気むずかし屋のクマさんのレビュー一覧
投稿者:気むずかし屋のクマ
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紙の本沖縄旅行記
2001/10/10 19:05
旅行記ということ
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例えば、レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』も旅行記だとするならば、旅行記というジャンルの幅は広大だ。私はこの『沖縄旅行記』を読んで、「旅行」「旅」とは一体なんなのだろうと考えた。それは現実逃避であり、人生勉強であり、学術研究である。だが最も重要なのは「帰ってくる」ことではないだろうか?
著者は勤務先に解雇され、学生時代からの夢を崩され、一種の挫折を味わう。それで行き場のない気持ちのままとにかく、沖縄に行きたい、行ってしまおう、という脈絡のない行動に出るのだが、この本は感傷旅行記にはなっていない。挫折を癒そうという意図もない。物語的に癒された自分に向けて編成されてもいない。とにかく沖縄で見た風景を追っていく。あまりにも無防備に旅行というイベントに自分を投げ出してしまっている。
昔、出産直後の女性が突如姿を消し、数日後突然家に戻ってくる、という現象があったと折口信夫は書いている。これも「旅行」だと考えるのは行きすぎだろうか? 私はまず、蔓延する旅行というイベントをもっと野蛮で、不可思議なものだと考えたい。自分を発見するとか、人生勉強になるなどといった編成の仕方はつまらない。旅行記なんか読むより、実際に旅行に行った方がいいに決まっている。『荘子』にあるように、他人の人生の残りかすを大事そうに抱えるのは悲しいことだ。
だが、産後の不安定な体を引きずりながら山野を駆け巡り、泥まみれになりながらの遍歴を語る人がいれば、耳を傾けたくはならないか?彼女は何も役に立つことや教訓などは語らないだろう。彼女はただ自分の目の前に流れていった風景を語るだろう。そこで綴られたテキストは不可思議で、意味付けが困難で、異様な、つまりは「テキスト」としてわれわれの前に現れるだろう。
『悲しき熱帯』が最後に出会ったのは遠く離れた異郷の神々でもなく、学術的な発見でもなかった。傍らを通りすがる猫のまなざし。彼は「帰って」きたのだ。『沖縄旅行記』を読んでみて欲しい。著者は何も発見できなかった。奇跡は何も起こらなかった。彼女は「帰って」きた。これは「旅行記」である。詭弁かもしれないが、われわれもこの本を読んだあと、「帰ってくる」ことになるだろう。だとすれば、何がわれわれにとって「旅行」であったのか? われわれは今もなお、「旅行」の途中なのだろうか? 産後の体を抱え裸足のまま山野を駆け巡っているのだろうか?
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