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くりはら夏洋さんのレビュー一覧

投稿者:くりはら夏洋

4 件中 1 件~ 4 件を表示

猫嫌いにもいろいろあって・・・。

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 以前、住んでいた家の近所に、奇妙なノラ猫が出没していた。愛想のいいめすのキジ猫で、猫に詳しい友人によると妊娠しているらしかった。大きなお腹を揺らしながら頭を寄せてくる様子はたしかに可愛く、何回か逢ううちにせっせと残り物の魚などを与えるようになった。

 実は私は猫が嫌いである。まあ一口に猫嫌いとは言っても猫嫌いにもいろいろあって、私の家族はみなそれぞれに猫嫌いである。父は犬好きが高じて、何の罪もない猫を敵視しており、母は僅か十センチほどの隙間を猫が難なく通り抜けるのを目撃して、その蛭のような体の伸縮さかげんに生理的嫌悪感を覚えたらしい。家の地下の車庫に、死期を迎えた老猫が迷い込んで来て、工具の箱の影にもぐりこんだまま死にかけていたのを見つけた夫は、猫という生物にいわれのない恐怖をおぼえたらしく彼の猫嫌いは決定的になった。そう言う私は、というと別に理由もなく猫を嫌っているわけではない。わが家のベランダには鳥の楽園があり、私も幾つかの鳥籠で文鳥やインコを飼っていた。しかしちょっと油断をすると侵入者がやってくる。それが猫だった。どこかで飼われている猫、自由に歩き回れるようにと家のどこかに飼い主が取り付けてくれた猫用のドアを抜けて、奴らは目を真っ黒にしながら獲物を探す冒険にでてくる。その目的地というのが、わが家のベランダだった。猫仲間の間で噂になっていたのだろう。奴らはほんとによくやってきた。鳥籠を揺らし、細い隙間から前足をつっこみ、鳥たちを怯えさせながら、猫の顔は狂喜しているように見えた。わが家の鳥たちは日光浴するにも命懸けだったワケだ。まあ直接的な被害にはあわなかったものの、そいういうわけで私は猫にはいつも危機感を感じてしまう。

 その私がこともあろうに冒頭に書いた妊娠猫に餌をやるようになったのは、彼女にまつわる一つの出来事があったからだ。ある日買い物から帰った私は、玄関のドアを開けてギョッとした。あの妊娠猫が、ちょこんと玄関に座って出迎えてくれたのだ。彼女はわたしの顔をみてにゃあ、と鳴いた。私の留守のあいだ義母が細く開けていたドアの隙間から入り込んだらしい。あわてて鳥籠を見に行くと、鳥たちはいつもと変わりなく無事だった。妊娠猫は鳥に気づかなかったのか、それとも興味がなかったのか。間抜けなのか寛大なのか、大物なのかわからないが、妊娠猫は昔は飼い猫だったのではないかと私は思った。妊娠猫はあまり白身魚が好きではないようだった。鯵や鰯をよく食べた。やたらに人に慣れ、あちこちで餌をもらっていた。あれから五年、私は今猫と暮らしている。相変わらず猫はあまり好きではない。けれど猫にもいろいろ個性があって面白いと思うようになった。ちょっとした表情なら読めるようになっていた。引っ越してしまったので、あの妊娠猫には最近逢っていない。どこかで子猫を産んだだろうか。
★家庭実用>ペット

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あなたの決心がつくまで

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 あなたにあった方法が必ず見つかる英国風リラクゼーション? 実は私は自分を癒すことが結構好きである。自分の体調にはすこぶる敏感で、あまり無理はしない。したがってストレスを溜めることはあまり無い。と言うことはストレスにあまり免疫が無いということか? と、にわかに不安になってしまった私は、来るべきストレスの為にこの本を読んでおこうと思った。そうしたら、見事に目からウロコが落ちたのです。

 しあわせ、という言葉があります。たとえばお金があるとか、友人に恵まれているとかいい仕事をしているとか、素敵な家庭を築いているとか、いろいろな基準ではかられるものだけれど、自分の心の状態によっては、たとえ天国のような状況にあっても、心から安らげるとは限らないということです。心の状態が人生を左右する、という至極あたりまえの言葉に頷きながら、はたと気づきました。面白いことに、人生の節目にあたる記憶を辿ってみると、鮮やかによみがえる出来事は、そのほとんどが客観的な出来事そのものではなく、その時の気持ち、心持ちのほうであるということ。

 よくある話なのです。二人の仲は順風満帆、お互いに未来を疑うことなんてありませんでした。二人で行った旅行先で、カメラマニアの彼がレンズを向けた犬に追いかけられた姿を見て、その姿がたまらなくて私は笑いました。思い切り馬鹿にして笑いました。彼はちょっぴり傷ついた顔をしました。その顔を覚えています。その顔を見て、私がずきんとしたからその、ずきん、の痛みだけ覚えているのです。時は流れ様々なことがあって、もはや順風満帆なんて言葉が消え去った今、そんな些細なことばかり覚えているのです。他人からみればよくあるシチュエーションで、第三者から見れば陳腐なだけの筋書きです。

 ストレスを溜めないなんて嘘でした。けっこう無理してました。ストレスに気づけないほど、押しつぶされてます。もう若くはないし、いろんな後悔をかかえているし、涙のわけが自分でもわからなかったりします。この本の素敵なところは、多岐にわたるアプローチ。精神的、肉体的、栄養的、自己選択、感情的、環境的、霊的と、なんと七種類。あなたに合った方法がかならず見つかる英国風リラクゼーションのすすめ、と帯にあるように、さすが英国、洒落てます。読み物としてもなかなか面白い。それに具体的な処方と、所要時間と、その方法を実践するのに必要なものが明記されていること。たとえば、カフェインを控えようとする所要時間—あなたの決心がつくまで、なんて気のきいた言葉が。

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紙の本言葉は静かに踊る

2001/05/31 13:24

こんなブックガイドはめずらしい

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 季節はずれだが、桜の話をしようと思う。

———小学校の校庭に咲いている桜を見ると泣ける。これからどんな人生が待ちかまえているかわからないのに、子どもたちの歓声が耳に響くから。———

 と、この本で筆者は書いている。

 私も小学校の校庭に咲く満開の桜をみると、胸にあふれるなにかがあるのである。私にはそれが何だかはっきりとはわからないが、学校とは子どもたちの生が集約された場所である。そんな場所に桜を最初に植えたのって、いったい誰なのだろうと考えることがある。いまや校庭に桜の樹があるのはあたりまえのように思われているし、進学や入学式のシーズンに淡い花を咲かせるこの花と樹は、私たちの魂に深く根づいている。初々しい新入生の頬の色と、咲き始めた桜の蕾の風情は、少し類型的だが確かに趣深いものがある。

 でも私は、桜の花があまり好きではない。盛りを越えて枯れてしまった花を、いつまでも枝に残しておくということをしないこの花は、醜いものを観たくない、臭いものにフタという日本人の心の側面であるように思う。醜い姿のまま堂々と存在する強さを、桜の花は持っていない。花を散らせ、踏みしだかれ、その踏みしだかれた花を恥じるように、さらに花を降らせる。桜の樹の下は葛藤の空間である。美しいものや正しいものの裏には、醜いほどの葛藤や負の感情があるということを知って行かねばならない人生が、子供たちを待っている。

 この本はブックガイドである。柳美里の本に対する思いが伝わってくる一冊である。紹介されている著作は百冊以上に及ぶ。私はものを書いている人間として恥ずかしいことだが、あまり本を読まない方だ。しかし、本屋活字に執着する狂気のようなものを自分の内に飼っていることを知っている。これは私だけの癖で、一緒にしてしまっては筆者に失礼にあたるかもしれないが、美術館や映画館に行くとそれを実感することがある。絵や彫刻を観にきたはずなのに、目が勝手に活字を追っているのだ。絵よりもタイトルや字幕の文字を見て、脳が喜んでいると感じる。嗜好性があるのだ。かといって映像を見たくないわけではない。

 わたしは本に恋をしている! とこの本の帯はうたっている。柳美里のファンであれば彼女のエッセイとして読んでもいいが、ちゃんとブックガイドとしての実用性も備えている。冒頭の桜の文章は、今は亡き向田邦子の作品に寄せて書かれた一節である。読んでいない本を読みたくなる。読んだ本は読み返してみたくなる。そんなブックガイドはめずらしいのではないだろうか。

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占いと人間の心理

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 占いは一体いつどこで生まれたものか。誰もその正解を得ることは出来ないが、人は大地に立ち、雨に打たれ、風に向かい、自分を取りまく自然のなかに、ある種の法則を見いだした。天を見上げ、星や虹を見たのだ。人は確かに様々なものを見たが、何かが「見える」と同時に「見えない」もの。「見えざる」ものの存在を知った。目に見えるものだけがすべてではないのかと、疑いを抱いたときに占いは生まれたと、私は思うのだ。
 たとえば水を眺める。きれいな湧き水でも小川でもいい。きれいなものに感動するとき人は水が水であることに何の疑問も抱かない。しかし、その水が理由もわからないまま、あっという間に嵩を高めてゆき、目の前でふくれあがったとしたら、人はその水に対して畏怖を抱くに違いない。洪水が起こって流されてしまうかもしれないと思う。どこまで増えるのか、予想がつかないから。それは人が有限の存在だからである。人は生まれながらにして、いずれは死ぬことが決まっている。有限であるものは無限のものを無条件に恐れるのである。それはたとえば終わることのない道である。どこまで行けば終われるのか分からない、苦難である。だから有限はむしろ希望であると私は思う。この先、ナノテクを駆使した、老いず、死なないシステムが人の手によって開発されたとしても、人は生まれたら死ぬべきであると思う。なぜなら人生が希望に満ちることがある(あえて、いつも満ちているとは言わないが)のは、人が有限だからなのだ。閑話休題、人は自分の時間が有限であるから自分を取り巻く環境のなかに、ある種の予兆を読もうとした。前兆には大きく分けて二つある。瑞祥と災異である。むずかしく言ってもピンとはこないので、瑞祥と言えばたとえば茶柱が立つことで、災異とは墓参りに行ったら墓の前で鼻緒を切って転ぶことである。縁起がいいとか悪いとかいわれるアレのことだ。その昔、オーメンというオカルト映画があった。あのオーメン(予兆、前兆)とは主に災異の方だけを扱っていて、瑞祥はほとんど無視されていたように思う。まあオカルトだから仕方ないのかもしれないが、この本を読めばわかるように、オーメンとは悪いものばかりを言うわけではない。それだけでなく予兆から始まった占いの辿った道程がこの本に網羅されている。その経緯は非常に多岐にわたっている。単純に自分の運勢を知るという観点からでなく、冷静に占いと人間の心理を辿ってみたい人に、ぜひ薦めたい一冊である。

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