すなねすみさんのレビュー一覧
投稿者:すなねすみ
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紙の本新訳ハムレット
2004/04/25 02:16
Forget-me-not
9人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
The rest is silence:ハムレット最期の言葉。殉死を禁じられた親友ホレイシオはThe Tragedy of Hamlet, Prince of Denmarkを新王フォーティンブラスに対して語り始めようとする→「お話しすることになるのは、淫らで、血腥い、人の道に悖る行ない、偶然の裁き、意図せぬ殺人、狡猾に企まれた卑劣な死の罠、そしてとどのつまりは、陰謀は失敗して、企んだ者たちの頭上に落ちたすべての顛末、正しくお伝え致しましょう」(←粗筋代わりになる?)
*ほとんど皆殺しである。ポローニアスもオフィーリアもガートルードもクローディアスもレアーティーズもハムレットも、勿論ローゼンクランツとギルデンスターンも。
『ハムレット』の四つの翻訳本(福田恆存訳、小田島雄志訳、松岡和子訳、河合祥一郎訳)の感想から……「かっこええなぁ」と思うのが福田訳、「読み物として洒落てるし、知的な刺激に溢れてて、すっごく好きやなぁ」と思うのが松岡訳、小田島訳は「大御所の翻訳だし正確なんだろうけど……小田島さんの顔写真ってハムレットっぽくなさすぎるしぃ(偏見)」。
で、約一年前に刊行された河合さんの『新訳ハムレット』。正直「松岡訳が決定版!」と思っていたから、『謎解きハムレット』で楽しませてくれた(&アップダイクの『ガートルードとクローディアス』の訳者でもある)河合さんだとは言え、どんなもんやろか……最初は「う〜ん、やっぱり、松岡さんに較べて泥臭い感じなんだよね」と不埒な考えに捉われていたが、ある台詞をきっかけに、完全に河合版『ハムレット』の虜になってしまった(みたい)。
Ophelia:最近はお心のこもった優しいお言葉を何度もかけてくださいます。
Polonius:お心のこもった? ぶっ、まるで子どもの言い草だ。
危ない目に遭ったことのない世間知らずもいいところだ。
それで、その、かけてくださるお言葉とやらを信じているのか。
Ophelia:わかりません、お父様、どう考えたらいいのか。
Polonius:では教えてやろう。自分は赤ん坊だと考えるのだ。
かけてくださるのは掛け捨ての贋金。それを見かけに騙されおって。
かけがえのないわしの娘だ、自分をもっと高値で賭けろ、
さもないと----こう洒落のめしてばかりでは品位に欠けるが
----わしに阿呆と掛け声がかかる。
ポローニアスの洒落のめし具合が絶妙である。ちなみに、松岡訳は…「よし、教えてやろう。自分は赤ん坊だと心得ろ。お前が本物と思っているお言葉はとんだ偽金だからな。もっと自分を大事にして高値で売るんだ。さもないと----我ながらまずい洒落だが----バカ安で売れば、バカを見るのはこのわしだ」
*今でも僕は、読み物として楽しめるという意味では松岡さんの訳が一番だと思う。でも……芝居をやったことのある人間としては、やっぱりこの河合さんの訳は……すごく演りたくなる……おいしい台詞っていうか、言葉が生きてる……で、この小洒落た駄洒落おじさん振りを女性が日本語に移し変えるのは至難の業なのではないかなぁ。
*****
訳者あとがきによれば、この作品は狂言師・野村萬斎さんとの血で血を洗うが如き闘いの中から生まれたようである。→「多忙極まりない萬斎氏が、台本の最初から最後まで、すべての台詞を一行一行声に出して読み上げ、ダメ出しをし、じっくりと磨き上げてくれたのだ。……台詞のリズム、響き、意味、解釈にわたって、いわば>をするようにして、台詞を練り直し、鍛え直し、文字どおり萬斎監訳と称すべき実に贅沢な上演台本ができあがったのである」
芝居は高いけど、あの小さな芝居小屋の熱気は他では得がたいものである。で、この本。河合祥一郎&野村萬斎、ふたりのプロが火花を散らして作り上げた「芝居小屋」を僅か500円で堪能できる。煙草を二箱我慢してでも、買うべきである。(芝居が癖になっても知らんけど)
紙の本ヒューモアとしての唯物論
2004/06/21 02:30
他者の内に希望が宿るように。
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「難解なもの、手に負えぬものこそお誂え向きだと思っている学生の無邪気さ」というアドルノの言葉(たしか、浅田彰さんの『構造としての力』に引用されていた)に酔わされるようにして、大学生の頃、何冊か柄谷さんの本を読んだ。訳も分らぬままに。そしてそのことは、良くも悪くも今の自分を形作っている(「悪くも」のほうが色濃く現われているようではあるが…)。
内田樹さんは『寝ながら学べる構造主義』のなかで、社会のなかでさまざまな経験をしてきたことで嘗ては難解に思えたラカンやバルトの言っていることが腑に落ちるようになっている自分に気づいた驚きを語っている。そんな言葉に触発されて、柄谷さんの本をまとめて読み返してみようと思った。
『ヒューモアとしての唯物論』には、柄谷さんの思考の大きな転回を跡づける論文がいくつか収められている。時期的には『探究2』と重なっており、内容的にも似通っている。そんななかで本書の意義は、本書所収の文章が、これまで柄谷さんの文章を読んだことのない人に向けて、「未知の他者に向かうことによって新たに自己自身に向かう」という態度を貫いて書かれていることにある。それはまさに柄谷さんが『探究』で強調している「教える−学ぶ」関係の実践である。(念のために書いておくと、勿論「教える」立場は「学ぶ」側の恣意に委ねられた非常に不安定で脆弱なものだ。)
柄谷さんによれば、ヒューモアとは「有限的な人間の条件を超越することであると同時に、そのことの不可能性を告知するもの」であり、「同時に自己であり他者でありうる力の存することを示す」(ボードレール)ものである。一貫して「生の可能性」を探究しつづける柄谷さんにとって(というかそれを読んで動かされた僕にとって)、ヒューモアは如何なる意味をもつのか……
自らは徹底的にネガティブなものとして存在し、ただ他者の内に、もしかするとポジティブなものへと転換するかもしれない何かを宿し得るかもしれないという、その可能性のうちに生きることだけが、人には許されているのだろう。それは、たとえばモーセがユダヤ人奴隷たちをエジプトから連れ出し、自らは「約束の地」カナンに辿り着くことなく死ぬ運命に定められてしまったようなものである。そんな言い草はヒロイックな自己陶酔にすぎないかもしれないとしても、つまり、人は誰も自らのうちにモーセをもち、またユダヤ人奴隷たちをもつ、ということが(僕は)言いたいのだ。そして柄谷さんが『探究2』のなかに書いているように、「約束の地」ではなく(もちろん「エジプト」でもなく)、荒涼たる「交通空間」(僕はふと『嵐が丘』を思い出した)において生きねばならぬこと、ドラマティックな出来事は、いつもそんなところから始まる。過去のさまざまな出来事へと「遡行」することのなかで、人は、そんなふうにして「希望」を見出すこともあるのだ。
小林秀雄は書いている。
「一方に人間の弱さや愚かさがある、一方にこれに一顧だに与えない必然性の容赦ない動きがある、こういう条件が揃ったところで悲劇は起るとは限らぬ。悲劇とは、そういう条件にもかかわらず生きる事だ。凡ては成る様にしかならぬ、いかなる僥倖も当てに出来ない、そういう場所に追い詰められても生きねばならない時、もし生きようとする意志が強ければ……このどうにもならぬ事態そのものが即ち生きて行く理由である、という決意に自ずから誘われる、そういう事が起るでしょう。まことに理窟に合わぬ話ですが、そういう事が起る。これが悲劇の誕生だ。悲劇の魂は、そういう自覚された体験の裡にしか棲んでいない」(「政治と文学」)
「政治と文学」の季節を通り抜けて、(ガンジーがその自伝のなかで最後に書いているように)「喜怒哀楽」の桎梏を突き抜けて、人は歩いていく。あたかも不可能な可能性の扉を叩くようにして。
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