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あっちさんのレビュー一覧

投稿者:あっち

10 件中 1 件~ 10 件を表示

紙の本

人間釈尊の生活感と人生観がみえる

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本書は、シャカブッダつまり人間釈尊の晩年の言行を伝承したパーリ経典の、日本語訳。
大乗経典では超人的で崇拝の対象になるようなブッダが描かれているのに比べれば、パーリ経典のほうが史実に近いといえる。そこに記録されているのは元来のブッダの姿だ。

もっともこのパーリ経典ですらも、後世になって付け加えられたとおぼしき創作が混じっていたり、伝承の過程で誇張されたとおぼしき箇所があったりするので、眉唾ものではある。後世の口伝や布教教化の過程で、釈尊がいわば「神格化」されてしまったからである。
まず、一見して判るような、科学的にありえない叙述がある。例えば、ブッダは死期が選べ、寿命が意のままに延ばせる、というような叙述がそうだ。
つぎに、釈尊が説いた元来の内容であるところの原始仏教について理解が進んでいれば、原始仏教と矛盾するかもしれない疑問のあるエピソードに気がつくかもしれない。
このような思考判断力を身につけるためには、同じく岩波文庫から出ている中村元先生訳の「ブッダのことば スッタニパータ」や「ブッダの 真理のことば 感興のことば」なども読んでおくとよいだろう。またそれらの内容が思想哲学的で抽象的な思考が多いのに比べると、本書は具体的で生々しいエピソードが語られているのでかなり読み易いと思う。

この経典から垣間見えるのは、釈尊の人間らしい温かみのある姿だ。そして、元来の仏教の本質である。
思想家としての釈尊と、思想哲学としての仏教である。

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紙の本

紙の本ツナグ 想い人の心得

2022/12/25 15:33

生者は故人のために何がやれるか

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前作では、各依頼人のエピソードが激鬱で、故人に会うことで依頼人が浄化されるというプロットで、感動やカタルシスを呼び起こす波をつくっていた。途中で落ちこむほどに、感動曲線は大きくなる。だから、依頼人の物語の叙述パートはきわめて抑鬱展開だったのである。
それが今作では、各エピソードは比較的ライトになって、かなり読み易い物語になった。作者のライフステージの変化もあってか、温和な作品になっている。
一般受けする読み易さになったと同時に、前作ほどには衝撃的で感情を揺さ振る物語でなくなったということでもある。

また、前作では「生者のわがままで故人に会って、故人を利用しているのではないか?」という疑問提起があった。だから今作ではこの問いを超越して、依頼人よりもむしろ故人のほうが浄化される・浮かばれる物語を、作者はあえて書いたのだと思った。

前作が映像化されたことで、その映像作品に引っ張られたのではないかという印象を受けた。キャラクターづくりや描写が視覚的に書き込まれすぎている感じがした。
それは本来ならば、映像化する監督やプロデューサ、役者などがやるしごとである。その領分を侵してしまっているような気がする。また、記述されていないところは読者が独自に補って想像する、小説の鑑賞のたのしみがうすれたように思った。
前作の映像作品のファンに配慮しすぎたところはあったのではないか。またもしかすると、作者や編集者、出版社としても、あわよくば今作も映像化、と思ったのかもしれない。

前作で使者(ツナグ)の素性は明かされたので、今作では使者である歩美の視点での物語も、シリーズを通じて同時に進行する。ただ、それも完結した感じがせず、偽終止みたいな終わりかたをしている。もしかすると、第三作も出したいのかもしれない。

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紙の本

紙の本塩狩峠 改版

2022/10/30 13:55

「犠牲」で成り立つ世界

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表題は「塩狩峠」であるが、列車事故に関する記述は終盤にいくらかあるにすぎない。
本作の大部分は、自己犠牲により人々を救った彼が、いったいなぜそのような人格に育ったのか、生育環境や人生経験を描いている。

本作が描いているのは、犠牲で成り立つ世界観だ。作者をはじめクリスチャンは、イエスが処刑され犠牲になったことで現在の我々が生きている、という世界観をもっている。そして、肉体が死ぬと長い眠りにつくが、いずれは創造主の国で復活し永遠の命を享ける、という死生観だ。
過去を基盤にして現在がある。将来の世界も、過去と(将来の時点で過去である)現在を基盤にしてできあがる。事故を知っていようが知るまいが、塩狩峠を多くの人が日々通過する。塩狩峠での死亡事故、彼の犠牲があったうえで生きているのである。
我が子をなして先祖代々、というのとは儒教的発想とは異なる発想で、犠牲の意味や、永遠の命ということが捉えられている。

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電子書籍

電子書籍青空と逃げる

2022/10/29 15:59

不運な被害者を自己責任・自助におしこめてよいのか

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早苗と力の母子の避難生活、逃避行の物語。叙述は、この二人で視点を行ったり来たりしながら語られる。
作中で避難生活の時間が経過するとともに、少しずつ事情が述べられていき謎が深まる。終盤になって一気に解き明かされるのはさながらミステリ小説と共通しているところがある。

悪いことをしていないのに不運に巻き込まれた母子二人はいわば被害者、被災者だ。
日本社会の人々は基本的に無関心ではある。実際に、現実の我々日本社会では、自己責任論や自助努力が異様に強調されている。追い込まれても助けを求められなかったり、迷惑をかけたくないと思ったり、惨めな思いをさせられたりすることが普通だ。

が、それでもなお世の中には、こうした事情を慮って手助けをする個々人もいる。
本作でも二人は、避難先の地元でさまざまな人々に助けられる。他人に云えない事情だろうと配慮して深く触れない人もいる、詳しい事情を訊きもせずに助ける人もいる。
引け目を感じたり辛抱をしたりしてきた二人だが、次第にたくましくなり成長していく。

また、いくら母子だといっても別々の人だ。何もしていなくとも通ずるというわけではない。我が子のことは母親だから当然よく解っている、というのは考えがあまい。
本作でも、早苗は力のことを存外に理解していなかった。疑心暗鬼が拡がる。
苦難を乗り越えて、自立性の高まる息子、そして深まる母子の信頼関係。

序盤の四万十での話からすでにわかるとおり、避難先の各地での人々や文化などが詳しくリアルに描かれているのも興味深い。

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紙の本

紙の本やさしい唯識 心の秘密を解く

2022/10/28 12:19

精神分析学としての仏教

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元来の仏教(原始仏教)は思想哲学である。思想哲学としての仏教を追究して精神分析学に至ったのが唯識(瑜伽行唯識学派)だ。
つまり「唯識」は、日本の大乗仏教にみられるような信仰としての仏教ではなく、精神分析学いわば医学と哲学の学際領域といえる。

『やさしい唯識』とはいうが、唯識は深く複雑難解であり平易にはなりえない。しかもインド哲学から中国経由で日本に入ってきた学問であるため、語彙・用語でさえも奇怪で馴染みがたい。本書は要点をかいつまんで解説した入門書程度のものだ。読んでも唯識に本当に精通することは不可能だ。
とはいえ、釈尊が求めた哲学的な原始仏教を、具体的・分析的に理解するのにも有用だろう。
自己洞察、自己啓発になる。

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紙の本

紙の本ブッダ神々との対話

2022/10/27 00:04

釈尊が実際に説いた元来の仏教の教義に近いエピソード

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本書の壮大なタイトルを見て誤解しないでほしい。
本書はパーリ仏典の『サンユッタ・ニカーヤ』の一部分を邦訳したもので、本書の続きは同じく岩波文庫で『ブッダ 悪魔との対話』として出版されている。すなわち本書は2巻立ての上巻に相当する。とはいえ『サンユッタ・ニカーヤ』自体が大長編であるらしく、この2巻でも全部ではないようだ。
本書で出てくる釈尊(ブッダ)はあくまでも、いわゆる人間釈尊である。大乗仏典では釈尊(ブッダ)が超人的に、いわば神格化されているが、本書はそうではない。
また、『サンユッタ・ニカーヤ』はさまざまなエピソードを含んだ大長編であり、「神々との対話」をしているエピソードは一部分にすぎない。その一部分を代表させて、訳者の中村元先生は本書に「神々との対話」という表題をつけた。本書の実際の内容をみると、神々だけではなく修行者やバラモンのような出家者も出てくるし、例えば王族のような世俗在家者に対しても説法している。
また登場する神々でさえも、例えばインドラ神みたいな超大物よりもむしろ、「前世は人間でした」みたいなのとか、山奥に住んでいる精霊みたいなのとかのほうが多かったりする。その神々も善神が比較的多く、釈尊も彼らの主張を必ずしも否定せず、いわば「おせちもいいけどカレーもね」的な話法も目立つ。
なので、本書の内容は決して「超人ブッダと神々との壮大なバトル」だとかではないので、購入等するならばあらかじめ知っておいてほしい。

さて本題である。
『サンユッタ・ニカーヤ』は大乗仏典と異なり、人間釈尊が説いた元来の仏教(原始仏教)に比較的近い。もちろん冷徹に考えれば、史実に基づけば釈尊が神々と対話したはずはないので、この経典も後世の創作を含んでいると思ってよいだろう。しかし、本書でてくる釈尊の言行は、釈尊が現実に説いた原始仏教に基づいている部分が大きいと考えられる。
これらのエピソードの舞台も、伝承された時代も、古代のことである。古代インドでは現代と異なり、ヴェーダの世界観と価値観は当然のこと、我々がいうところの科学的事実として捉えられていた。古代には、宗教や科学といった概念も区別もなかったのである。だから、神々が実在すると思っていて当然だし、人を含む動物の自我(霊魂)は輪廻転生するのが当然のことと考えられていた。その世界観・価値観で語られるエピソードなのである。
そしてこれらのエピソードをみてみると、釈尊の説法は相手が出家修行者か世俗在家者かによって異なることがわかる。出家者に対しては輪廻転生から解脱することを勧めるが、在家者に対しては「来世のために功徳を積みなさい」といったことを説いている。釈尊もヴェーダの世界観や価値観自体を否定したわけではなく、むしろ既存社会の規範に基づいていたことがわかる。それもそのはず、在家者は職業などしがらみがあるからこそ生きていけるわけだし、その在家者たちがいるからこそ出家者も生きていけるし、社会が成り立つわけだから。
とはいえ同時に、釈尊は、実際のバラモン教やバラモン達のやっていることに対しては批判的でもあった。例えば動物を殺して捧げて火(護摩)を焚いて儀式をやっても功徳にならないという。
固定実体的存在はない、諸行無常であり、我というものは存在しないこと。自己のことも周囲のこともよく観察して、よく注意して己を統制し、自身の行動に責任をもつことを、釈尊は説いている。きっと実際の史実の人間釈尊が説いたのも同様だったのだろう。
こうした教義が通底したエピソード群だから、本書を読むのも正聞熏習ということかもしれない。

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紙の本

紙の本文章読本 改版

2022/10/25 18:13

文章技法への論考は有用だが、右傾化した言説に注意

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本書は、文筆家を目指す者に向けたものではない。一般の日本人に対して、文章を書くときの心得を述べたものである。ごく普通の市井の人々に向けた本だ。
そして本書における最大の趣旨は、日本語は主語・主格をはじめとしてとにかく余分な部分を省く言語だと指摘、指導することにあるだろう。この点をはじめとして、著者の文章技法についての分析や論考は大いに参考になると思う。

しかし他方で、実際に本書を読む際には特に器をつけるべきことがある。
本書は、昭和初期の、第一次世界大戦と第二次世界大戦のあいだのいわゆる戦間期の、後半にさしかかるころに著されたらしい。なるほど、日本は戦争には強いが国際連盟では云々といったくだりがあるわけだ。
このように本書も、日本や東洋、そして江戸時代以前の昔のことを美化しすぎ、偏っているきらいがある。いわば、右傾化が始まっているのだ。例えば、江戸時代の寺子屋教育で行われていた素読を高く評価してみたり、日本人の自己主張しない内輪的なところを積極的に肯定したりする。「いまどきの若者は」という類の批判や、さらには、男らしく・女らしくあるべきだといった旨を述べたりしている。こうした言説はおそらく、当時の世にもウケたのだろうと思う。そうしてみると本書から、近年の安倍時代の政財界、マスコミ・出版業界、社会風潮をも省みさせられ、苦々しいものである。

本書は、文章を書くのには大いに参考になる。いまの我々もよく、饒舌で冗長な文章を書きがちである。「〜すぎる」の多用などといった誇張や、英語翻訳文みたいな奇怪な文章が珍しくない。

しかし著者の、悪気はなくむしろ正義感をもってした確信的な偏向的言説に対しては、大いに警戒して読んでほしい。おそらく、著者自身も著述当時は自分が偏向しているなどとは思っていなかっただろう。しかし言うまでもなく、日本が戦争に強いとか欧米を追い抜かしたとかいった認識は思い上がりだった。

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紙の本

意欲的だが洗練されておらず、初心者には難解で煩わしい難あり

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タイトルどおり「本気で学ぶ」ためのドイツ語学習書。
実用重視の大雑把さがなく、解りやすさや読み進めやすさなど読者に媚びることもない。

冒頭の第1課に入る前の序章での、発音の説明からしても、もうすでに本気に入っている。
多くの入門書では「基本的にローマ字読みでOKで、だいたい通じる」とか書いてあることが珍しくない。だから、「CD(音声)なんてつける必要ないのに」とまで豪語する人までもいる。
だが本書では、発音記号を用いて細かく説明してある。例えば、狭いエと広いエの区別や、オとエの中間音の発音記号も出てくる。
で、それはいいのだが、発音記号自体の説明も図表もないので、どのような口にすれば実際に発音可能なのかが判らず、読者は困惑すると思う。

本書では、動詞は不定詞(原形)から入り、つぎに人称変化(活用)を解説する。
英語でいえば、 be を説明してから am are is が出てくるようなものだ。だから、学校の英語の授業である日突然「to 不定詞」とか言われてはじめて「不定詞ってなに??」と生徒たちが困惑するという事態は、本書にはない。最初から不定詞という概念が説明されているため。
しかし、説明が学術的で長ったらしくなるため、理解し習得するまでの時間労力根気が読者に求められる。初心者にはとてもしんどい本でもある。

かように、斬新で意欲的で高邁な理想をもっている本であるが、内容が洗練されていない発展途上なのだ。


さて、比較していえば、
最初に発音の習得にたくさん割いたり、動詞は不定詞を紹介してから活用をおぼえてもらったりなんていうのは、フランス語学習だと普通である。
だから、フランス語教育と比べてみたら、本書の内容のほうがオーソドックスに見え、世間のドイツ語学習書のほうがおかしいようにも、私には思える。
だから本書にしても、著者がフランス語の学習書や辞典、教育現場かどを深く参考にしていたならばもっと、内容が分かりやすく親切に洗練されていただろうになあ、という残念な思いがする。
この完成度不足がゆえに、★4。

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紙の本

紙の本小説を書くための基礎メソッド

2022/10/17 00:08

推敲の心構えとかハコガキとか

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本書の分量のかなりが、著者による本文ではなく、解説するための題材にするために引用・転載した作品である。生徒の作品であったり、プロの作品であったり、さらには有名曲の歌詞であったりする。なので、本の厚みやページ数に期待していたらガクッとくるかもしれない。

本書を読んで特に記憶に残ったのは、推敲の心構え(近づいたり離れたりすること)と、プロットを組む際にハコガキをつくること。
類書でもプロットを書くことはほぼ当然に言及している。しかし、プロット=ハコガキだと述べている本は少ないかもしれない。脚本の書き方ならばハコガキを使うだろうが、本書は小説の書き方の本である。しかし考えてみれば、シーンごとにハコガキを書いてプロットをくみ上げるという手法は有用だろう。

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紙の本

紙の本ケアの本質 生きることの意味

2022/10/24 17:08

自利即利他ということだろう

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本書の意義について述べる前に、本書(翻訳本)を買おうとか読もうとか検討している人のためにあらかじめ言っておく。あえて忌憚なく言えば、この翻訳文は酷く、奇怪な日本語になっているといわざるをえない。正直に言って私は、読み始めた序盤から本書を投げ捨てたい衝動に駆られたくらいなのである。
訳者を擁護して言えば、本書の訳者は2名で、英文を専門にしている研究者と医療を専門にしている研究者である。学術用語や、原文への厳密な正確性、忠実性にこだわるあまり、対訳的な翻訳になって、意味を解りやすくすることがおろそかにならざるをえなかったのだろう。

さて本題である。
本書における「ケア」とは、医療介護のような分野に限った概念ではなくて、教育から、はては芸術活動などに至るまでをとらえた幅広い概念だ。その広義の「ケア」においては、相手も他人だけに限らず作品など無生物までも含まれる。
本書は、職業や子育てなど社会活動、ひいては人としての生きかたや人生の意義を追究するコンテクストで、「ケア」について考察したものである。

ケアとは、相手の成長を手伝う活動である。自身と相手の双方ともに独立した個(存在)としての尊厳を認めることが前提になっている。支配従属関係でもなければ、自己犠牲でもない。
双方が置かれる社会関係があり、双方がともにその場を構成する存在である。そうした有機一体的な現場における活動なのだ。双方が尊厳ある個でありながらも同時に、一如であるともいえるのだろう。
そして自身が他者をケアをすることの目的・意義は、相手の自己実現、成長していく過程によって、自身も満たされ自己実現していくことである。したがって、ケアとは将来の結果が目当てなのでもなければ、見返りを期待してするものでもない。ケアすること自体によっておのずと意義が満たされるものなのである。
だから、成長して一人前になるという結果さえよければいいということではない。例えば、親が我が子に対して「良い成績をとって、いい学校に進学して卒業して、いい会社に入る」ことを期待するようなのとは対極にある。結果よりも過程に、将来よりも現在、いまに対してこそ意味があるのだ。

よって本書は究極的には、人生における価値観、生きる意味を問い論考した哲学書、啓発書である。

本書は、おそらく原書のほうが平易なのではないかと思う。本書自体に述べられている内容、意義に関していえば、高い評価をすべきだと思う。
だが、訳があまりにもわけがわからないので、それを理由に評価を減点せざるをえない。

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