紙の本
「触れもせで」「夢あたたかき」の2冊が読めます
2023/01/11 15:42
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投稿者:夏の雨 - この投稿者のレビュー一覧を見る
「女正月」という言葉がある。
小正月の別名で、ちゃんと『歳時記』にも載っている。
年末年始忙しかった女性が15日頃にようやくゆっくりできるという。
玄関に日の差してゐる女正月 宮津 昭彦
この言葉を、「寺内貫太郎一家」などのドラマを演出した久世光彦さんは
向田邦子さんから教わったという。
そんな言葉の記憶から
向田さんとは正月に会ったことがないと、
久世さんにとって向田さんとの思い出は尽きない。
この本のタイトルにあるように
久世さんと向田さんの親交は
向田さんが1981年8月突然の航空機事故で亡くなるまでの
20年間に及ぶ。
だから、生前の向田さんのエピソードをまとめたエッセイ
『触れもせで』を1992年に上梓している。
それから3年後には『夢あたたかき』を出版。
ちくま文庫に収められた時に2冊を1冊とし、
『向田邦子との二十年』というタイトルにまとめ直した。
久世さんは2冊めの最後の章で、
「あの人を書くということは、当たり前のことだが、自分を書くということであり、
あの人のあの時代を書くのは、私の時代を書くこと」と
書いているように、
『夢あたたかき』の方は久世光彦自身を語る部分が多くなっている。
数多い交流の場面でやはり印象的なのが、
向田さんが乳がんになった時に久世さんと
「寺内貫太郎一家」の最終回の打ち合わせを行うところだろう。
その夜、久世さんは涙を流し、
「少なくともあの一夜だけは、あの人を愛していたのだと思う。」と
綴っている。
しかし、二人は決して触れ合うことはなかった。
「年とともに伝説は暖かな輝きを増し、読者は確実に増えていく。
稀有の作家なのである。」と、
久世さんが評した向田邦子さんを知るには
欠かせない一冊だ。
紙の本
本まるごと一冊「亡き恋人にあてた恋文」
2016/09/29 13:27
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投稿者:kinya - この投稿者のレビュー一覧を見る
脚本家 向田邦子と演出家 久世光彦の二十年にわたる交流を抑制の効いた筆致で、エピソードをつまびらかにしていく。「万年筆を何本もぶんどられた」といった軽妙なエピソードもあるが、多くのエピソードは枯葉色に変色し、そのひとつひとつに目を細め、愛しむようにして書かれたであろう随想記。一冊まるごと向田邦子へのオマージュであり、亡き恋人にあてた恋文の様でもある。向田邦子について語り、書かれた文章は多く存在するが、はたしてここまで描き切れる人はいるだろうか。深く愛した男はいただろうか。著者の心情が読む者の琴線に強く触れる好著。
紙の本
向田邦子さん
2020/09/13 19:59
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投稿者:earosmith - この投稿者のレビュー一覧を見る
向田邦子さんの「あ・うん」のような、河島英五「時代おくれ」の「好きな誰かを思い続ける」のような、名付けようのな思いに胸を打たれました。
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タイトル通り、久世さんが語る向田さんの本。
客観的ではなく、あくまで久世さんの目から見た向田さん、久世さんが知っていた、そして知ることのできなかった向田さんについて。
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向田邦子が好きである。
何故好きかと言われると、ストーブの匂いを思い出すから、と答えてしまいそうだ。それは国語の國安恩師が好きであったのも加味されているが、あの時あの頃の時代の匂いを思い出すからだ。時代が違えどなぜか懐かしく切ない。
212ページの「縞馬の話」は涙が出そうになった。
フェデリコ・フェリー二の道、という映画について語っていた部分だった。それを読み進めるうちに
信じる、とか約束、とかもはや現代社会で暮れなずんでいる言葉達を思い起こした。今繁茂している、たくさんの言葉の海に隠れたその生々しい傷を思い出す。いつかジュノでとんかつたべいこうよ、とか、今度こそ夜景見に行こうねとか、また来年も海に行こうね。
そういう悲しくも美しい果たせなかったものたちが心の片隅で燃え煤のようにちりぢりしているのだ。
それは今現代社会でもきえうせているものではあるまい。
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名前の匂い
人の名前には匂いがあると思う。
温度のようなものもあるような気がする。
もっとも、それは単に名前の文字からだけ来るものではなく、名前には必ず顔がついているからそう思うのかもしれない。
私の知っている〈秋子〉という名の人は、どの人もつつましく涼しげだし、〈朱美〉には華やかでいろっぽい人が多い。
それはよく言われることだが、自分の名前と長年連れ添って暮らしているうちに、人の方から名前に近づいて行くからなのかもしれない。
人とその名前は、どこへ行くにもいっしょである。
いっしょに思いあぐね、いっしょに頬を染め、いっしょに怒ったりするうちに、名前に匂いが移り、体温も伝わって行くのだろう。
女の名前は特にそうである。
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感傷的でも過度に情緒的でもない文章なのだが、なんだか居心地がよくてずっと読んでいたい気持ちになる。
久世さんが描く向田邦子さんの在りし日の姿は、なんと豊かな女性なのだろう。
いなくなられて十数年もたってみると、姉のように思われてくるのはどうしてだろうー 初めは仕事上の関係と綴る文章が、ここで本音に近づいた気がする。
映画監督・市川崑作「おとうと」や中原中也が引合いに出されていてわかりやすいが、弟気質の男性・あるいは全ての男性は、自分をそのままでいさせてくれて許してくれる姉的肯定の存在を求めていると。姉は美しくなければならないし賢くあってほしい。優しくもあってほしいし、つよくもなければならない、と。
ずいぶん勝手なはなしとゆるやかに綴るが、長女気質で働く女性の代名詞だったみたいな邦子さんに、多くの読者はその勝手な面影を押しつけてきたのかもしれない。
作家の在りし日の姿を、理想像を知りたいと思って読むと裏切られるが、向田邦子さんという三姉妹の長女の貌(かお)、日々豊かに軽やかに生きていたひとりの女の貌を知る素敵な一冊だった。
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向田邦子という女性は私の中では特別な女の人で、
意識しているわけではないけれど、”向田邦子”という言葉へのアンテナは、いつもバリ3で立っている。
ブックオフの100円コーナーに並んでいたこの本も、
そのアンテナにひっかかって、私の手元にやってきた。
自分が憧れている人の本を読みたいときというのは、
少し自分の中に元気がないときのような気がする。
前に進む力が欲しくて、どっちに進んだら良いかを教えてほしくて、その人に「頼って」しまうのだ。
生きている人と違って、ただ「頼る」ことはできない。
そこはやはり「本」であるから、自分でそうか…と思う答えを見つけなくてはいけないのだけれど。
そうして見つける答えは、いつも同じだったりする。
自分が今まで考えたり、感じたり、これが自分にとって生きていくという事なのだと思っていた事を再確認することだったりする。
あたしはただ単に怠け者で、ハートの筋肉が鍛えられていなくて、できていないだけなのだと。
本を読むことは自分の心に電話をかけることだから、
それでもいいのかな。
なんかもひとつ得たいような気もするな。
あたしはもっと柔らかくなりたいよ。
本を閉じたとき、ふと付録の向田邦子の年譜をみたら、
その日はちょうど、向田さんが乗った飛行機が墜ちた日だった。
今からちょうど33年前のその日、向田さんは死んだのだ。
不思議だった。
85歳の向田さんを想像してみたけど、できなかった。
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購入
久世さんが向田さんのことをあの人と呼んでいるのがなんか艶っぽい。生前はプラトニックな付き合いだったけど、死後の思いには、それ以上の気持ちがあるように思えときめいた。
久世さんの文章が好きだと思った。
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脚本家 向田邦子と演出家 久世光彦の二十年にわたる交流を抑制の効いた筆致で、エピソードをつまびらかにしていく。「万年筆を何本もぶんどられた」といった軽妙なエピソードもあるが、多くのエピソードは枯葉色に変色し、そのひとつひとつを目を細め、愛しむようにして書かれたであろう随想記。一冊まるごと向田邦子へのオマージュであり、亡き恋人にあてた恋文の様でもある。向田邦子について語り、書かれた文章も多く存在するが、はたしてここまで描き切れる人はいるだろうか。深く愛した男はいただろうか。著者の心情が読む者の琴線に強く触れる好著。
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これは向田さんへの恋文である。
亡くなられてから何年も経ってからも、これだけの恋文を書けるだけの両人の関係の濃さを感じると同時に、向田邦子ファンとしては妬ましくもある。
恋敵の恋文を読み続ける事に嫌気を感じながらも、同時にこれだけの思いを持っている著者の気持ちに向田邦子氏が気付いていない訳がないだろうにとも思ってみたり……
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脚本家・作家である向田邦子のテレビドラマの演出家として長年タッグを組んだ久世光彦が語る彼女との思い出の数々。
あくまで仕事をメインとしたパートナーであるが故に、友人というわけでもないし、男女の関係にあったわけでもない。
そのような特殊な関係性であったからこそ語れる思い出の数々からは、向田邦子という存在を失った切実な哀しさに満ち溢れている。
自身も作家として活躍した著者の文体はシンプルかつ美しいものであり、本書の素晴らしさに未読であった小説にも手を伸ばしてみるきっかけとなった。
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長年にわたって向田邦子とともにドラマ制作の仕事にたずさわってきた著者による回想記です。
二人の関係は、脚本家と演出家の関係を出るものではなく、著者が知っているのは向田邦子の一面であることを、著者は自認しています。それでいながら、「向田さんについて、私はどんな台を出されようと、書けると思っていた。〈除夜の鐘〉だろうと、〈やきもち〉だろうと、〈選挙〉だろうと、エピソードはいくつも思い出せる」と述べる著者は、ごく些細なこととも思われるエピソードが数多く語ることで、読者が向田邦子という人物のイメージを思いえがくことができるほど、その一面を精彩にえがいています。
こうして本書に収録されている多くの回想が記されるにいたったものの、著者は「ところが、このごろはそれらのシーンに脇役として自分がいると思うと、なんだかとても書き辛くなってきたのである」と語るようになります。その理由を著者は、「あの人を書くということは、当たり前のことだが、自分を書くということであり、あの人のあの時代を書くのは、私の時代を書くことになるわけである」と説明しています。先立つ者についてくり返し回想することにつきまとうこうした悲哀がくっきりと記されたことで、鮮明にえがかれた向田邦子というひとのイメージがふっと霞んでいったような、不思議な印象を受けました。