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おしょうさんのレビュー一覧

投稿者:おしょう

5 件中 1 件~ 5 件を表示

紙の本

この姿勢が共有できたら…

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 本書をすでに手に取り、読み始めている、という立場を笠に着て誇張した発言をするならば、この本を読んでいない人とは話したくない、とまで思います。もちろん、それが著者の意図するところと反対であることは承知の上で。

 本書の「概略」に触れるのは止めましょう。必要以上に本書に対するしきいを高くするか、逆に不自然に本書を身近に見せて、考えなくてはならない問題を隠してしまうかにしかならないと思うからです。この本は、詳しい詳細に分け入っていたならば「読むに耐えないどころか、重すぎて持ち上げることさえままならぬものになっていたであろう(「はじめに」より引用)」内容を、一つの全体像として描写した作品です。

 正直に言って、けっして読みやすい(口当たりのよい)本ではありません。しかしそれは、著者の責任である以上に、読者の責任です。大きな問いかけ(子供のときの素朴な「なぜ?」には必ず出てきたはずなのに、大人になってくる過程のどこかで逃げを打つことに慣れてきた問いかけです)をいかに避けているか、本来複雑で簡単には答の出せないことを、いかに簡単に割り切れることのようにみなしているかという、一言で言うならば、私たちの自分自身に対する都合のよい「先入観」をひっくり返していかなければならないことが、読みにくさの一番大きな原因だからです。

 それに引っかからない部分では(私は「自然科学」には抵抗は少ない方であろうと自認しているのですが)、これほどウィットに富み、思わず吹き出しながらハッとさせられる、要するに「頭がガンガン刺激される」本は少ないでしょう。

 著者スティーブン・ピンカーは、一方で、徹底して物事を冷静に観察し、自分の知らないことであれば謙虚にゼロから学び直して、問題をきちんと追い詰めていく、才能豊かな自然科学者そのものです。しかし同時に、自分の行動に責任を取ろうとし、どこかで一個人の無力さを笑い飛ばしているような、気のいい一アメリカ人でもあります。その著者が、ときに憤激を隠しきれていない様子を見て取るに、この本はいろいろな抵抗の最中で書かれたのであろうと思います。(抵抗者の一人は、おそらく私自身です。)

 本書は、狭義の「自然科学書」ではありません。人間へ、人間知性へ、私が生きそして私たちの子供たちが生きていく未来への、信頼の書です。

 私も実はまだ「上」だけしか読了しておらず、本来書評など書く立場にないのですが、各巻毎にその時々の書評を書こうと腹をくくりました。今一番強いのは、著者スティーブン・ピンカーの「人間」に対する問いかけの姿勢を共有できる人が一人でも多くなれば、という思いです。

 もしこの書評が「褒めすぎ」になっているとするならば、それは「これまで自分の勉強してきたことは何だったのだろう」という気持ちを帳消しにするための、私の防衛反応なのでしょう。

 素晴しい本に出会うと、私たちは生れ直さなくてはならない。読書の醍醐味を、味わっています。

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紙の本

紙の本負け犬の遠吠え

2004/03/05 14:13

お洒落な余韻

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タイトルがよい。私はただタイトルに惹かれてこの本を手にした。

善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。このタイトルから、私は歎異抄の一節を連想していた。親鸞の言う悪人は、善人と対比された悪人ではない。気がつかされてみれば、私は心底悪人であった。私はそこに、気負いなく自らを開け広げた凡夫の、静かな感慨が響いているのを聞く。

ふと気がついたら負けていた。(p.11)
負け犬…の罪とは何なのかといえば、人生の根本の部分において享楽的にすぎる、ということなのではないかと私は思う。(p.15)

酒井順子の口調にも、てらいがない。他に吠えかかるでなく、自らを弁護するでもなく、やわらかく世相を見据える。しかもこの「享楽的」は、実際には「真面目」であり「純粋」なのだが。

私個人は田舎暮らしのオス勝ち犬、ファッションにも仕事にも無頓着で、金も恋愛もめんどうくささが先にたつ。テレビも新聞もほぼ見ない。この本に書かれていることとは、字面上ほとんど接点がない。にもかかわらず、この読後感は何なのだろう。私は、行間に、確かに自分の姿を見ていた。

ここまで負け犬という単語を連呼してみると、勝ちだの負けだのということが、ほとほとどうでもいいことのように思えてくるものです。(p.277)

これを深読みするならば、親鸞の悪人とそれほど遠くない。酒井順子が最初からそれを見透して書いていたとも思えないのだが、意図的にしたつもりの深読みが、あながちピントをはずしてもいなかったのではないかという気にさせられる。

私の深読みを受けつけてなおかつ瀟洒であるとは、著者の趣味のよさに驚く。これが本当のお洒落というものか。「あなたは全然、負けてなんかいないんだから」と放言してはばからぬ「心ある勝ち犬」の心根が見苦しい。

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紙の本

ブルーバックス3冊分の内容

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 全体の枠組みと、それを支える2本の柱—心の計算理論と進化心理学—を紹介した上巻に続き、中巻では知覚・推論・情動の各側面から「心の仕組み」が考察されています。

 タイトル通り、ブルーバックスまるまる3冊分の内容です。各分野における最新の研究成果が、ピンカーのあの軽妙な語り口で、気の利いたジョークも交えて語られているのですから、上巻・下巻と切り離し、単独であったとしても読んで損はありません。

 事実、読みやすさという点では3冊の中で一番読みやすかった(通読するのに必要な時間が少なかった)ように思います。

 しかし、上巻・下巻から独立させてしまうと、中巻は、良心的ではあるにせよ、ごくふつうの本になってしまいます。

 第一に、知覚・推論・情動は、認知科学系の話題としてはすでになじみの多いものであり、「新鮮味」が薄い(下巻では「人間関係」という主題が同じ観点から取り扱われていることを考えてください。)。

 第二に、これら各章は、それぞれの話題に対してより強く読者の興味をひくためにではなく、各機能を「心」という統合的な機能の「下位モジュール」として位置づけることを意図されているため、たとえば情動と推論が密接な連関をもっているといったことには触れていない。

 言うまでもないことですが、これは批判ではありません。たまたま3分冊になっていたことに合わせて、書評を各分冊ごとに書いてみようという発想の不自然さを露呈しているだけです。

 上に述べたように、中巻のみを読み通すのにそれほど時間はかからなかったのですが、実際には上巻を何度も繰り直しました。そして当然のことながら、上巻で著者が何を言いたかったのかが、かなりよくわかるようになりました。

 それでもなお、中巻単独での「評価」は一つ下げておきます。理由は明快です。中巻には、著者による「はじめに」も、長谷川寿一による「解説」もついていないのですから。

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紙の本

ぶち壊されるのは…

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巷で『バカの壁』がはやっていた昨年の暮れ(今も売れているのかな…)、あまりにも周りの人が話題にするので、これはやっぱり読んでおかなくてはならないだろうと書店へ寄って、間違えて買ってしまったのがこの本です。

しばらくして間違いに気付き、本家『バカの壁』も読んだのですが、この間違いは結果的にとても面白かった。ここまで話が混線していると、これはもう著者を離れて、ほとんど文化と呼びたくなります。

本家『バカの壁』はかなり真面目に作られた本だと思うのですが、残念なことに養老孟司になじんでいる読者にとっては読む必要がなく、養老孟司初体験の人には肝心な養老節が落ちていて、タイトルだけが勝手に一人歩きした妙な化け物になってしまいました。

その上に乗っかった「ぶち壊せ」です。

そもそもバカの壁は壊せないもののはずで、少なくとも養老孟司はそれをよく心得ている。おそらく。

それを下敷きにしてこのタイトルを考えると、俄然面白くなる訳です。

書いてあることがまともにたどれずに気分に浸りたいだけの一般大衆、バカな一般大衆にウケることしか意識できていない出版社、とりあえずこのあたりはぶち壊せるならばぶち壊してしまえばいいのですが、それでは実は一人歩きしている妙な化け物に飲み込まれるだけで、話はちっとも面白くはなりません。

養老孟司は頭のぶっ壊れた人ですから、そんな面白くもないことはあまり考えていない。おそらく。

ぶち壊してみて少しは面白いのは、とんちんかんな『バカの壁』フィーバーでしょう。日下公人もかなりぶっ壊れた人のようで、頭の使い方をよく知っているから、サブタイトルとは裏腹に、「正しい」頭の使い方などには当然無頓着です。

気楽なバカ老人二人ののんきな対談に加わって、賢くなってしまったら悲劇を通り越して喜劇でしょう。いつの世も、ぶち壊されて面白いのは自分自身の賢しらというもの、そこで読めるのがこの本の面白いところです。

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紙の本

紙の本無痛文明論

2003/10/22 12:09

解決できていない問題を提起する毒

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 私こと、宗教関係者(浄土真宗寺院住職)です。

 まず、「書評」という出来事の相対化から。著者へのエール★★★★★(力作です)、私自身にとっての意味★(読んで直接得られるものはなかった——ただし「発言」を迫られることを除いて)、一般読者への推薦度★★★(各自で「経験」する以外にないでしょう)と理解していただけたらと思います。

 その上で、この「書評」は、私自身の「『無痛文明論』読書体験」です。

 よく書かれ、よく考えられ、そして何より、よく現代を「感じている」作品であることに異論はありません。が、私は森岡氏の「アイデンティティ」のとらえ方は不十分だと考えます。その不十分さにまつわるもろもろが、全編を貫く独特の緊張感として表れている。言い換えれば、著者はまだ「私的な緊張感」としてしかアイデンティティを支えられていない。

 もちろん、ここで安直な「信」を持ち出したのでは著者の手の平のうちになります。しかし、デカルト以来の近世の根っこはもう少し掘り下げることができます。そこから言えば、「中心軸」にせよ「ペネトレイター」にせよ、まだデカルトの「我(われ)」の手の平のうちに収まっているように思えるのです。

 おそらく、著者はある強烈な「身体」のイメージを持っており(そうでない限りこのタイトルは出てこないでしょう)、そこを拠り所にデカルトの我を超えている「つもり」なのでしょうが、率直に言ってまだ安心してうなづけるところまで描かれてはいません。また、身体を問題にしているようで身体に触れ切れていない点には、端的に言って不満が残ります。

 読者が試される作品です。ただ、一般の読者に一方的にこういう試練を投げかけるのはどうか(読者には「手に取らない」という選択肢があるにしても)。読後、主体的に「拒否」したとしても、無痛文明の呪いから逃れられなくなるでしょう。

 そこに著者の意図があるのならばそれでよいのですが、私には残念なことに、著者自身がまだその呪いに縛られている(その呪いの構造を解明し切れていない)としか読めない。

 宗教者、ないしただ真っ当に(平凡に)生きようとしている者の立場からすれば、発話を迫られる作品であることは確かです。宗教と生命学が他者であるかどうかは問いません。しかし、『無痛文明論』にこだわってしまうと(無痛文明論「批判」を意識してしまうと)、本書の代弁している現代の毒が解毒できないというのは、つらい皮肉のようです。

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