高萩 厚さんのレビュー一覧
投稿者:高萩 厚
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紙の本「聴く」ことの力 臨床哲学試論
2001/02/05 19:39
可傷性は聴くことの原点か
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鷲田清一『「聴く」ことの力』は、まずこれまでの哲学が「語る」ことに力を入れすぎ、自身を衰退させたのだと指摘する。「語ることがまことのことばを封じこめ」、「わたしたちは語ること以上に、聴くことを学ばねばならない」という。哲学的な思考の場として重要なことは、他者にむかいあおうとする受け手側の姿勢である。本著の論旨はそこに一貫している。
そのなかで鷲田は、可傷性(傷つきやすさ)について取りあげている。人間同士の会話が「共時的な相互接触へとさらされる場所」となるためには、自分を差しだし、他者の苦しみに苦しむことである。可傷性はホスピタリティという概念に接続される。聴くことで我々は自分自身を変える、というよりも変わらざるをえないのだと論理が展開してゆく。
ここで私は著者と異なる見方で考えてみたい。すなわち人はなぜ話を聴こうとするのか。そもそも聴くという行為の原点は何なのだろうか? 一般に小さな子供は哲学者であるといわれる。かれらは他者にふれることをいとわず、自らの不安定さを無意識のままに提示する。しかしそれは、傷つきたいからという理由ではないはずだ。
たとえば我われは定まらない自己像に出会ったとき、くだけていえば不安や悩みと差しむかいになったとき、その不安定さを解消する手段として他者の言葉を意識しはじめる。企業の未来が心配な人はビジネスフォーラムへゆき、引きこもりの子供をもった親は教育シンポジウムへ足をはこぶ。これらは一対一のコミュニケーションではないものの、聴くことを思考の場として実践しているといえる。しかし、鷲田の論理でゆけば聴くことで自己が固まるのではない、脆くくずれやすいものとなるのだ。
可傷性それ自体が聴くことを求めるのではないし、それだけが場を開かせるのでもない。抽象的になるが、自分の傷つきやすさをみとめ、自己の批判と認知を繰りかえしながら生きてゆこうとするとき、他者との関係はホスピタルな場と変化する。
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