。拍手! (bk1ブックナビゲーター:廻由美子/ピアニスト 2000.09.13)

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紙の本フィガロの結婚

2001/08/30 22:16

はじめに言葉ありき・・台本を読んでオペラを聴けば感動も倍増である。

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 オペラはなんといっても「音楽」である。美しいメロディー、沸き立つリズム、響き渡るハーモニー・・・。しかしその、メロディー、リズム、ハーモニーを生み出す源となっているのは言葉である。言葉のもつ抑揚がメロディーを、リズムを作り出し、言葉の内容がハーモニーを決定する。ということは、はじめに言葉ありき、という訳である。

 言葉もわからずただただ「音楽」としてオペラを聴くのも楽しいことにはちがいなく、その現れては消えていく音の世界に身をゆだね、うっとりとしているのは何物にも変え難い幸せな瞬間である。しかし、少しの間、音楽から身を退いて、言葉の内容を知ってみるのもまた一興である。歌の、言葉の内容を知ることによって音楽を聴く楽しさも倍増するというものだからだ。
 音楽なしでまず台本を読み、ひとつひとつの言葉を知り、そうして音楽を聴いてみれば、その言葉達がどんなに美しい花を咲かせたか、どんなに天高く羽ばたいたか、そして音楽はどんなに言葉を超えたかがわかろうというものであり、感動もまたひとしおであろう。
 
 フィガロと恋人のスザンナが新婚用のベッドの寸法を測っている場面ではじまえるモーツァルトの傑作オペラ「フィガロの結婚」は、全編色恋沙汰の空騒ぎであり、台本だけを読んでいても充分楽しくおかしく、たまにはホロリとさせられるのだが、なんといってもモーツァルトの魔法の杖の一振りで、この言葉達は永遠の命を得ることができたのである。モーツァルトはその天才をもってダ・ポンテの書いたどの言葉、どのフレーズにも生命と美をやどらせ、天空高く舞い上がらせ、それらが星となって何万光年何億光年も輝き続けることを可能にしたのであった。まず、言葉を読んでオペラを聴き、それから言葉なんか忘れてしまってもいいのだ。言葉のもつエッセンスだけが心にのこり、それが何語であるかは関係なくなり、もっと普遍的なものとなって音楽に結びつくであろう。それでこそオペラというものだ。ちなみに私が今聞き惚れている「フィガロの結婚」のCDは、、カルロ・マリア・ジュリーニ指揮の1959年録音、全編イタリアン・カラーの輝きに満ち満ちた不朽の名盤であります。 (bk1ブックナビゲーター:廻由美子/ピアニスト 2001.08.31)

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身体も心もノビノビとストレッチ。現在72才の著者が明かす心身の健康の秘訣

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 オビに書いてある「さあ、あなたの身体も10歳若く!」という言葉についついツラれて手に取った。著者小野登美子、72歳、現在体操研究所を主宰。ブックカヴァーについている写真を見る。しなやかに伸びた手足、スリムなボディ。むむ、確かにこの女性の身体は実年齢よりも20歳ほど若い。こうなるとぜひとも読んでみたくなるのが女の心理というものである。読んでなんとか役立てたい、という訳だ。

 この本は、しかし、いわゆる「HOW TO」ものではない。この半世紀、体操にたずさわってきた著者が、その体操人生を振り返り、それを誠実に綴ったものである。べつに「カリスマなんとか」ではないし、女性誌が飛びつく類いのものではないだろう。しかしこの本の中には体操のことだけではなく、幸福な人生を送る秘訣がいくつもかくされている。

 いつまでも若くありたい、これは全女性のみならず、全男性もの切実なる願いであろう。しかし若くあろうとすることは若さにしがみつくことではない。年齢を重ねていくことを楽しんでこそ、若々しくいられるというものだ。「なんとかしてこの体操で若くなるぞ」とカタく決心をし、「若くなったか若くなったか」と日夜鏡を見ては自問自答するよりも、体操していることそれ自体を楽しむこと、そのプロセスを楽しむことのほうがずっと効果があるはずだ。

 著者は言う。若くなることは過去へもどることではない、と。そして人生最高の出会いとは「大好き」と思える自分との出会いであると。なるほど、いつも「今現在の自分が最高」と思えたらどんなに幸せであろうか。「昔の私はすばらしかったのに」などと思っていては決して幸せになることはない。

 しかしまた、うれしいことに著者は決して「健康と内面の美しさ」一点張りではない。体操でしなやかな見目麗しいボディをつくるのはもちろんのこと、66歳からはエステにも通っているとのこと。「美しくなることをやめるのは女性を放棄すること」「女性がお化粧をしなくなるのは女性をやめたとき」とおっしゃるのだ。じつにりっぱである。

 ストレッチ体操の目的はなんといっても「強くてやわらかな筋肉をつくる」ことだそうである。しかし同時に強くてやわらかな心も育ててくれるのだろう。勇気の出る一冊である。 (bk1ブックナビゲーター:廻由美子/ピアニスト 2001.08.08)

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目も眩むような驚異の瞬間の永遠性を可能にするヴィルトゥオーゾ。彼らはいったい何者なのであろうか。

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 たとえば世界には天才的なF1レーサーという者が存在する。彼らは、ジャン・コクトーの言葉を借りれば「美よりも速く」走り、自らの命を空中に投げ、未来へ向かって走り去ってゆく存在だ。観客は熱狂し、手を叩き、叫び、応援し共感し、レースに参加する。しかし、天才的レーサーは全く別の次元に存在しており、別の世界を走っているのだ。それは霊感に満ちた創造者の世界だ。ヴィルトゥオーゾ・・・

 フランツ・リストのヴィルトゥオーゾぶりは現代の天才レーサーを思わせる。彼の演奏はどんなにしなやかで、どんなに力強く、どんなにイマジネーション豊かで、どんなに煌めき、どんなに敬虔であると同時に悪魔のような魅力に満ちあふれていたことだろう。聴衆はどんなに興奮し、どんなに喝采を送ったことだろう。しかし、リスト自身はまた、どんなに孤独だったことだろう。ヴィルトゥオーゾはただ一人勇敢に敵と闘う英雄である。だれも一緒には闘ってくれない。もちろん成功は全部彼のものだ。しかし成功しつづけて得るものは益々深い孤独であろう。ソリスト至上主義の時代のヴィルトゥオーゾの宿命である。他者とのコミュニケーションなど存在しない。ただ一人、神への冒涜スレスレのところまで挑戦し、冒険する。結果は勝利あるのみ。だからこそヴィルトゥオーゾ。

 現在、技術的に信じられないくらい良く弾く人は増えてきた。しかし、彼らはヴィルトゥオーゾではない。「神か、そうでなかったら悪魔だ!」というようなディアボリックな魅力が皆無なのである。だいたい悪魔がコンクールになどに参加するわけがない。

 ヴィルトゥオーゾには秘密がいっぱいだ。その秘密のヴェールを著者は繊細な指先で剥がしていくようだ。1903年に生まれ、1985年に亡くなったこの哲学者であると同時に素晴らしいアマチュア音楽家でもあり、筋金入りのレジスタントでもあった著者ジャンケレヴィッチは、まさに学者を超えた学者である。知識に溺れれば知性は枯渇してしまうことを本能的に知っていた彼は、常に炎のすぐそばで行動し、火傷を怖がらず、直感を大切にし、感覚を磨きつづけたのだった。

 本書はリストの伝記などではない。伝記をはるかに超えた書、秘密の書、霊感の著、そして、これじたいがヴィルトゥオーゾの書なのである。著者に喝采。 (bk1ブックナビゲーター:廻由美子/ピアニスト 2001.08.04)

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徹底的に「今日」の視点で語られる50年代60年代のジャズ・ジャイアンツ。

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 こんなタイトルだといかにもチャーリー・パーカーをはじめとするジャズ・ジャイアンツへの尊敬の言葉がどのページにもちりばめられ、「昔は良かった」「すごい奴がたくさんいた」「それにくらべ今はなんだ」「もうジャズもおしまいだ」みたいなことを、濃すぎるコーヒーかなんか飲みながら暗く語り合う対談集になりそうな気がするのだが、そこは一筋縄ではいかぬこのお二人、寺島靖国氏と安原顯氏のこと、のっけから「パーカーは亡霊だよ」などという、うれしいお言葉が出てきて、この本はタダモノじゃないぞと思わせる。

 1950年代、60年代にジャズを聴きまくった人は少なくないだろう。今でもその頃のジャズのみを聴くファンは多いだろう。そういう人達はその時代にどっぷりとひたって「ああ、こんな音だすヤツはもういないよなあ」などと呻き、寝転がって天井を見上げているに違いない。クラシック界でいえば、フルトヴェングラーだのコルトーだのといった巨匠しか認めないという方達のようなものである。

 寺島、安原両氏とも、50年代60年代のジャズの聴き方はハンパではない。それこそ浴びるように聴いているのだ。しかし、彼らがスゴイのは、今現在のジャズもガンガン聴きまくっているところである。彼ら二人とも決して後ろ向きにジャズを聴くことはない。常に前向きであり、今に生き、今を聴いているのだ。ジャズは、音楽は、変遷していく、ということを頭よりも体で感じ、知っているのだろう。

 あの頃のジャズ・ジャイアンツが物凄い奴らだったことはもちろん認める。そんなことはあたりまえなのであり、彼らは天才達なんだ。なんだが、現在それらを聴いてみるとどうしても今の空気となじまないところがある。古臭く感じてしまう。感じてしまうが、やはりあのジャイアンツを超えるジャズマンはいまだに現れていない。いないが、じゃあ諦めるかというと諦めない。そうして毎日毎日日常的に新しいジャズを聴くのだ。そうでこそ今日の視点でジャイアンツ達を語ることができる訳だ。たとえばドストエフスキーは凄い。あれを超える作家が現在いるかというと、いない。いないが現代の作品はもちろん日常的に読み続ける。現在を知らなくて過去が語れるものか、解るものか。と、まあこんなハナシが次から次へと尽きることなくエネルギッシュに語られていき、読んでるこっちもついつい一緒に話しているような気になってしまい、そうよそうよ、だいたい芸術文化というものは天才が一人いれば事足りる、というものではないんで、そのまわりにウロウロしてるそんなに天才じゃあないかもしれない人もいっぱいいて、でもそういう人の存在も必要なんで、そういう人達が天才よりもおもしろいなんてことも結構あるわけで、まあそれがぜんぶごろごろごろごろ時代を転がって変遷していくわけで、時代を転がっていくうちにスゴイ奴になった、なんてこともあるんで、マイルスだってパーカーだってはじめっからジャイアンツだったわけはないんでして、今の視点からみるからこそジャイアンツなんで、今の人達だって未来から見ればジャイアンツになるのかもしれないし、そういうところに光りを当てると人生なかなかおもしろくなるかもしれなくって、クラシックはベートーヴェンとモーツアルト、ジャズはパーカーとマイルス、他はいらない、なんて言ってる人達はテラシマさんとヤスハラさんの会話にちょっと加わってみたらどお、なんて言いながら気がつくといつのまにやら自分が会話にしっかり加わっていたりして。でも本当に加わったらこのお二人のパワーに負けてエネルギー切れをおこしてしまい、きっとバカにされるであろうから、こうして本になったものを読んでいるくらいで丁度よいのかもしれない。でも、いつか会話に加えていただけるよう日々精進いたします。 (bk1ブックナビゲーター:廻由美子/ピアニスト 2001.07.25)

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ドミンゴがこれまで演じてきた数々の役について語る。彼の芸術の秘密がここに。

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 イギリスの名優、サー・ローレンス・オリヴィエはかつてドミンゴのオテロを観てこう言った。「この男は私と同じように巧みに演じるばかりか、歌まで歌うのか!」
 プラシド・ドミンゴは今春3000回目の舞台に立った。オペラで歌った役の数は80以上にものぼる。レコーディングやコンサートも入れると何と114を数え、これは前人未到の大記録である。

 ドミンゴは歌手として40年間、輝かしいキャリアを築き上げてきた。後半の20年間はまさに「オペラの王」として、世界のオペラ界の頂点に君臨してきたのだ。「ビロードのような声」と評されるその声は表情豊かで陰影に富み、あらゆる役を可能にする。その演技力は抜群であり、常に演出家たちを驚かせてきた。そして舞台映えのする恵まれた容姿。どんなテノールもドミンゴにかなうわけはなかった。そして彼はどの役にも突進し、我を忘れて没頭し、次々と役を自分のものとしていったのだ。指揮やピアノも見事にこなすドミンゴは、その人一倍明晰な頭脳でもって役を分析し、理解し、彼にしか出来ない方法で役に光を当てていった。本書はドミンゴの役に対する真摯な態度と深く鋭い洞察力を示す証である。

 たとえば「椿姫」のアルフレード役のことは「歌にも演技にも、そして立ち居振る舞いの優雅さが要求され、それでいてヴィオレッタに、あなたの為ならなんでもするわ、と言わせるような男っぽさを持ち合わせていなければならない」と言い、また強くて野蛮に演じられることの多い「カルメン」のドン・ホセ役については「誇り高く、とても控えめ。だからまったく正反対の性格をしているカルメンに出会った瞬間にドン・ホセを襲った沸々とした感情が私にはわかるのです」「アングロサクソン系の批評家は、ドミンゴの演じ方では弱すぎる、とよく批評します。しかしこれはラテン系の男がいかに強い絆で母親と結ばれているかを理解していないからです」と、一種のマザコンであるドン・ホセの内面にスポットを当てている。ドミンゴの演技力を世に知らしめた「オテロ」についてはこう語る。「ヴェルディのオペラはシェークスピア劇よりも進行が速いので、感情を爆発させるタイミングはできるだけ遅らせたほうがよい」「劇全体の状況か、オテロの内面を表す状況かによって、声の音質を変えなければならない」「最終幕では、歌の難しさなどには目がいきません。ただ自分を役に取り込んでオテロと一体化し、オテロその人を感じるだけです。見ている人もオテロになります」

 三大テノールとしてパヴァロッティ、ホセ・カレーラスと共にあちこちのスタジアムでコンサートを開き、暗譜もままならないような状態でニヤニヤ歌い、どうもフヤけてしまった感の拭えない昨今のドミンゴであるが、ことオペラとなるとまるで新人のような謙虚な態度でリハーサルに臨むという。やはりドミンゴは「三大テノール」の一人ではなく、「オペラの王」なのである。 (bk1ブックナビゲーター:廻由美子/ピアニスト 2001.07.11)

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「クラシックってなんだか面倒臭そう」なんて思っている人にこの本を。恐怖心をとる入門書

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 クラシック音楽に対するオソレというものはどうも根が深いようである。
 「退屈するんじゃないか」「難しいんじゃないか」「2時間もじーっと坐っていられるだろうか」「ちょっとでも音をたてたらまわりから矢のような視線でニラまれるんじゃないか」などなどの疑問がモクモクと黒雲のように湧いてきて、「やっぱりめんどーくさいからヤメヤメ」ということになる。
 こんなことではクラシック音楽の人口は減少の一途をたどるではないか。とにかくまず興味をもってもらわないと・・・という訳で『What is クラシック』である。

 コマーシャルでつかわれている数々の名曲や、ポップスにアレンジしたことでヒットした曲の紹介でまずクラシック音楽に対するオソレをとりはらい、「眠くなったら眠ればよろしい。眠るための曲もある」と、こちらの気分をリラックスさせてくれ、しかも「でも、コンサート会場ではイビキは御法度」と、やんわりと礼儀作法をも教えてくれる。また、せっかく聴きたい曲のCDを買おうと思っているのに、作曲者も曲名もわからない時はどうするか、など、レコード店の有効なる使い方も伝授してくれるし、「お目覚めにはこんな曲を」とか「失恋したときはぜひコレを」などといったやさしい心遣いもうれしい。また主なる作曲家や演奏家についてのミニ知識といった少々学術的な面も充実しているし、もちろんコンサート・チケットの買い方なども忘れてはいない。これ一冊あればクラシック音楽もコワくなくなる、まあ言ってみれば「冠婚葬祭入門」のような本である。

 クラシックのコンサートに行きなれている人からみればチャンチャラおかしいことかもしれないが、やはりこういった本は必要であろう。「行ってみたいが、よくわからないからヤメる」ということは実に多いのであって、たとえば「相撲に行きたい」と思っても、「チケットはお茶屋で買うのか」「お茶屋とはなんぞや」なんておもっているうちに面倒臭くなってしまい「やーめた」ということになるのだ。ロック・コンサートしかり、ジャズ・ライヴしかり。もうこの際「What is 相撲」とか「What is ロック」とか「What is ジャズ」とか「What is カブキ」とかつくられるのもよろしいでしょう。粋にふるまうには野暮の道をまず通らねば……。(bk1ブックナビゲーター:廻由美子/ピアニスト 2001.03.29)

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モーツァルト最後の年

2001/03/19 15:15

最晩年のモーツアルトは何をしていたのか?最後の日は?克明な資料にもとづく「アマデウス」の真実。

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 1980年代にやってきたピーター・シェーファーの「アマデウス」、とりわけ映画は大成功を博し、ヴォルフガング・アマデウス・モーツアルトは一躍時代の寵児となり、それまでのクラシック界のチャンピオン、ベートーヴェンを倒し、モーツアルトの笑い声は世界中の人々の耳に焼き付いた。

 映画「アマデウス」の功績は大きい。それまでクラシックなど聴かなかった人達、ロックにしか興味のなかった若者達がモーツアルトをファースト・ネームで呼ぶようになり、彼と彼の音楽を愛するようになったのだ。

 しかし同時に「アマデウス」の功罪も決して少なくはなかった。あの映画とモーツアルトの人生とはほとんど何の関係もない。1985年、すなわち「アマデウス」が封切られた直後に、この本の著者であるランドンは、ロンドンの「ザ・サンデー・タイムス」に長文の「アマデウス」評を載せた。映像という圧倒的な手段で世界中の観客の脳裏に「アマデウス像」をインプットし、本物のモーツアルトを吹き飛ばしかねなかったその頃の状況にメスを入れようとしたのだろう。そしてその数年後、ランドンは歴史家としての威信をかけて反撃を開始する。その第一弾が本書の刊行であった。

 映画「アマデウス」によって新たにモーツアルトの賛美者がふえたことは、別に悪いことではない。むしろクラシック界にとっては歓迎すべきことであろう。その人々を含めたモーツアルトの友に、映画とはちがった天才作曲家の晩年の真実を伝えること、同時代に書かれた真正な記録にもとづく報告をすること、それがランドンの意図であったと思われる。

 もちろん「アマデウス」のように、お金と才能をふんだんにかけたエンターテイメント作品は、この資料をひも解くような本を読むよりもはるかに心地よいだろう。しかし、真実に限りなく近いモーツアルトの姿は、小説的な作り話よりもはるかに小説的であり、映画のアマデウスよりももっとアマデウス的であるのだ。 (bk1ブックナビゲーター:廻 由美子/ピアニスト 2001.03.19)

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獰猛で冷静。頭脳的で本能的で。限り無い想像力を駆使し戦い続ける中田英寿の「進化」の記録。

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 中田英寿、19歳
 「ブラジルを小バカにするようなプレーがしたい」

 中田英寿、20歳
 「いつも観客がため息をもらすようなプレーを見せたい」

 中田英寿、21歳
 「僕はこれからも自分のペースを変えることはないと思います。自分の仕事に静かに向き合っていくと思う。仕事っていうのは、もちろんサッカーなんだけど、勝たなきゃ未来もないしね」「飽きちゃうほど練習もしなくちゃならないし」「それでいつも考え込んだり、自分自身に怒りを爆発させたりする。」「どう考えても僕なんかぜんぜん格好良くないですよ」
 「自分の力が海外でどこまで通用するのか、凄く興味がある」「でも、寂しくなっちゃうよね」「もし海外で生活することになれば友達はいないし」・・・・・・・・
「でも、僕はひとりでも強いからね」

 NAKATA 22歳
 「どんなに甘やかされていたのか、今になって分かった」
 「結局、人間は一人だから。自分自身でやるしかないんだよね。サッカーも同じ」「パスもシュートも最後は人に頼ることはできないでしょう。やっぱり人間、最後は一人だからね」

 NAKATA 23歳
 「自分のプレーをしたい、そんな思いはどんどん強くなってくる」
 「今、練習を休んだら、それは逃亡だよ。ゲームに負ける以上に最悪なこと。ここでやり抜かなかったら、敵どころか味方に見放される」
 「とにかくもう一度サッカーをじっくりと見つめ直す時期なのかな」

 「時間を遡ることはできないでしょう。だから、人は前を向いて進むしかない」
 
 ジョカトーレ(サッカー選手)中田英寿の19歳から23歳。その「進化」を書き綴った感動的な一冊である。普通なら、のうのうと大学生活をおくっているであろうこの時期の若者から「プロとしての生きざま」を我々は学んでしまう。
 NAKATAのことをヤケに騒ぎ立て、あるいは敵対視し、誤解を招く報道をし、彼を傷つけて口をつぐませてしまう、というプロにあるまじき行為をした日本のマスコミは、本書を読んで猛省されたい。 (bk1ブックナビゲーター:廻由美子/ピアニスト 2001.02.03)

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紙の本自分がブランドになる

2001/01/26 18:15

存在そのものが「ブランド」である中谷彰宏と石井竜也が語る「自己ブランド作りの法則」。

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 たとえばルイ・ヴィトンのバッグを持っても「それ、見よ、あそこにルイ・ヴィトンが行く」と言われたらオシマイだしカッコ悪い。所持品のみがそれぞれのブランド力で光り輝いているのに、持ってる本人はブランドに頼るばっかりで自信がなく、オドオドしてる、なんてのはブザマだし、すごくみすぼらしく見えてしまう。
 バッグやクツに負けてどうするのだ。服に着られてどうするのだ。
 そうだ、ブランド力をつけなきゃ。自分自身がヴィトンやグッチにまけないブランドにならなきゃ。
 そこでこの本『自分がブランドになる』である。

 国民的バンド「米米CLUB」を経てソリストとなり、現在はプロデューサー、監督としても大活躍の石井竜也。博報堂のCMプランナーから独立し、以後200册ちかくの本を執筆、その他舞台、ドラマなどにも活躍の場を広げる中谷彰宏。このブランド中のブランドであるお二人が秘伝「ブランドの法則」を一挙に公開!なのである。

 「自分が好きなことをやっていると勝手にそれがほかの誰にもないポジショニングに行く。こういうのが世間にウケるのではないかと思ってやりはじめると、そこには大勢ライバルがいる」(中谷)
 フムフム、楽しくやっていればマチガイないわけですね。

 「はやっている中華料理店はメニューが少ない。ダメなところはハンバーグまであるがキメ手がない。大体この店に行ったら天津丼がうまいということになれば、人はそこに集中する。天津丼650円という立派なブランドができるわけだ」(中谷)
 なるほど、小さくても手堅くキチッと仕事をするのがブランドへの道ですな。
 
 「自分がプロデューサーでプロデュースしていても、自分もプロデュースされる楽しさを共有できなければ、それは決してブランドにはなり得ない」(石井)
 仕事仲間とはもちろんのこと、お客さんとも共同作業してる感覚をもつことが大切ね。
 
 「あの人に頼めば、必ずこの程度のモノができてくるという信頼度をかち取るまでは、大変な努力が要る」(石井)
 やっぱり地道な努力の積み重ねってことですね。

 人生の教訓としてもなかなか役立つ言葉の数々が並んでいる。自分の好きなものを見つけ、コツコツ積み上げ、誇りをもち、実力をアップさせて信頼を得、カリカリ怒ったりせずに他人にはつねにやさしく、いいところは必ずホメ、自由な感覚を持ち・・・・・・。
 あー、私にはとてもできないが、それがデキたからこそこのお二人は「ブランド」になり得たのでありましょう。さすが、であります。 (bk1ブックナビゲーター:廻由美子/ピアニスト 2001.01.27)

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紙の本天井桟敷の人々

2001/01/19 15:15

人生を変える映画「天井桟敷の人々」。監督へのインタヴューもまじえ様々な角度から楽しむ。完全シナリオ付

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 名画と呼ばれるものは数あれど、この「天井桟敷の人々」ほど名画の名にふさわしいものはないだろう。これは1943年から44年というナチ占領下時代のフランスでつくられたきわめつけの大作である。
 大作、といってもハリウッドの「クレオパトラ」なんぞを思い浮かべないでいただきたい。「クレオパトラ」は制作費の天文学的高さやスキャンダルの多さやエキストラの数や主人公クレオパトラのの歴史的知名度の高さなどから見れば確かに「大作」ではあったろうが、あとにのこったものは、20世紀フォックスの破産と砂ぼこりくらいであった。

 それにくらべ、この「天井桟敷の人々」は名匠マルセル・カルネ、詩人ジャック・プレヴェールの「詩的リアリズム」コンビにジャン・ルイ・バロー、アルレッティなどの名優達をそろえ、美術にも撮影にも名手を呼びかけ、全員が才能を惜し気もなく出し合い、きらめかせ合い、エネルギーを噴射させ、後世に残る傑作を創りあげたのであった。どだい映画にたいする考え方がハリウッドなぞとは違うのだ。「天井桟敷の人々」にあるのはバルザックの、ユゴーの、デュマの世界なのだ。

 著者、山田宏一氏は中学生のときにこの映画の洗礼を受けてしまい、以後、映画に狂う(失礼!)人生となったそうである。
 本書の前半は、山田氏のこの映画に対するアツい思い、この映画のつくられたいきさつ、カルネ氏や美術監督トローネル氏へのインタヴューなど。後半は完全シナリオとなっていて、外側からも内側からもこの映画に入りこめるようになっているしくみ。プレヴェールの書いた、あの名台詞の数々がじっくりと読めるのもうれしい。

 「哲学者は死を想い、美しい女は恋を想う」
 「貧乏人なみに愛されたいなどと・・・だめですよ、貧しい人から何もかもうばっては」
 「やかましい!無言劇が聞こえんぞ!」
 
 名優たちの口からまるで音楽のように流れ出ていた言葉が、活字を通してゆっくりと体の中にはいってくる。何べんも味わい、咀嚼してしまう。

 山田氏がカルネ監督にインタヴューしたのは1965年のパリで、そのころはヌーヴェル・ヴァーグの旗手、ジャン=リュック・ゴダールが若者達から神様のごとくあがめられており、巨匠カルネは隅っこにおいやられていた感のあった時代であったということだが、なに、基本がなく、若さのもつある種の才能で一世を風靡したゴダールがあっというまに古くなってしまったのにくらべ、才能プラス基礎技術に秀でていたカルネの作品は時を超えて燦然と輝き続けているではないか。小手先でベスト・セラーをねらったものはロング・セラーにはならないのだ。世間は正直である。こわいこわい。 (bk1ブックナビゲーター:廻由美子/ピアニスト 2001.01.21)

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「仕事と家庭は両立できるか?恋は?」今と変わらぬ大正時代の働く女性の悩み。

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 評判を呼んだ「近代女性作家精選集」第一期に続く第二期の刊行である。
 林芙美子、宇野千代、堤千代、吉屋信子など名前を聞いただけで心踊る女性作家たちがずらりと並んでまことに壮観。ゆまに書房に拍手!である。
 各々一万円也とはチト高いが、完全初版復刻版であり、うしろについている広告の「集新話情」(もちろん右から読みます)だの「火の如く炎の如き戀愛小説出づ」などという文字を眺めているだけでもワクワクしてしまうシロモノであり、こういう本はぜひ公立図書館などでそろえていただきたい。昨今の図書館はそこらへんでゴロゴロ売っている寿命三ヶ月くらいのベストセラーを同じものばかり30册も買ったりしてもう貸しビデオ屋状態のところが多く、全く情けない。

 さて、この田村俊子、どちらかといえばフレーズの短いブツブツ切れる文章で、頭は良いが色気に乏しいといったところ。しかし表題作の『彼女の生活』をはじめとし、「仕事と家事の両立のむずかしさ」「仕事に対する夫の理解のなさ」などが主なるテーマとなっており、大正時代も今も女性の悩みはひとつも変わっていないことを痛感させられる。
 なんだか文学者というよりはジャーナリストといったほうがぴったりするなと思っていたら、この田村、ヒモのようだった最初の夫、田村松魚とはサッサと離婚し、新しい男を追ってバンクーバーへ行き、そこで18年間も暮らし、その間編集などの仕事をし、彼の死後は中国へ行き、そこで「左俊芝」という中国名を名乗り、中国文壇で劇評やエッセイなどを書いていたという。
 『彼女の生活』およびここに納められた数編は、最初の夫と別れたり新しい男と恋愛したりしていた時期に書かれたらしく、書くものよりも実生活のほうがよほど文学的という生活だったようで、文学的体力や集中力に乏しいといった感は否めないが、この時期をバネに仕事も人生もスケールを大きくしていった彼女を思うとなかなか興味深いものがあり、現代女性の先駆者の実話を聞くようでおもしろい。
 ころんでもタダでは起きないというタイプの彼女は文学者というよりは恋多き、しかしドライで美人のキャリアウーマンという感じであるから、現代に生きていて、数々の体験談をまじえた講演会なぞやったらさぞおもしろかったことだろう。 (bk1ブックナビゲーター:廻由美子/ピアニスト 2001.01.18)

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