紙の本
「超然」という通常あまり使わない言葉を使って、3篇の中編を著すという面白い試み
2024/01/23 20:12
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投稿者:まなしお - この投稿者のレビュー一覧を見る
「超然」という通常あまり使わない言葉を使って、3篇の中編を著すという面白い試みである。それぞれ「超然」という言葉が効果的に使われている。3篇は関連がなく、それぞれ独立した話である。しかも、語り手が一人称であったり二人称であったりと、意図的に使い分けているようにも思える。最後の「作家の超然」は自伝っぽいテイストであった。面白い。
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「そうやっていつまでも超然としてればいいよ。私は、もう合わせられないけど」とは帯文。
帯読んだ時は言う側で思っていたのに、読み通した後は完全に言われる側の心地だった。
そういう視点の転換が、純粋に、本読みの楽しさ。
絲山さんの小説が本当に好き。
3編入った中編集なんだけど、ひとつ読むごとにこの本の良さが上がって行く気がした。「作家の超然」が1番。
物語の後ろに作家の物凄く大きな引き出しが透けて見える。
がさがさと取り出される色々を、小皿みたいな自分のキャパシティで受け止める感じ。
これまでに読んだ物語が、芋づる式に(ほんとにじゃがいもを掘り起こすみたいに)想起されて、楽しくなった。
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読書の目的というのは人それぞれだと思うが、
わたしは何かを「享受」しようと思って本を
読むタイプではない。訓示垂れてない本であっても
一向に構わない。でも、心のどこかで本=肥やし
という概念も染みついていて、だからどこかで
この本の言いたいことは~と落とし所をつけようと
してしまうところもある。
で、大好きな絲山さんですが。
超然、超然、超然。
うーーん。あんまり理解できなかったんですよね。
ただ、下戸の超然は読んでてすごいイライラしました。
この女、なんだ?と。
作家の超然は、絲山サードステージという感じ(ファースト
とセカンドもあると仮定して)。次のステップに行ったなぁ
この人。と思いました。
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超然とした人たちの話。
前2作はテンポ良く読めたけど
作家の超然だけはなんだか手強かった。。
この作家は絲山さんっぽいんだろうか。
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表題作「妻の超然」が凄い。これだから糸山さんは・・・!
もやっとしてたものを少し晴らしてくれた。思いがけない形で。
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超然、には多少なりとも憧れはある。
全く動じず、超然としてられたら、保てるものがある気がする。
けれど、超然は孤独だ。孤高であるか痛々しいかは自分ではわからない。
じたばたしたり頼ったり、できるほうがきっと根を張って生きていける気がする。自分はできないほうだなあ、とぶつぶつそんなことを考えながら、妻と下戸を読み、作家に入ると全く色合いが違う。二人称が余計にこれでもかと突きつけてくる印象。たぶん、受け止めきれなかった。時間をおいてまた読みたい。
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見た目超然としているようであっても心の中はそりゃあ、バタバタしてるもんなんだな…
人は愚かでそして強がり。
だからいとしい。
最後の「作家の超然」は作者の思いが強くあらわれているね。
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「超然」を描いているが、読後感はまったく超然とはならない。
むしろ、なんとも言えない焦燥感というか、もやもやが残る。それこそがこの小説の影響力なのだろうと思う。すっきりしない、胸にひっかかったものの正体は何なのか。
(2013.4)
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絲山秋子、はじめて読んだ。
とてもよかった。
『妻の超然』
『下戸の超然』
『作家の超然』
だんだん刺激が強くなるので、著者に何か試されている気もする。
『作家の超然』なんて、二人称でしかも「おまえ」ときた。
ミラン・クンデラ曰く、
「文化は生産過剰、活字の洪水、量の多さの中で消えていく」。
情報過多の時代、でも誰にもそれを止めることができないのなら、その先を超然として待つほかない。
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無駄のないシェイプアップされた文体。体脂肪率8%くらい。
鋭くて、面白くて、やはり絲山秋子はすごいと思う。
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『妻の超然』『下戸の超然』『作家の超然』の三作品が収録されている。
表題作の『妻の超然』は多少ユーモラスながら、最も近い他人である夫との距離のあるコミュニケーションと、つかず離れずの友人、そして敬愛する料理の先生との部分的な共有を持った関わりを三人称で描く。『下戸の超然』は酒の呑めない男性の一人称である。これらは作家自身とは全く別の世界に生きる人物のフィクションで、それは「小説」というものの形態としてはごく普通のものなのだが、最後の『作家の超然』では主人公である作家を「二人称・おまえ」で描いてある。
前二作を読んだ後に、この『作家の超然』を読むという順番にも意味がある。状況を距離を置いて見るように三人称で描かれた『妻』は、夫との関係をあれやこれや考える。それをまるで観察するかのように突き放す。一人称で描かれた『下戸』は独身男性の恋人や職場の友人、実家の家族との関係を客観的な目でもって主観的に描いてある。これらは作家自身とは違った生き方をする人の「孤独」について坦々と描いてある。
そこで三作目の『作家の超然』に読み進むと、「おまえ」と呼ぶまるでもう一人の「自分」が冷徹に畳み掛けるように語る。「孤独」を飼いならし、「超然」と居ようとし、仕事をこなしていく日々と、良性の腫瘍の摘出手術を通して、これでもか、というほどの自身への「客観視」がある。そこには、前の二作で描かれた虚構でありながら、作家“ではない”別の世界を描くことによって、より輪郭が明確化された「作家」の内的世界と外の世界の隔絶と孤独が現実感を持って現される。
もちろんこれもフィクションであり、現実の作家自身ではないのだが、その仕事「文学」の状況と自身の立場を客観的に彫り出す。「良性腫瘍」という異物を摘出するという身体の痛みを伴う出来事と、作品を描くということの共通性を感じた。そして、その産みだされる「良性腫瘍」は、前二作では子を持たない妻と独身男性という“産みださない”状況との違いを明確化し、文字通りに「身」を削る。
絲山作品において毎回感じるのだが、ロマンチシズムやメランコリックなセンチメンタリズムの「湿気」を排除した「孤独」のありようが、追い込んでくる凄みと、誤魔化しようのない人の持つ当然の「孤独」を描きだしている。
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『作家の超然』
梶井基次郎の『櫻の樹の下には』を思い出しました。美しい櫻の樹の輪廻、樹の中の腐っためぐり、その中に自分や自分の作品もあることを、この絲山さんという作家は強く思っているんだな、と感じました。
容赦ない書き方をする人だな、自分に厳しいんだろうな、と思います。
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方々より面白いという噂を聞きつけ,読んでみました.
妻の超然,下戸の超然,作家の超然の全3編.
この作品,面白いのは間違いないのだが,なんとも不思議な面白さなのだ.一番のおススメは断トツで妻の超然だろう.結婚10年の冷めた夫婦の物語.妻の強かさと,夫の滑稽さが際立っている.どこの家庭も一緒なのかな.一家の大黒柱だと胸を張る夫・・・を手のひらで転がす妻.会社の信頼が厚いと嘯く夫・・・を手のひらで転がす妻.異性にモテると鼻息を荒くする夫・・・を手のひらで転がす妻.つくづく男はバカなのだ.一生,妻の手のひらから逃げ出すことは不可能だろう.まるで孫悟空だ.
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本日読了。
この人の描く孤独は
ルサンチマンや絶望とは無縁だ。
憎しみは自己にも社会にも向かわない
(いや、そもそも期待をしていない)。
透徹した秋の空のような
まさに「超然」たる孤独。
絶対的に悲しく、ただただ美しい。
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妻の超然、下戸の超然、作家の超然、の三編。
妻の超然が一番好きかな。一度壊れたものはあんな風にうまく戻らないと思うが。
そういう意味では下戸の超然が現実的な展開だったかな。