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RinMusicさんのレビュー一覧

投稿者:RinMusic

55 件中 31 件~ 45 件を表示

紙の本

紙の本世界史怖くて不思議なお話

2004/11/12 04:20

実像は虚像に勝てず

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

よく歴史は生き物であると言われる。有史以前については状況証拠による「近似値」でしか語られ得ないが、成文化された歴史は記されているが故に、時としてその真実が見えないことがある。あるいは、真実を隠蔽するために記された歴史もある、と言えるかもしれない。そういう意味において、中世から近代にかけてのヨーロッパの歴史はミステリーの宝庫であろう。本書は「聖処女ジャンヌ・ダルクの復活」から「最後の皇女アナスタシアは生きていた!?」まで全11話が収録されている。例えば「孤高の錬金術師 バラケルスス」など、そのミステリー性だけを問うのではなく、そこに内包されている歴史的必然性に注意を向けるように巧みに配慮されている。そうは言いながらも、見えぬ実像が生み出す虚像の魔力には抵抗できないよう、各話でしっかりと罠を仕掛けているあたり、実に憎らしい。

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紙の本

南部州を知るきっかけを与えてくれる彼女に続け!

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

思い出す旅のシーンがある—プーリア州のバルレッタにいた時。ローマやナポリのような(あるいは州都バーリでもいい)大きな街には見られない人間模様が浮き彫りになる。昼休みが長いのはラテン諸国に共通だが、まったく店が開いていないということはさすがに都会では考えられない。しかし、まず私たちはそこでランチをどうしたらいいか途方にくれてしまう。小さな街ではカフェでパニーニをつまむ程度しか選択肢がなく、ピッツェリアやトラットリアが空いていることはごく稀なこと。滞在中はとにかく昼休みが来るのを怖れていた。そして休み明けの始業の鈍さ、建物の前で待ちぼうけを喰らっていると、フィアットの小さな車(プント)をチョロQのように走り回し、あるいはキャブで小さな街の中心を何周もする。そして女性と見れば、とりあえず声を掛けるのだ。日焼け色と濃い髭がエキゾチックなワイルドさを発揮していて、それが南イタリア男性の魅力なのかもしれない。やはりこの一帯で日本人が長期滞在するのは珍しかったらしく、突然声を掛けられた爺さんからは、日独伊三国同盟の正当性や日本への憐憫の情を投げかけられたこともある。著者タカコさんも指摘のように、南部州まで旅する日本人は確かに少ない故に、語られることのない南イタリア人の素顔を知る機会も少ない。
このシリーズはさくさく読める旅行記だから、「私でも…」という前向きさを与えてくれる。またヨーロッパではもはや日常となった格安航空会社の活用法など、そのあたりも人気の秘密かもしれない。しかし、南イタリアを語る上では表層的な部分が多いのは残念だ。南イタリアの“陽”の部分が強調されすぎて、歴史や風土が集約されている“陰”の部分がまったく抜けている。「イタリアは南が楽しい!」というタイトル上、やむを得ないのかもしれないが、旅行するということはその両面を感じながら、その土地ごとの風土感を体験していくものではないかと個人的には思う。かつて深刻だった南北格差も、南部州の観光事業強化(本書で紹介されているアグリツーリズモなど)によって少しずつ私たちにも身近なところになりつつある。バーリや世界遺産に登録されているアルベロベッロだけでなく、バルレッタやトラーニやモルフェッタなどでふらっと電車を降りてみれば、海岸に走る白い城壁と棕櫚の濃いエキゾシズムが私たちを迎えてくれる。この一冊が私たちの背中をポンと押してくれることは確かだ。

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紙の本

紙の本信長と秀吉と家康

2005/12/20 13:10

三雄の系譜

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 戦国の時代、名将が全国に割拠していた。今川、斉藤、朝倉、浅井、武田、上杉、毛利、北条…それぞれに才覚の差異はあれども、天下を狙うに十分な名家だった。しかし、時代のスポットライトを受けて舞台に乗せられたのは、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康だった。天下統一の構図はこの三者にわたることになる。では、古典的な名将になくてこの三者にあったものは何だろうか? ここにはもはや時代の要請としか言いようのない、歴史の宿命が働いている。池波は「人間の生き死にには、何かのかたちで、後の世の人に関わりあいがあるものだ。一つの家、一つの家族の歴史にはそれがある」(p.117)と記すが、壇上に挙げられたこの三雄はまさにその系譜だった。
 まずスポットライトを当てられた信長は、安土城や南蛮服に代表される艶やかな光を発して、天下無双の輝きがあった。さらに光源を強めていくと、反射した光の先に様々な人物がくっきりと浮かび上がってきた。秀吉はその光を実にラディカルに吸収した。信長が明暗を強めるほど、秀吉の影は大きな像となっていく。この二人はまこと革命的な英雄である。池波は「人間というすばらしい生きものは、理屈では知ることのできぬ一種の力によって生きている。それは自分でも他人でも、どうすることもできぬ力なのだ」(p.115)と感嘆する。
 しかし、安土桃山時代と誉まれた栄華もまもなく、血によって洗い流されることになる。バブル時代は長く続かない、それ故に家康は「鳴くまで」待っていたのだ。家康は六つの時から国のため家のために人質に出され、生きるために愛した長男・三郎信康を切腹させ、ひたすら時の権力者の礎として苦渋の人生に耐えてきた。家康は月見草、まさに夜咲く花である。天下掌握目前にして、家康は秀忠に家督を譲って院政に切り替える。信長、秀吉、家康と続く三代の活写の中で見えてくるのは、目映い英雄の光よりむしろ、70年余にわたる夜の歴史である。池波はそのように、歴史をヴィヴィッドに描き上げる作家であった。

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紙の本

モーツァルトとの関わり方において

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ジュリアード音楽院のピアノ科主任教授ヨセフ・ブロッホによる楽曲分析シリーズの一冊。第一章はモーツァルトの生涯におけるピアノソナタの作曲過程、第二章は彼のピアノソナタにおける音楽形式、第三章は各ピアノソナタの分析に充てられている。本書を一読すれば、モーツァルトが「ソナタ」に開いた形式というのは、実に平易なものであることに気づく。著者は大きく九種類の形式に分類し、<ソナタ形式の原則は調性の関係に基づく>という見解も添えている。
しかし、形式の分析がモーツァルトの天才さを語る決定打にはまったくなり得ない。エドウィン・フィッシャーは<「こころで感じとる」…これこそモーツァルトの音楽世界の核心に通ずるかくれた扉をひらく合言葉だ。だが、「感じとる」こと、つまり体験というものは、一朝一夕にして成熟するものではない。だからわれわれは、われわれの誰でもがよく似た過程を繰りかえすところの或る種の成長の終結点に到達して、ようやくモーツァルトを真に理解しうるに至るのである>(『音楽を愛する友へ』p.42)と言っているが、では私たちのモーツァルト理解に至る過程での共通要素は何なのかを考える。モーツァルトの音楽は、聖書を読むこととプロセスが似ている。つまり、聖なる物としての物質を離れた反照、その「簡素美」(著者ブロッホの言うところの形式の簡素さ)が音楽の三要素(旋律、和声、拍節)の躍動の中に描き出されて、色合いや私たちの印象の変化を通して、精神的な論理の中で展開される。技術と機械化の発達を遂げた今日、モーツァルトを楽曲様式の展開で、その天才を説明してしまおうという嫌いがある(故に、あまりにも多くの書物が氾濫している)。学習者にとって形式の把握は絶対的だが、論理や形式が精神を先行するモーツァルト音楽は、翼をもがれた予言の天使に過ぎない。モーツァルトの簡素さの中には、実に説明できない多くの謎が潜んでいる。それを完全に解明することはできないし、無理な解明は悲惨な脱線を呼び起こす危険性も孕んでいる。そのことを肝に銘じて、モーツァルトとよい友人にならなければならないと思う。

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紙の本

芸術性を解く困難を避けてはならない

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ピアノ音楽界でファニー・ウォーターマンの功績を知らないものはおそらくいないだろう。女史は最も成功したプロフェッサーとして、今日なお影響力を持ち続けてきている。本書には教育者としての助言が多く寄せられており、まず序章で、音楽の勉強における三つの重要な要素を示している—(1)職人芸の勉強、(2)音楽家としての勉強、(3)芸術家になること。
職人芸、つまり演奏技術については他にも多くの指南書を読むことができるが、ここで書かれていることは大筋で合意できるものばかりである。彼らに共通している重要事項とはタッチとペダリングについてだが、<技巧はまず音作りから始まります>(p.19)という女史のメッセージはとても意義深い。全篇を通して意識的に用いている<触感>という言葉は、例えば暗譜と指使いの関係において記されているが、演奏家が「考える身体」であるという前提に立っていることを示している。しかし、であるならば、本書はやや舌足らずである。女史は芸術性について、<生まれながらに備わっている天賦のもので、教えられるものではなく、刺激をうけて発揮されるものだ>(p.11)として、トスカニーニの演奏を評した<決定的魔術>という言葉を借用している。この触感が魔術に至るプロセスこそ、芸術性を獲得するためのヒントになるはずなのだが、ここではそれ以上語られることはない。魔術には必ず種がある。確かに芸術性とは複雑なプロセスによって形成されており、インスタントな到達は無理である。芸術性とは真っ白なキャンバスの上に塗られていくもので、そのテクニックは楽譜と技術を有機的に分析することで始められなければならない。教育者が教えることを放棄するような誤解をメッセージとして発することだけは避けるべきだと思われる。

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紙の本

紙の本悲しき熱帯

2005/05/27 18:58

悲しさの現実(私たちが直面しなければならないもの)

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

旧陸軍第30師団の元日本兵と見られる男性二人の生存が確認されたというニュース、発見されたのはフィリピン・ミンダナオ島である。戦後60年、彼らはすでに90歳代を目前にしている。YOMIURI ONLINEによると、彼らは<「日本に帰ると、軍法会議にかけられて銃殺されるのでは」と帰国はおろか、名前を明かすことも拒んだ>という。このニュースが伝える悲しさは、まず言葉にはならない。彼らはもちろん日本に帰国することになるだろうが、すべてが機械化された街、西洋人のようなファッション、横文字が並ぶストリート、あまりに変わり果てた現代日本に帰還して彼らは「救われた」と言えるのか、もしくは「救われる」のだろうか? 彼らに襲いかかるであろう虚脱感を探るのは想像の範囲をあまりに超えていて、茶色に焦げ付き骨と皮だけになっている彼らの姿を私たちが最初に迎える時、彼らと私たちの間に存在するギャップにどう立ち向かえばいいのだろう。花束の贈呈だけは止してほしい…。
私がこの本を読んだところで、彼らの「悲しさ」を知ることなどできない。おそらく彼らは「悲しさ」を感じる前に自分を「喪失」してしまうように思われる(歴史は時々考えられないほど無情になる)。村上龍はここで熱帯での戦争を描いている訳ではない。人間が人間として「在る」ための小さな正義を問うて、小さな物語を残しているだけである。彼の小説からは不思議な温度が伝わってきて、それがおそらく「悲しさ」のカタチだろう。しかし彼は結論を放棄している。現実が小説と異なる点は、事実から逃げることができないことにある。旧日本兵は現実として「在る」。旧日本兵たちの心からは何も伝わってこないだろう。もちろん彼らの「熱帯の悲しさ」など私たちに理解できようもないが、<もう、美しい海の表面は、絵葉書の中にしかない>(p.50)と村上が代弁してくれていることだけは事実なのだろう。彼らがジャングルから日本に持ち帰ってくる「悲しさ」は、永遠に理解することができないのだろう。戦争というものは重いものを残す。戦争は勝敗問わず、皆が本当に傷つくものである。日本人にとっての熱帯はそういう舞台(記憶)だった。

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紙の本

紙の本バルトークの作曲技法

2004/01/18 08:43

独り歩きしない理論の集大成

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例えばブダペストの聖マーチャーシュ教会を訪れたならば、壁一面描き尽くされたトルコ文様(チューリップ!)が一種異様な調和を醸し出しているのに嘔吐感を覚えるだろう。それはいわゆる西側の価値観のみで「民俗的」「土俗的」と片付けるには、あまりに危険である。無論、芸術においても同様のことが言える。本書で扱われているバルトークは、民族意識を強い信念に置換したハンガリーの大作曲家である。彼は実に幾何学的に音楽を処した。それは天才数学者のごとくであるが、その音楽は単なる数理で処理された産物とは思えぬ、力強い生命の躍動感を湛えている。本書はやや専門的な見地より、バルトークの作曲技法について詳細な分析を施している。理論だけが独り歩きせず、これほどまでにバルトーク音楽をアナリーゼに成功した例を他に知らない。

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紙の本

紙の本きらきらひかる

2005/03/23 23:57

江國式模範解答の一例

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本書の主人公は<脛に傷持つ者同士>—ホモの夫・睦月、アルコール中毒の妻・笑子、睦月の愛人・紺。確かに恋愛小説としては、<シンプルな恋愛小説>と著者も認めている通りだろう。しかし、江國小説でしばしば感じられることだが、恋愛の向かうベクトルがほぼ一定である。恋愛自体がきれいで透明なものとして昇華あるいは解決する。透明だということは、全体が透けて見えることでもある。まずキーワードがキャッチフレーズ的に出てきて、その種明かしが最後に用意されている。起承転結もはっきりしており、予定調和的に物語が進行するから、江國小説は本当に判りやすい。そうした文体や構成からも、傷つきたくない江國香織の希望的観測が伝わってくる。恋愛を定式化することで、恋愛で傷つくことを恐れている(もしくは傷ついた)女性たちに、心の拠り所を提供しているようにも思われる。ちょうど子供に絵本を読み聞かせるように。しかし、現実の大人の恋愛には蚊帳はなく、江國式模範解答がいつも通用するような問題が提出される訳でもなかろう。そういう問題を出して解決していく新しいタイプの江國小説を、今度は期待してみたい。

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紙の本

紙の本仮装集団

2004/12/21 04:55

翻弄する山崎豊子の挑戦

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<それは勤音へ行く会員か、音連へ行く会員か解らなかったが、一本の太いベルトのような列になって繋がっている。この若い群衆を組織し、政治的に利用しようとする集団が、現代の仮装集団であるのだ—。流郷は、舗道の上に洪水のようにさらに広がり、列なって行く群集の若い巨大なエネルギーにぶつかり、圧倒されながら、その群集の中を突きぬけて行った>—音楽という場に政治と思想を持ち込んだ集団に、流郷正之という音楽好きな一人の野心家の姿を描いた、山崎豊子らしい長編である。しかしどうだろう? <書きにくい小説だった>という著者の告白にもあるが、音楽業界の持つ音楽以外の目的とイデオロギーを小説化したかった意図は多分に感じられるものの、『白い巨塔』で見せた社会小説としての鋭い追及は見られない。音楽業界が人間の生命に携わる医療現場とまったく異質の舞台であることも一因であろう。つまり、「感動する体験」を商品にしている音楽業界の、実態のないいかがわしさ故に、筆者もリアリティある深遠にたどり着くことができなかったのかもしれない。社会小説家としての山崎豊子の正義感が空しくも、健闘の様が垣間見える一冊である。

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紙の本

紙の本ふたり

2005/03/18 18:32

本当に「ふたり」になれるまで

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近年の唐沢寿明として印象に残っているのは『利家とまつ』だが、従来のNHK大河ドラマの路線から大きく逸脱したトレンディー・ドラマ風だったことで話題を呼んだ。全話を通して、カブキ者・利家が北陸の大大名へと成長していく過程を、唐沢寿明なりにがんばって演じていたと思うのだが、世の評判が必ずしも芳しかった訳ではない。ただ、唐沢が硬派に生きてきた半生を告白している本書を読むと、ああまでも歌舞いて見せた利家の演技が理解できるし、利家を通して「人間・唐沢」を演じてみせたかったのだろうなという強い意志が今になって伝わる。芸を志す者は古来より「丁稚」という制度があり、ヨーロッパでも指揮者ならコルペティトア上がりが当たり前だった。しかし、唐沢寿明が今日に至るまでの苦労は、臥薪嘗胆を超える厳しさだったのであろう。食べるものと寝る場所の確保だけを考えて生きなければならなかった役者が、今どれほどいるのだろうか?
唐沢は本書のタイトルで、役者としての唐沢寿明と、本名の唐沢潔の「ふたり」を描くことを明確にしている。唐沢寿明は今や成功している。それ故に書ける美談であって、文章からは山口智子との結婚生活も幸せぶりも伝わってくる。しかし唐沢が本書で、単に「苦労人生→成功」の美談を誇りたかったのではなく、むしろ役者としての苦悩を書きたかったのかもしれない。<「唐沢潔」の方は決して喜んではいなかった>(p.139)、<「唐沢潔」の中で「唐沢寿明」の部分がどんどん大きくなるようだった>(p.153)—「ふたり」のままの自分への葛藤、成功した時は初めて振り返られる過去の傷の大きさなどなど…。行き詰って一度捨てた硬派な「唐沢潔」が唐沢寿明の中に戻って来る時、ようやく「ひとり」になった唐沢が山口智子との「ふたり」の関係を築くのだろう。その時の唐沢の演技がトレンディーなままであれば、それはそれで面白いのだが。

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紙の本

現代日本人の心の病を投影する「マンヨウ集」

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本書は『万葉集』から愛の歌(相聞歌)60首をピックアップして、<それらを「ポップスの歌詞のような感覚」でした現代語訳と、「今」を切り取ったヴィヴィッドな写真のコラボレーションによってした写真詩集である>と訳編者の三枝氏は言う。確かに私のような古語に明るくない者にとって、逐語訳ではピンと来ないだろうが、この訳からは万葉人の哀しさのようなものは何一つ伝わってこない。しかし本書を『万葉集』の現代語訳だと受け止めず、むしろ現代の『万葉集』だと考えると、なるほど氏の意図が伝わってくる。氏は万葉の「哀しさ」を現代風に差し替える作業によって、現代の若者たちの「心」に重く圧し掛かる翳を表現しているように思われる。
文部科学省所管の教育研究機関の調査によると、自分の将来に希望を抱いている日本の高校生は24%にとどまり、「若い時は将来のことを思い悩むより、その時を大いに楽しむべき」という享楽志向が強いことを明らかにした。どの時代にも享楽時代というのはあったが、ローマ帝国末期や第一次世界大戦後のフランスも、時代背景や要因はそれぞれ異なるが、いずれも長続きしない憐れなものである。享楽主義の根本にあるのは、自尊感情の欠如であると指摘する学者もいる。享楽主義というのは外見の奔放さとは裏腹に、より小さな精神世界へと閉じこもろうという性格を有しているように思われる。結果は不安と孤独であろう。現代人は自殺へと導かれる…怠惰な空気の重力の中に蔓延する無気力感に耐え切れなくなる瞬間があるのかもしれない。四人の写真家によるヴィヴィッドな写真が、色鮮やかであればあるほど孤独が色濃く映る。今日の日本の享楽志向が、性愛へ逃避するものでない、根本的な心の病であることが、痛々しいほど伝わってくる一冊である。

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紙の本

紙の上での世界一周旅行

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日々刻々と世界情勢は変化しているから、歴史は生きていると言われる。しかし、歴史が動けば地理も帯同するし、地図自体が動いているのも事実である。世界一高い山がエベレストかK2か、未だに正確には判明しないでいるし、<地球の中心からの距離ということで測定すると、南アメリカ・アンデス山脈のチンボラソ山が世界一の山になる>(p.39)という。モルジブのように国土消失の危機にある国もあれば、アイスランドのように毎年1cmずつ国土が広がっているラッキーな国もある。東アジアでの緊張が沸々と高まってきている南シナ海情勢も、その動向如何では地図も変わってくるだろう。自分の土地を自治領として独立宣言している「ハット・リバー王国」や、スイスの切手や貨幣に「ヘルベチア」という国名が記されている訳、「バンコク」の正式名称は単語数にして12、アルファベットで175文字も連なる世界一長い地名であることなど、教科書には載っていない世界地理の裏表が満載。

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紙の本

作曲家をより魅力的にするエピソード集

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音楽評論家として名高い渡邊學而氏のユニークな一冊。ヴィヴァルディからショパンまでを扱った前作を継いで、本書ではリストからバルトークまでの15人の作曲家のエピソードを綴っている。リストが12歳の時にロンドン・デビューした演奏会のプログラムの検証、内容がやや希薄であるものの、興味深い資料を提示してくれている。ブラームス派と新音楽派の対立では、ブルックナーの「代理戦争」を通して、豊富な資料から推察される彼らの性格にまで踏み込んでいる。他、ヨハン・シュトラウスとオッフェンバックの競争、ビゼーの苦闘を支えた劇場支配人のエピソードなど。ロシア五人組やバルトークあたりでは、話題に歯切れがなくなり残念だが、一つのサイドメニューでそのレストランの性格を見抜けてしまうような、渡辺氏の名ガイドぶりが窺える。

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紙の本

紙の本乱紋 下

2004/11/23 07:23

女たちの蠢く葛藤に支配された歴史の舞台裏

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上巻で表面的とはいえ辛うじて存在した姉妹の絆も、下巻ではすっかり軛(くびき)に変わってしまう—太閤亡き後もその権勢に生きるお茶々、そして秀忠の嫁として三度目の輿入れを命じられたおごう、両者の力関係を見極めながら巧みに処世せんとする京極家のお初。大阪・夏の陣に至る史実は周知の通りであるが、筆者は女の「性」を物語の中心に据えて、女の深層にある欲望や弱さといったものを見事に操作しながら、歴史を舞台裏から描いている。象徴的なのは、<いったい誰が勝ち、誰が負けたのか…>という女の葛藤に苛み続けるお茶々の土壇場に際する、「まだ勝っても負けてもいないから、おやめになることですわ」というお初の冷たくも高らかな勝利宣言。しかし、この物語は些か、おごうを奇特な人物として描きすぎている印象を拭えない。それは「ちくぜん」の出来すぎる最期からも感じられる—おちかを呼び寄せた「ちくぜん」は、自分が同郷の浅野家の人間だったことを明かして目を閉じる。これが歴史小説におけるフィクションの面白さなのは、もちろん言うまでもないが。

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紙の本

紙の本乱紋 上

2004/11/21 09:01

乱世を力強く生きる女性たち

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織田信長の妹・お市と浅井長政の間に生まれた三人の女—豊臣秀吉の側室となった長女・お茶々、京極高次に嫁いだ次女・お初、そしてこの物語の主人公となる三女・おごう。秀吉を中心に天下が回り始めたところから物語は始まる。歴史の波に翻弄される女たちは、女の強い見栄や嫉妬が交錯しながらも、お互いの心の内を読みながら、乱世の海で必死に舵取りする。そのような二人の姉に較べると、おごうは容姿が冴えず、生来の気質も鈍い。筆者は博多の商人「ちくぜん」を名乗る不思議な男に引導役を任せ、おごうの侍女・おたあの「女性性」を巧みに開錠しながら、歴史そのものに「女の性(さが)」を重ねて見ている。その女性らしい語り口が印象的だが、<生者必滅、会者定離>の言葉通りに歩むおごうの皮肉な運命、その歯車が回転を早め始めたところで上巻は終わる。

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