紙の本
利他のアイデアに満ち溢れた新しい利他論
2022/05/15 09:38
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ぴんさん - この投稿者のレビュー一覧を見る
特に「受け手」の視点に立ち、受け取ることが「与え手」である相手を利他の主体へと押し上げる、意図を超えたものとして、利他を相互的な立場や偶然性から捉え返す議論に興奮。私たちは、与えることによって利他を生み出すのではなく、受け取ることで利他を生み出します。そして、利他となる種は既に過去に発信されています。私たちは、そのことに気づいていません。みんが正義や義勇心に満ち溢れた存在ではありません。当然、家族もあれば生活もある。討ち入りをして、自分が死んでしまったら、家族を養っていくことができない。自分勝手に自分の想いを果たせばいいというものでもない。
紙の本
利他の正体とその本質。
2022/01/21 01:32
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ゲイリーゲイリー - この投稿者のレビュー一覧を見る
利他的行為は時として、意識高い系や偽善者と揶揄される。
例えば、企業が取り組むSDGsや被災地へのボランティア活動。
これらに胡散臭さを感じた経験はないだろうか。
その胡散臭さの正体とは、利他的行為から透けて見えた利己的な動機に他ならない。
では、本当の利他的行為とは、利他とは一体何なのかに迫ったのが本書である。
本書のユニークな点は、ジャンルに縛られることなくありとあらゆる物事や事例から、利他の正体を炙り出そうとするところだ。
落語の「文七元結」やインドの天才数学者・ラマヌジャン、ヒンディー語やのど自慢など何の関係性もないそれらから、利他の核となる部分を導き出していく。
本書を読んでいて強く思ったのが、現代社会がいかに利他と対極をなしてしまっているのかということだ。
情報が氾濫する社会に生きる私たちは、効率性と合理性を重視し、他社と比較しいかに賢く最短距離で物事を成し遂げるかに憑りつかれている。
すぐに結果が出ないと怒りや不安に襲われ、結果が出れば全て自力で成し得たと豪語する。
その根底にあるのは自力で何でもできる、全てを理解できるという傲慢さ。
全ての物事は必然で、何が襲い掛かろうとそれは全て自己責任であるという風に世界を捉えているのだ。
しかし著者はそういった自己主体性や必然性とは正反対の偶然性こそが、他者への寛容と共感へと繋がると述べる。
私が私であるということの偶然性。私が何かを成した遂げたという偶発性。
今この瞬間の出来事は全て偶然に過ぎないという認識。
つまりこの一瞬一瞬全てが偶然生じた奇跡であるという捉え方ことが重要なのだと。
本書は、頭でっかちになり過ぎた私たちにとって自らを見つめ直すきっかけを与えてくれる。
如何に私たちが傲慢で利己的であったかを痛感させられるだろう。
紙の本
利他の真髄を気づかせてくれる本
2023/09/09 19:16
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投稿者:S.O - この投稿者のレビュー一覧を見る
たくさんの事例や理論,著名な方の書物の紹介とかもあり,難しそうだけど納得しながら読める本でした。
「利他は与えることによって生み出すのではなく,相手が受け取った時に発生する」「それを受け取った相手の行為や言葉で受け取ることによって気づく」,結局,自分自身が受け手として与えられるもの,未来になってやってくるものであること。とてもいい発見をしました。
落語「文七元結」の話が頭に残り,利他のことを記憶に留めることができそうです。
紙の本
思考のメモ的な内容。居酒屋で会話すれば充実感はあるが本としては物足りない。
2023/06/02 11:52
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投稿者:flowerofzabon - この投稿者のレビュー一覧を見る
談志の落語論、親鸞、土井善晴、民藝、仏教とボランティア、こんな夜更けにバナナかよ、サンデル、認知症患者にまつわるケアや考察、贈与論、企業の社会貢献、アタリの「合理的な利他」、ポトラッチ、NHKのど自慢(今ではカラオケ化に改悪で本書で触れられているような光景は今では見られず)、自己責任、九鬼『偶然性の問題』、若松英輔、国立博物館にみる「ナショナルヒストリー」とは。
本書に含まれるこうした話題は、たまたまなのかもしれないが、そんなに勉強家とも全くいえない私でも親しんでいる話題で、それこそ会食で交わされる当たり障りのないトピックかつ考察の深さというか浅さ。マウントを取りたいわけではない。またエピソードが後半になるにつれて自分絡みの物が多くなるのもなんだか本というより会話的。
私が本書で初めて知り興味を惹かれたのはヒンディー語の文法の与格について。北大の教員だった筆者が北海道弁についても同様のニュアンスを持つ助詞があることに触れないのは何故?という点も合わせて気になった。
また利他は受け取られた時に発動する、というのはともかく、感謝を表明された時の、結果的に利他行動をすることになり思いもかけず感謝された行為者の感情に興味があるのだが、それについては一切の言及はない。
ということで、本書は残念ながら私にとっては示唆に富むとか、刺激的とかではなく、ま、短時間で読めるので損はしてないが、という程度の本だった。それにしても最近のミシマ社、中島岳志関係の本、安易に出し過ぎじゃないか?
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「『合理的利他主義』は利他ではありません。むしろ利他の本質を崩壊に導くイデオロギーです。」ふだんやわらかな語り口調の著者からすると、これはかなり激しい意見表明に聞こえる。合理的利他主義とは、利他的であるのは、まわりまわって自分に利益がもどってくるからであるという、結局利己的な考え方のことである。その利己的な部分が入ってくると、もはやそれは利他ではありえない。だから、利他とは、偶然に、思いがけずやってしまうものであって、意図的なものではない。自分はなんとも思っていなかったのに、ずいぶん経ってから感謝されたりする。そんなふうに未来からやって来るものなのである。本書の後半を読みながら、ずっと「恩送り」ということばについて考えていた。自分がもらったプレゼントに対してお返しをする。気持ちの問題だし、そうやって経済はまわっていると考えれば悪い習慣ではないのかもしれない。しかし、自分がプレゼントをして、そのお返しを期待するというのはちょっと違うような気がする。自分が受けた恩を、与えてくれた相手にではなく、また別人に与えていく。それはおそらく、同じ時間の中に限らず、過去から現在へ、そして未来へとつながっていくものだと思う。親から受けた恩は、子へ与えればよい。先生や先輩からいただいたものを、生徒や後輩へ受け継いでいけばよい。だれも皆自分一人で生きてきたわけではないのだから、他から何らかの利益を得てきているはずである。そうして生かされてきたことに感謝し、無意識であったとしても何かを他者に渡していくことができれば良いのではないか。皆がそんな思いで暮らしていれば、住みやすい世の中になるような気がする。これは利他ではないでしょうか。たまたま、2日休みが続いたので一気に読み通した。若松さんとの出会いの場面に最も感動した。偶然が一気に必然になる瞬間。そういうことってあるのですね。
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ヒンディー語の与格という考え方も初めて知った概念で大きな学びになったし、「自分の行為の結果は所有できない」という考えがものすごく腑に落ちた。
ギフトには贈り物の側面と負債感という毒の側面があるというのもすごく納得できる。
あと第三者だけど、若松先生と中島先生の邂逅にはものすごく心動かされるものがあった。
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利他。ほかの人のために助けになるようなこと。しかしどこか自分をよく見せようとすると、利己的になり、利他ではなくなる。また相手が利他を受け取って、それを負担に思ってしまうと、これも利他ではなくなる。そんな難しい利他をわかりやすく解説した図書。
利他は自分ではコントロールできない、受け手が感じてはじめて利他が発生する。利他は受け手にとっては過去から「そういうことだったのか…」とやってくるものであり、送り手はあとから感謝される、未来からやってくるものである。そして何より偶然に発動するオートマティカルなものである…と具体例を交えて語られる。
過去に受けた利他を今の人に引き継ぐ、つないでいくことによって、数十年後にふっと利他が来ているかもしれない…。誠実にというか…きちんと生きようと思えた。
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時に利己的にもなる打算的な利他についても論じつつ、本来の利他に潜む偶然性を論じる後半が白眉。
まさに“思いがけず”という通り。
特に「大切なのは自力の限りを尽くして偶然が宿る器になることで、その器に偶々やってくるものが利他だ」というあとがきが心に響いた
種をまき続けることが大事なのだ…
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それが「利他」として起動するのはは、受け手が利他と捉えた時。利他は偶然性の産物であり、未来的である。
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一章 業の力 It's automatic
第ニ章 やって来る 与格の構造
第三章 受け取ること
第四章 偶然と運命
ひょんな事から関わることになったボランティアの意義(人のため?自分のため?)も、どうやら「利他と利己」の関係性と似て、メビウスの輪のように繋がってる。思いがけないからこその利他。なんだかホッとする。
これまで読んできた本との出会いや両親の言葉がふいに思い出され、ここにも利他がある!と「運命」を感じつつ読了。
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以下引用
論理は流れを伴って現れる。そもそも論理とは流れと同一
論理や芸術、音楽はすべて流れ
聞こうとして聞こえる救済ではなく、己を投げ出すとき、聴こえてくる救済
活動の従事者が、しばしば身が動くという言葉を使う
起点は情動。したがって意義というものを先行して考えるのは非ボランティア的であり、実際的ではない。
ボランティア的な活動に対してそのように先行的に意義を考えようとする態度自体を否定する。親鸞の場合、ボランティアに限らず他のすべての活動について事前に意義を設定したい実践者の衝動を拒絶する
意義や意味はあらかじね存在するものではありません。すべて事後的なものです。特定の意義を達成するために行為するのであれば、それはすべて自力になってしまい、褒められたい、認められたいといった賢しらな計らいが動機としてせり出してくる
その行為を通じて得られる承認にありまづ、これは利己的行為であっても利他ではありません。
合理的な理由がないこと。
その行為は意思の外部によって引き起こされた衝動
行為自体は利他的でも、動機付けが利己的な場合、胡散臭い
企業のイメージアップのための社会貢献を行なっているだけ、社会貢献の成果を強調されると利己性を感じてしまう
いくら他者のことを思って行ったことでも、その受け手にとってありがたくないことであったり迷惑なことだったりすることは十分ありえる
利他行為の中には、多くの場合相手をコントロールしたいという欲望が含まれています。相手に共感をもとめる行為は思ったような反応が得られない場合、自分の思いに服従させたいという欲望に容易に転化する
統御ではなく、そうことに主眼がある。ぞれぞれも人が持っている能力を引き出し主体性が喚起されることが目指されている
沿う伴奏によって、歌い手の個性が引き出され、見ている側が温かい気持ちになります。これこそが利他的。
ー利他は目立たないものです。しかし誰かが活躍して、個性が輝いているときには必ずその輝きを引き出した人がいます。利他において重要なのは支配や統御から距離をとりつつ、相手の個性に沿うこと。主体性や潜在能力を引き出すあり方
特定の行為が利他的になるか否かは事後的にしかわからない。
利他は与えたときに発生するのではなく、それが受け取られたときにこそ発生する。自分の行為の結果は所有出来ません。
与え手の側はその行為が利他的であるか否かを決定することができませんー
与えることが利他だと思い込んでいる
利他は相手の個性に添い、ポテンシャルを引き出したとくにこそ生まれる
私たちが受け手となって利他が起動するのは、相手の行為によって自己の能力が引き出され主体性が喚起されたとき
その一言を10年以上経ってから受け取った。先生が言葉を発した時点では受け取り損ねている。受け手が相手の行為を利他として認識するのはその言葉のありがたさに気づいたときであり、長いタイムラグがある。
利他は受け取られたときに発動する
わたしたちは、他者の行為や言葉を受け取ることで相手を利他の主体に押し上げることができる
与えることによって利他を生み出すのではなく、受け取ることで利他を生み出す
自分の行為が利他的であるかどうかは、不確かな未来に規定されている、自分の行為の結果を所有することはできず、利他は事後的なものとして起動する
★発信者にとって利他は未来からやってくるもの、行為をなした時点ではそれが利他なのかはわからない。発信者を利他の主体にするのは、どこまでも受けての側である。この意味で、私たちは利他的なことを行うことができません
→利他は客体的なものではなうということ、あくまで関係概念
偶然性という脅威は形而上的情緒
偶然の出来事に直面したとき、あっ!と驚きます、このあっ!の瞬間は現在ですよね、驚異の情緒は偶然性の時間性格たる現在性に基づいている
あっ!の瞬間は問題が未解決のままに眼前に投げ出されています。何が起こったのかとっさに判断できず、今起きている現実がどのようなことに繋がるのか、これからどうなっていくのか、あっ!の瞬間にはわかりません。しかし時間が経つとそこに意味付けがなされていきます
偶然と必然は時制がちがう。偶然は現在性という時制に基づき、脅威という興奮的感情をもたらします。しかし時間が経つにつれて偶然の脅威を飼い慣らしはじめます、次第にあれは運命の出会いだと感じるようになり、偶然を必然に読み替えていく。つまりm今起きている偶然は未来からやってくる必然という物語により運命へと生まれ変わります
あらゆる存在は与えられたもの、被贈与的なものです。そしてこれを私として受け止めたとき、偶然は運命へと姿を変えます。
人間としてその時になしえることは、意志が引き返してそれを意志して自分がそれを自由に選んだのと同じ分け合い
することであります
偶然を意志をもって引き受けることで、私を生きることができる。わたしうぃ生きるということは、私という非贈与性うぃ受け入れ、運命を能動化する作業
縁起的な偶然を、のちに因果的な必然へと読み替え、経験し直す。偶然は現在が物語化されていない状態であり、この現在が未来から物語化されるとき、偶然が必然へと変化します
★特定の行為が利他へと昇華されたとしても、行為者に相手から直接返礼があるわけではありません。相手に直接的な互恵関係を強いると、相手に負い目や負債感を押し付けることになり、次第に支配/被支配の関係が立ち上がります。直接的な見返りをもとめてはいけません
将来の利益を期待した行為は贈与や利他ではなく、時間を隔てた交換
今損をしてもいずれ間接的に利益がもたらされるという考えは打算的、
合理的利他主義者は、未来への投資としての利他
利他は未来からやってくる
偶然性の脅威を未来によって倒逆的に基礎づける。偶然性は不可能性が可能性へと接する接点。偶然性の中に極微の可能性を把握し、未来的なる可能性をはぐくみことによって行為の曲線を展開して、翻って現在的なる偶然性の生産���意味を当逆的に理解する
自分には価値がないと思っていても、偶然の現在受け止め、未来に自己を投機すると思ってもいないyぅな価値を生み出す可能性があります
★受け手が何十年も経ってから、自己の歩みとあの時の一言を因果の物語として捉えたとき、過去となった今に意味が与えられます。あのとくの一言は未来から利他的なものとして認識され、私は利他の主体へと押し上げられます
★私は「今」の意味を、未来から贈与されるのです。そのためには、今を精一杯生きなければなりません。偶然の邂逅に驚き、その偶然を受け止め、未来に投棄していく、その無限の連続性が私たちが生きていること
★身が動くこと
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利己的な利他 偽善
どんな思いよりも何が届いたのか
教師の言葉を卒業生が後からかぶってないでしょうかして自分のものにして感じる利他もある
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・お返しをしなければならない負債感を生むのが贈与の特徴。あげる人、もらう人という上下関係が構築されてしまう。贈与や利他の中には、支配という毒が含まれることがある。
・利他主義は最善の合理的利他主義に他ならない
・人間は小さな存在です?細かいことに執着し、嫉妬ややっかみを繰り返す。その人間の小ささを大切にするのが落語。
・自分はどうしようもない人間である。そう認識した人間にこそ、合理性を度外視した一方的な贈与や利他心が宿る。この逆説こそが、談志が追及した業の肯定。
・ボランティアの起点は情動にある。意義を先行して考えることは非ボランティア的である。意義や意味は事後的。
・統御ではなく、沿うことに主眼が置かれている。それぞれの人が持っている能力を引き出し、主体性が喚起されることが目指される。
・利他は与えたときに発生するのではなく、それが受け取られたときにこそ発生する。極論、死者を弔うことが、世界を利他で包むことになる
・親鸞は良い人と悪い人という二分法をとらない。人間は全て愚かで間違いを犯してしまう。人間のどうしようもなさに向き合い、自己の能力に対する過信を咎めた。
・親鸞が見つめたのは、私が私であることの偶然性であり、その偶然の自覚が他者への共感や寛容へと繋がるという構造
・運も実力のうちではなく、実力も運のうち
・自分の行った行為やギフトのお返しが、その行為の受け手から直接なされるのではなく、まわりまわって自分に利益をもたらすという循環システムが間接互恵である。
・利他は自己を超えた力の働きによって動き出す、利他はオートマティカルなもの、利他はやって来るもの、利他は受け手によって起動するもの、利他の根底には偶然性の問いがある。
・他力本願とは全てを仏に委ねて、ゴロゴロしていればいいということではない。大切なのは、自分の限りを尽くすこと。自力で頑張れるだけ頑張ってみると、私たちは必ず自己の能力の限界にぶつかります。そのことを深く認識したときに、他力が働く。重要なのは、私たちが偶然を呼び込む器になること。
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"利他的であろうとして、特別なことを行う必要はありません。毎日を精一杯生きることです。私に与えられた時間を丁寧に生き、自分が自分の場所で為すべきことを為す。能力の過信を諌め、自己を超えた力に謙虚になる。その静かな繰り返しが、自分という器を形成し、利他の種を呼び込むことになるのです。" 177ページ あとがき
毎日を精一杯生きよう!
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Podcast『超相対性理論』の荒木さんキッカケで読み始めた。昔から興味をもっていた親鸞が登場してびっくりした。偶然は今で、必然は未来。今の自分が将来何に繋がっていくかわからない。自分の行動が他人にどんな影響を与えるかもわからない。考えるだけ無駄だ。でも責任は重い。だからこそ、謙虚に、とにかく自分が、今できることは何かを問い続けることは大切だ。
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中島さんの柔らかい他者、死者を含む全ての他者、への眼差しを強く意識した。
ダライ・ラマが説かれる慈悲の心、悪いと思う相手に出会えたことで慈悲の心を持ち実践することができるからあなたはラッキーだというようなことだったと理解し泣いてそうやなあと思いながらも、でも、この人のここは正したいという問い迷い悩み自己嫌悪他者への不寛容に苛まされていた。20年くらいたち、中島さんの、死者と立憲の話を知り、今、また利他のことをずしりと教えていただいた。死者と立憲の話もその時間軸の取り方に目を開かれたが今回も利他の自制そして利他はやってくるもの、it’s automatic やて。瞠目でもあり、まさに、だからこそ芝居したり音楽聞いたり映画見たりして何やわからんところで涙が出てしまったりもするのかな。
自助とか自己責任とかグリーンウォッシュとかいけすかない社会に身を置いているが、
何もできていないけど大いなる偶然と、未来を信じてもよいかと、と。サンデル教授の言うように運も実力で、ほんとに、どこに生まれたかで違うんだ、、と言うこの救いようがない悲しみを、それでも忘れずに明日も生きたい。