紙の本
日本人の多くが信じ込んでいる誤り「鉄道忌避伝説」について詳述
2017/10/25 14:34
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:miyajima - この投稿者のレビュー一覧を見る
日本全国に鉄道にまつわるこんな話があります。
「明治の人は鉄道がとおると宿場が寂れるといって通過や駅の設置に反対した」
「蒸気機関車からでる火の粉で火災がおきたり、煤煙で桑が枯れる(以下略)」
「鉄道が通って便利になると若者が町に遊びに行って堕落するから(以下略)」
「江戸時代に栄えたこの町に鉄道が通っていないのは、先祖たちが鉄道通過に反対したからだ」
これらの話はとても有名で、近世交通史研究の第一人者の書物や郷土史や教科書(特に副読本)にまで掲載されていることが多数あります。私自身も小学校の頃にこの話を担任の先生から聞いて今まで信じ込んでおりました。
ところが本書によれば、実際には各地ともかなり早い段階で鉄道の有効性を認識し、導入を積極的に働きかけていたというのです。そして宿場が寂れるからとか、沿線の桑が枯れるからという理由での反対は全くといっていいほど確認できなかったというのです。
先に挙げた研究も鉄道忌避を示す一次史料を示していないのです。だから本書のタイトルは「鉄道忌避“伝説”」というわけ。これは久しぶりに興奮する本を読みました。
著者は鉄道忌避伝説のある各地の路線を徹底的に調べました。その結果、多くの場合が地形の制約でそこしか線路を通すことができなかったり(岡崎とか上野原とか船橋とか)、すでに栄えていた中心街を地上げするには予算が足りなかったり、会社の都合だけによるものだったり(流山)。あとは茂原のように隣村との駅誘致合戦の結果両村の中間に駅ができた例ばかりだったのです(にもかかわらずいまだに忌避伝説が信じられているのですが)。
最も常識化している全国にある宿場町や水運関係者による反対についてはほとんどなかったというのが史実のようです。
アカデミズムは地方史を軽視してきており、研究は地域の教養ある階層によって進められてけれど、史料吟味の訓練を受けていない人が多かったことから厳密性を欠いて進められてきたと著者は指摘します。
そのような環境の中1950年代以降の地方史ブームの中で一次史料の検証がないまま鉄道忌避伝説が広まっていったと。その後地方史研究が盛んとなりアカデミズムの参入も広まったのに、鉄道史については研究人口が少ないままであったのがこの伝説を野放しにした理由になっているということです。
それでも救いは最近になってようやく地方史誌などでも鉄道忌避伝説を扱うトーンがダウンしてきているケースが出始めていることでしょうか。といいつつ圧倒的多数はこの伝説を史実として扱っているのですが。
紙の本
鉄道忌避はなかった。
2022/05/15 18:15
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投稿者:福原京だるま - この投稿者のレビュー一覧を見る
旧街道から鉄道路線が離れている区間について、これまでまことしやかに伝えられてきた宿場町や水運業者が鉄道を忌避したという話が一次史料には出てこない虚構だったということに驚いた。これまでいろんなところで類似の話があたかも史実かのように語られていたので当然根拠があるものだと思い込んでいたので本書で目から鱗が落ちる思いをした。旧街道から鉄道路線が離れているところは当時の鉄道技術と地形を考えれば至極妥当な経路であることや沿線では忌避どころか誘致の方が盛んであったことなど勉強になる。本書が出版されてもう15年経ってるのに未だに鉄道忌避伝説が払拭されていないことに問題の根深さを感じる。
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全国各地にある鉄道はいらないと昔の人が言ったために宿場には駅ができなかったという言い伝え。それらは真実でなく、別にちゃんとした理由があると、代表的な事例をあげながら解説している。
鉄道関係の話だけでなく、歴史というものが作られる過程の問題点も提起してくれる。
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青木栄一さんという、東京学芸大名誉教授の著書。書名通りの本だ。「鉄道忌避伝説」というのは、「明治の人々は鉄道建設による悪影響に不安をもち、鉄道や駅を町から遠ざけた」という説だ。学校でも、多分、人文地理といった教科で、そのようなことを習ったような気がする。そして、その説には説得力があるように思われた。それって、本当だろうか、というのが著者の疑問であり、そこから研究が始まった。筆者がその「説」を「伝説」と表現するのは、多く語られているにも関わらず、実際には歴史的な証拠がない、という点だ。
鉄道の建設の歴史というのは、明治5(1872)年の新橋―横浜間で始まり、2年後には神戸―大阪間が開通、京都へ延びる。明治16年には日本初めての私鉄、日本鉄道が上野―熊谷間に通じるなど、何度かの大きな波のように広がっていった。伝説というのも、その時代のことなのだが、現実には当時の新聞をひっくり返しても、鉄道や地方自治体に残る公文書を探しても、「建設促進」「鉄道誘致」の証拠は数多く残されているのだが、それに反対ということを示しているものは殆どない、という。むしろ、鉄道と旧街道が離れている、つまり「伝説」のケースを検証すると、例えば地形としての勾配であったり、要求された「直線」に近い鉄道側の技術・経済に負うところが大きいことが跡付けられていく。
それでは、誰が、何故にそのような「伝説」を語り始め、敷衍したのか。「鉄道史」というものへの関心は、決して古くはない。また東京、大阪などの大都市以外の地方の歴史、いわゆる「地方史」研究の歴史というものも、むしろ新しく、史料の掘り起こしは、まだまだ盛んになりつつあるところといってよい。結局、誰が何の理由で、と特定できたわけではないが、これが「伝説」であったことは、衝撃であり、興味をそそるものだった。
吉川弘文館の歴史文化ライブラリー222 2006年12月1日第1刷 1700円。
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これは、すごくいいよすごく。タイトルが全てです。でも、歴史を資料で見直すことの面白さってのをすごく良く書いてあるんだ。
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※mixi日記より転載
▼世の中には「鉄道忌避伝説」というものがあるのは多くの人がご存じのことと思います。「この町には○○線が来る計画だったんだけど、当時の宿場町の人が反対してあの街を通るようになったんだ」とか、そう言う類の言い伝えです。
▼東京近郊にも様々な例(調布だの流山だの)がありますが、mixi日記の読者層などを勘案すると岡崎を例に挙げるのが一番でしょうか。
▼「A」が東海道線の岡崎駅ですね。一方で、岡崎市役所がある岡崎市の中心部はけっこう北の方に離れています。1976年に国鉄岡多線(今の愛環)が建設されたときには「中岡崎」という岡崎市中心部にも近い駅ができたりしていますが。
▼で、こういう事になった原因として、「東海道の岡崎宿(など)の人が鉄道を忌避した結果だ」と言うことはよく言われます。恐らくその辺の人は学校でそう習ったんじゃないでしょうか。
▼この本ではそうした「鉄道忌避伝説」の存在に疑問符を投げかけています。こうした線形になったのは完全に鉄道土木上の必要性に迫られての事だと。
▼まぁよくよく考えればそれはそうであって、岡崎はともかくその他有象無象の宿場町が、「東京から神戸を結ぶ」という大目標がある鉄道路線の線形設計に影響を及ぼすか、といわれればそんなことは無かろう、という気もしますよね。昨今のリニアと長野県ではないですが、当時はもっと「お上」の力は強大だったわけですから。
▼ともあれ、豊橋と岡崎の間にはそれなりの山があります。コレを如何にして越えるかが当時の鉄道技師の悩みどころだったみたいです。でまぁ、ある意味「仕方なく」、蒲郡からあぁいうルートで山を越えることになった、とこの本では推測しています。
▼名鉄(コレはほぼ東海道筋に沿っています)を豊橋方面に乗ると、東岡崎をでた辺りから唐突に山深くなってきて若干焦ります。名鉄は当初から電車が走る体で設計したから、東海道筋に沿ってある種「強引に」線路を引けたのでしょうかね。
▼あとは架橋の問題もあったみたいで、東海道に近接して線路を引くと矢作川と乙川の両方に架橋しなければいけないとかあったみたいですね。現に東海道線の橋は矢作川と乙川の合流点直下に架かっていますし。
矢作川@岡崎
▼その他にもいろいろな例示が載っていますが、要は鉄道忌避伝説がもっともらしく信じられていた歴史学・地理学の分野では鉄道を「敷く方」の論理があまり反映されてこなかった、と著者は指摘しています。
▼とはいえ、自分も頭の中で鉄道忌避伝説にそんなに強い疑問を抱いたことはこれまで無かったし、今の(計画系)土木の中で「作る側」の論理がどれだけ念頭に置かれているか、土木っぽくも歴史っぽいことをやらんとしている自分は今一度考えてみないといけないのかな、と若干考えたりもしました。
▼ま、ともあれ、鉄道忌避伝説を聞いたことある人にとってはきっと目からウロコ、だと思います。是非読んでみては。
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「なぜJR中央線はまっすぐなのか」
以前、通勤で使っていたJR中央線に乗っていて、いつも思うことがあった。「この線はなんと乗り心地がいいのか」と。ちょうど旧型から最新型へと、車両の置き換えが済んだ時期だったということもあったのだが、それ以上に、乗っていてほとんど揺れを感じないのだ。そのあとで、平行して走る私鉄に乗ると、「ずいぶんと揺れるなあ」と、今まで気づかなかった乗り心地の悪さを感じてしまうほどであった。
それもそのはずで、JR中央線の線路は、ひたすらにまっすぐでカーブが全くないのだ。特に、新宿を過ぎて、立川に至るまではひたすらに直線が続いている。地図を見ると明らかにわかる特徴である。
一方で、その沿線には、古い町というのが少ない。府中や調布といった、旧甲州街道沿いの古くから栄えた町は、平行する京王電鉄の沿線となっている。
こうした現状からさかのぼって、日本社会には長らく「鉄道忌避伝説」なるものが存在してきた。いわく、古くから栄えてきた宿場町にとって、鉄道は商売敵であり、その開通に反対の立場を取ったため、幹線の多くは町はずれに作られることが多かった、というものである。
本書は、こうした「鉄道忌避伝説」について、歴史地理学の手法に従って、その通説を覆していくものである。資料を丹念にあたりながら、通説の自明性を覆していくそのプロセスは、まさに痛快であり、実証的な学問の面白さが存分に味わえる一冊となっている。
たしかに、開通以前の鉄道に対して、反対運動が全くなかったわけではない。また、日本社会における幹線鉄道の敷設に当っては、たしかに古くからの宿場町を避けているかのように見える路線が多いのも事実だ。
だが、青木によれば、それらは、古くからの宿場町を避けたというよりも、むしろもっとも合理的なルートを選択して敷設された結果に過ぎないのだという。つまり、急なカーブや上り坂を避けたために、結果としてそうなったに過ぎないのだ。冒頭で紹介した、JR中央線のルートなどはその好例として、次のように記されている。
「だから、甲武鉄道(現在の中央線)が新宿―立川間を二十数キロに及ぶ緩勾配の直線ルートで建設したのは、甲州街道筋の宿場町の反対でやむなく武蔵野台地上のルートを選択したためであるという鉄道忌避伝説があるが、鉄道側から見ればこれは理想的な線形であり、仕方なく選択したなどというようなものではないのである」(P50)
なるほどと、うなづける指摘であろう。だから、JR中央線の線路はあれほどにまっすぐで、乗り心地がよいのだ。
他に考えてみても、今日に至るまで、これほどの科学技術大国となり、急速に富国強兵・殖産興業を推し進めてきた日本社会において、鉄道という存在が、「得体のしれない西洋のもの」として、それほど強く忌避されていた、というのも、落ち着いて考えてみるとどこかおかしい話である。むしろ、国外から伝わってきたものを、次々に取り入れていく柔軟性があったからこそ、あれほどの急速な近代化がなし得たのでは��いだろうか。
このように、我々が生きている社会には、当たり前のものとして疑われないままでいる「常識」がいくつもある。時に、学問はこうした自明性を覆していくが、本書はその実証的なアプローチにも学ぶところが多く、まさに「目からウロコ」の一冊といえよう。
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私がはじめて聞いた(信じていた)鉄道忌避伝説は”山手線は浅草を通るはずだったが、反対運動があって上野を通ることになった。”というもの。この数年、鉄道関係の本を読んできて、そこに鉄道が通らなかったのは、反対運動によるものではなく、すでに市街地には線路を敷く土地がなかったり、線路を敷くには当時の土木技術では難しい地形によるものであるという事実は知っていた。本書はいくつかの鉄道忌避伝説を、古文書(第一次資料)を用いて、反対運動が(あったとしても巷間伝えられるような無知蒙昧による反対では)無かったことを証明し、かつなぜ鉄道忌避伝説が巷間に流布(信じられるように)なったかを明らかしている。古文書が引用されているが、その内容を本文に要約するなどして、平易な読解が可能なように書かれている。冒頭部に書かれた、日本では鉄道史学が軍事学と同様に一般的学問として認められていないという著者の主張にはまったく同感である。
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表題のとおり、都市伝説化した噂を様々な資料を用いて、流布されている内容が必ずしも正しくない、という学者ならではの理詰めの検証には納得。
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こんな面白い本があるのだ。佐賀県嬉野温泉には鉄道駅がない。長崎街道を歩くのにとても困った。長崎線がどうして嬉野温泉を避けたのか、事情をこれで知ることができるかもしれないと思い、広大中央図書館から借りてきた。広大中央図書館 686.21:A-53::0100447390
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明治の人々は鉄道が通ると宿場がさびれるといって鉄道通過に反対したり、駅をわざと町から遠ざけたりしたという鉄道忌避伝説が虚像であることは鉄道史研究者の間では常識となっているらしい。
例えば旧東海道の宿場町である岡崎で東海道線の駅が町の中心部から離れた所にあるのは急勾配と急曲線を避けてなるべくトンネルを掘らず長く橋梁を架設しないですむルートを選んだ結果に過ぎないのだそうだ。
岡崎に引越してからずっと不思議に思っていた謎をサラリと解いてくれた著者に感謝したい。
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鉄道インフラを整備するときに
「早い」「安い」が重要なのはよくわかる。
だから、実際は「通したくない」場所より
「通しやすい」場所を探す。
昔の街道や宿場町は山沿いのところも多く
鉄道が敷かれなかったのは
それが理由だったこともあるようです。
なのになぜ「反対派の声で来なかった」
というイメージの残る町があるのでしょう?
記憶と記録の差異はどこにあるのか。
著者が学会誌などで発表してきたものだそうで
とっても真面目に交通と地元の関係を
研究した本でした。