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商品説明
帰国から60余年、「交換船」は私にとって、封印された記憶だった−。1942年6月、戦時下のNYと横浜から、対戦国に残された人々を故国に帰す「日米交換船」が出航。鶴見俊輔が初めて明かす、開戦前後と航海の日々。【「TRC MARC」の商品解説】
収録作品一覧
日米交換船の人びと | 鶴見俊輔 ほか述 | 17-248 |
---|---|---|
交換船の記録 | 黒川創 著 | 249-410 |
ハーバート・ノーマン | 鶴見俊輔 著 | 413-420 |
著者紹介
鶴見 俊輔
- 略歴
- 〈鶴見俊輔〉1922年東京生まれ。ハーヴァード大学卒業。哲学者。
〈加藤典洋〉1948年山形県生まれ。東京大学文学部卒業。文芸評論家。早稲田大学国際教養学部教授。
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紙の本
「一番病」から「負ける側」にいたかったという転向
2006/07/03 17:12
8人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:栗山光司 - この投稿者のレビュー一覧を見る
1942年6月18日、第一次日米交換船グリックスホルム号、ニューヨーク港からポルトガル領東アフリカ、ロレンソ・マルケスに向けて出航。同年6月25日交換船浅間丸は横浜から、6月29日同じく交換船コンテ・ヴェルデ号、上海からそれぞれロレンソ・マルケスに向け出航。そして7月23日にロレンソ・マルケス港で日米双方の帰還者約1500名が交換されるのです。そして浅間丸とコンテ・ヴェルデ号は8月20日、横浜港に帰着。
約二ヶ月の長い航路の船中で鶴見俊輔は20歳の成人を迎える。鶴見俊輔の大きな仕事に『共同研究 転向』(平凡社)がありますが、「転向」を書いた動機に日米交換船の記憶があると言う。交換船がニューヨークからロレンソ・マルケスまでと、ロレンソ・マルケスから横浜までとは、同じ乗客の日本人が、がらりと変わったという印象ある、そのことを書いてみたかったという。
『無思想の発見』の養老孟司なら「世間」が変わったに過ぎない当然の身体反応というかも知れない。しかし、その時から63年も経っているのに日本社会は「世間」というみんながそう思っているであろうあいまいな社会通念を仮構して自明視し、相変わらず融通無碍の「世間」に生きている。
鶴見さんの鼎談集『戦争が遺したもの』(新曜社)では上野千鶴子、小熊英二が鶴見さんの引き出しから本書に触れる部分を沢山引っ張りだしていましたが、こちらの本と合わせて読むと理解がいっそう深まるかもしれない。
『日米交換船』の鼎談面子は加藤典洋、黒川創である。500頁近い大作ですが、後半は作家黒川創の「交換船の記録」で一万ページに渡るテキストを渉猟した貴重な記録集になっている。だから、本書は鼎談集と黒川さんの労作との合本集と理解していい。ここに登場する人々は勿論、物故した人々が多い。今年84歳の鶴見さんは乗船客の中で若かったのです。でも子供達もいました。鶴見さんは船中で子供達とよく遊んだらしい。鶴見さんの師でもある同船者、都留重人は今年の2月5日に93歳で物故しました。もう、数ヶ月長生きすれば、本書を手に取ることが出来たのです。鶴見和子さんは元気です。
本書で特別な章立てとして加藤典洋の『竹久千恵子』、黒川創の『天野芳太郎』、鶴見俊輔の『ハーバート・ノーマン』、『大河内光孝』、鶴見さんの三つの会見記、松村たね、武田清子、鶴見和子があります。
本書を読み終わって、やはり63年後というのは長すぎる。もっと早く上梓されてもよかったはずだと思いますが、長い時の発酵が必要だったのでしょうか、ぎりぎりに間に合った後生に贈る「これも又戦争なんだ」と国家と個人の生き様を語る貴重な一冊です。20歳を迎えようとしていたハーバード大学生鶴見俊輔はアメリカ政府の役人から「交換船が出ることになった。乗るか、乗らないか」と訊かれて、「乗る」と即答する。
そうしてその決断はぼんやりとした思想と見通しだが、「負ける時に負ける側にいたい」という鶴見さんらしい美意識なのです。それは鶴見さんにとって「一番病」からの転向だったと言える。
歩行と記憶